『未来少年コナン』に寄せて
3.『未来少年コナン』に寄せて
 
LAST UPDATE 2001.5.5
『未来少年コナン』が内包するテーマとは。Southernによる解説。
 
本作『未来少年コナン』が20年前に制作されたアニメーションであり、宮崎駿氏が手掛けた作品であることは前に述べたとおりである。その後の宮崎氏の作品群を辿ると、本作を出発点として、人間社会が内包する矛盾や様々な諸問題を取り上げ、具体的に視聴者の前に提示していることが判る。例えば『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』では、人の暮らしは本来、自然の一部であり、その前提を逸脱することでいつか大きな代償を背負わなければならなくなるであろうことをドラスティックに描いているし、『魔女の宅急便』では子供の自立と自我の確立が現代社会に於いて、どの様に成されればよいかという模範を示していると言えるだろう。
現代社会が未曾有の資本主義の発展を遂げ、その体制の中で暮らす人々が利害・打算の関係に打ちひしがれ、また競争社会と成果主義という桎梏に囚われて、疲れ果ててしまった現状において、そこに露呈して来た歪みをアニメーションを通じて描こうとする試みは、宮崎氏が一貫して追究するテーマであるように思う。また、宮崎氏が常に子供を主人公に据えて描いているのは、時を経て疲弊した体制を打破し、次世代を担ってゆく若者に対する期待の表れであろう。こうした宮崎氏の姿勢は、宮崎氏自身が関心を持って主体的に描こうとしているからのみならず、宮崎氏に対する周囲の期待が強いからに他ならない。
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さて、多少前置きが長くなったが、本作『未来少年コナン』の物語は、コナンという少年を中心として、非常にきめ細やかな設定と独特の世界観に基づいた、近未来を舞台に進行してゆく。これから本作を楽しみにしている方々の興趣を削がないためにも、ここで詳しいストーリーを紹介するわけにはいかないが、コナンは世界戦争によって引き起こされた”大変動”の後に生まれ、大変動を生き残った男性・おじいに親代わりとして育てられてきた。コナンはおじいと共に絶海の孤島である”のこされ島”で木の実を採り、魚を捕らえて、自然の中で溌剌と暮らしていた。
そこに、一つの事件が発生する。一人の不思議な能力を持った少女・ラナが漂着するのだ。ラナは鳥と心を通じ合わせることができ、浜辺に倒れているラナのことをコナンに知らせたのも、一羽のアジサシであった。おじいとコナンは彼女を助け、自分たち以外の人間が地球上に存在したことを喜ぶが、その一方でラナが見せる暗い影を感じ取り、おじいは一抹の不安を覚える。
翌日、おじいの不安は的中する。飛行艇に乗って、武器を携帯し戦闘服に身を包んだインダストリアの人間が、のこされ島にラナを追ってやって来たのだ。彼らを追い払おうとしたおじいは傷つき、コナンの奮闘も虚しくラナはさらわれてしまう。ラナを助けることができず、失意のうちにおじいと共に暮らす小屋に帰ったコナンは、床に伏したおじいから初めて、おじい達が先の大変動の際に地球脱出に失敗し、9人の仲間と共にこの島で暮らし始めた経緯を聞かされる。そして、全てを語り終えたおじいは「仲間を見つけろ」という言葉を遺して息を引き取ってしまうのである。こうして、のこされ島でたった一人になってしまったコナンは、おじいの遺言に従い、インダストリアを倒してラナを助け、仲間を見つけるために、まだ見ぬ外界へ旅立って行くのである。

本作は、随所に主人公コナンの息詰まるアクションを散りばめ、あるいは旅の途中で知り合った仲間・ジムシーとの息の合った活躍を痛快に描いている。ラナを乗せて飛び立とうとするファルコの翼に飛び乗り、ラナを取り戻そうとする姿や、三角塔に幽閉されたラナを連れ出して塔を下っていくシーンなどは手に汗握る緊張感を醸しているし、コアブロックに降りたラナとラオ博士を助けるためにコナン・ジムシーが奮闘したり、ギガントに乗り移って巨大な戦闘機を墜落させようと大暴れするシーンなどは溜飲を下げる思いである。
彼らをそういった奮戦に駆り立てるのは、本作を通じてたびたび登場する”インダストリア”と言う島であり、あるいはそこの実権を握る”レプカ”と言う人物である。インダストリアは中央集権的な統治機構を形成し、市民を階級によって完全に管理下に置くと言う形で行政を行っていた。そして旧世代のシステム・太陽エネルギーを復活させ、滅びようとする旧世代の文明、すなわち現存のインダストリアの体制を守ろうと躍起になっていた。そのため、市民の暮らしを犠牲にすることにはほとんど抵抗を感じていないのである。インダストリアに初めて到達したコナンが、島の中央に聳え立つ三角塔の姿に思わず息をのむシーンなどは、こうした圧政を象徴するかのように、視聴者にも迫ってくる。また、ハイハーバーで新しい暮らしを見つけ始めたコナン達のところに、ガンボートで侵略して来るシーンなどは、突拍子もないだけに一層恐ろしい。さらに、インダストリアの実権を握るレプカは、太陽エネルギーを利用して、あの大変動を引き起こした巨大戦闘機・ギガントを復活させ、世界征服を企んでいる。このレプカの野望に対する執着は、コナンやラナに数々の苦難をもたらし、また自らに反抗する市民の額に焼き印を刻み込むといった、彼の徹底した底意地の悪さは本作の通奏低音の観さえある。こうしたインダストリア、とりわけレプカの野望を打ち砕くべく、コナン達が奮闘する背後には果たして何が潜んでいるのであろうか。

