第三章 小学校低学年

聖愛幼稚園の敷地のすぐ裏に私が通った小学校があった。“大阪市立丸山小学校”だ。

戦後、天皇陛下が視察に来られたと言う、記念碑が正門を入ったところにあったのを覚え

ている。最近聞いた話では少子化の影響で、ここも統合を余儀なくされているとか。

入学に際し実施されたI.Q.テストの結果、私の知能指数は158であることが判明した。

1年生1学期の成績は“オール5”、勿論5段階評価である。運動神経抜群、品行方正、病

気一つしない健康優良児であった。この頃の私は、両親やおばあちゃんの期待を裏切らな

いとても良い子であった。両親もさぞ鼻が高かったであろう。この鼻も私が成長するにつ

れ低く、低くなっていくのであるが.....。

知能指数と言うのは受験者が全員同年齢、同環境で受験することが前提で、数字は社会に

出れば何の意味も持たないのである。残念ながら頭の良し悪しには直接関係ないらしい。

母もいわゆる教育ママでは無かったし、父もガミガミ言う人ではなかった。ただ一人おば

あちゃんは、私の事には熱心であったような気がする。しかしながらこの時期私は、必死

になって勉強した記憶もないし、塾にも通っていなかったし、むしろ毎日近所の友達と遊

んだり駄菓子屋に入り浸っていた記憶がある。真っ赤に染まったイカの足を食い、真っ黄

色のジュースをチュルチュル飲み、真っ青に色付けされた“当て物(あてもん)”の紙を

舐め、赤、黄、緑の3色の蜜がかかった氷を食い、たこ焼きを食い・・・よくまあ、腹も

壊さず元気でいたものだ。

私が育った松虫の家は、私が生まれた時点でもう既に築後50年は経過していた。言うま

でもなく米軍による空襲の被害も受けなかったのである。記憶を辿ってみると台所は土間

で“へっついさん(かまど)”が二つあったように思う。風呂も石の釜で表から薪をくべ

るもの、便所はポッチャン式。.....が、物心がつき始めた頃、我が家にも高度経済成長の

波が押し寄せてきた。と言うよりこの頃のバンドマンの収入は大卒の初任給の数倍あった

と言う。

台所は誰もが羨むシステムキッチン化され、それまでの石の流し台からステンレス張りの

物に代わり、風呂は桧の風呂桶を備えたガス風呂、便所に至っては洋式の水洗に改造され

た。電話が引かれ、そして庶民の憧れ“テレビジョン”がやって来たのだ。

.....と、一気に書き上げたが、2〜3年ほどかけてである。