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本作『未来少年コナン』が、SFアニメーションの形式を踏まえたエンターテイメントである以上、それをどのように味わうかは視聴者の自由な裁量に委ねられている。主人公コナンの超人的な活躍を見て熱くなったり、ダイスを始めとする個性溢れる名脇役たちのギャグを楽しむことができるのも、本作の大きな魅力である。だが、さらに奥へ踏み込んでみると、「コナンの戦いの図式」が浮上してくることも否めない。
コナンは、ラナという少女をきっかけに、仲間と共にインダストリアと戦うことになるのであるが、このコナンの一連の行動を辿る時、『いちご白書』(1970年/米)という映画を彷彿とさせられる。両者はストーリー的にも類似している点が見受けられるのだが、それにもまして共通しているテーマは、弱者の強者に対する痛烈な批判であり、不正を押し通す権力に対する、市井に暮らす声なき市民の怒りである。ただ、弱者が強者に立ち向かう時、真っ向から勝負を挑んでも物理的な力で跳ね返されてしまうことは想像に難くない。本作の放映を遡ること9年前の1969年、それまで日本中を席巻していた学園紛争が東京大学安田講堂攻防戦での陥落を期に、徐々に衰退して行った。既成権力の崩壊と大学解体を標榜した学生運動も、強靱な国家権力の前に解体を余儀なくされたのである。残念ながら彼らの手法は決して美化・賞賛されるものではなかったが、それでも若い文化力が敗退の憂き目に遭ったことで、我々は権力に対しいかに無力であるかを身を以て体験し痛感させられた。本作に於いても、コナンがインダストリアによって幾度となくラナ奪回を阻止され、また理想郷・ハイハーバーがインダストリアの軍隊によって占領されるといったシーンが描かれているが、これらは前述のような体験を踏まえたものではないだろうか。

本作は、コナンやその仲間が、インダストリアあるいはレプカの侵略をハイハーバーから斥け、またその陰謀を砕くために様々な手法で奮闘し、それらがやがて一つの結末に収斂して行く。そこには追い詰められた弱者が弱者なりに知恵を絞り、強者に立ち向ってゆく姿が鮮明に描かれている。だが、彼らはインダストリアが滅亡し、レプカを死に追いやることを決して望んではいなかったように思う。コナンがギガントと命運を共にしたレプカをそこから助け出そうとしたシーンや、沈み行くインダストリアを悲しげに見つめるラナの姿は、共に変わって行こうというむしろ積極的な意志の現れに他ならない。インダストリアのいわゆる体制派の人間であったダイスやモンスリーが心を開き、コナンたちと共にインダストリアに立ち向かうようになったところなどは、まさにそうした意志の結実と言えるであろう。逆に、先に述べた学生運動が凋落の一途を辿る結果に終わったのは、彼らの変革は体制を打破することのみに向けられ、体制に暮らす人々と共に変わることを顧みなかったために、人々の賛同を得るに至らなかったためではないだろうか。
いささか話が飛躍するが、こうしたコナンたちの姿を見てゆくと、現代日本を席巻する事なかれ主義、とりわけ「中立こそ正義」という消極的発想が、近代資本主義体制が内包する歪みを放置し助長させてしまったように思えてくる。既成の体制の下で、その歪みに苦しみながらも声を上げずに暮らす人々を勇気付け、共に変革して行こうと立ち上がらせるために奔走するのがすなわちコナンの戦いの実体なのであった。
しかるに、コナンがこの戦いで勝ったか負けたかは一概には決められない。なぜなら勝敗は相対的なものであり、ギガントと共に去ったレプカあるいはインダストリアと共に沈んだ最高委員会の科学者たちは、新時代への足掛かりとなった存在として、敗北を宣言することのない領域へと旅立ってしまったからである。本作中で、死に際におじいが語る”我々は古い時代の種であり、コナンは新しい時代の芽だ”という言葉がそれを如実に表している。
こうした登場人物たちの精神の彷徨には、漠然たる正義感と、もうどうにもならないという厭世観に翻弄されながら闇雲に生きる現代人の、底知れぬ無力感と悲しみが投影されているように感じられてならない。

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本作の原作となった『残された人びと』では、機械文明への危惧を主題としてストーリーが展開して行く。しかしながら、本来機械は人間に豊かさをもたらすために長い年月を経て人間自身が獲得してきた成果である。とするならば、機械文明こそが人間の発展の証であり、避けて通ることのできない定めではないだろうか。そのことを考慮してか、本作では、ことさらその主題を強調しているようには見受けられない。それよりむしろ、本作の最も大きな主題は、体制が孕む諸問題を解決するには、体制そのものを変革して行かなければならないのではないかという現代社会に対するアンチテーゼを我々に投げかけているところにある。そう言った意味で、様々な問題が露呈してきた今こそ注目に値する作品と言えるであろう。
 
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