星よりも確かな明日 1
下弦の月から降り注ぐ蒼い光を浴びた牧草が揺れ、夏の夜風が生命の息吹きにも似た草の臭いを運ぶ。男は懐から煙草に火を点けると、ゆっくりと紫煙を吐いた。
静かな夜だった。常ならば他のメンバーたちの話し声や、陽気な笑い声が聞こえる刻限だったが、その日は男を除く全員が夜の街に繰り出しているため、感じられるのは虫の音と草の上を渡る風の気配くらいのものだった。男は草の上に腰を降ろし、空を仰いだ。遠い昔に伝説となった男と女を永遠に隔てている小さな星々の群が、輝く月以上の存在感で漆黒の空を二分している。物心がつき始めた頃には既に旅暮らしを送っていた男にとって、夜空に浮かぶ星だけが不変の存在であり、常に傍らにある友でもあった。それ故男は、いつまでも厭くことなく漆黒の空に瞬く光を眺めていた。
人の気配を感じた男が素早く身を起こすと、そこには見知った少年が手持ちぶさたな様子で立っていた。
「飛葉か……。脅かすな」
「悪かったよ、世界」
「随分と早いご帰還だな。ああ、女に相手にされなかったのか?」
飛葉と呼ばれた少年が男の隣に腰を降ろし、
「飲んだくれてる女は嫌いだ。見てるだけで吐き気がする」
飛葉は吐き捨てるように言った。それから男の視線の方向を探るようにして空を見上げる。
「あんたこそ、何で連中と女を買いに行かなかったんだよ」
「仕事中は酒と女は控えることにしてる。それに、草波から緊急の連絡が入った時、ここに誰もいないのはまずい」
「任務中たって、今日の訓練は終わっちまってるし、スケジュールは予定より進んでるんだ。一晩くらい、どうってこたぁねぇだろ?」
「殺しやバイクの操縦のプロ集団を完成するまでが、俺の仕事だ。ここを離れるまで、気を緩めるつもりはない」
飛葉の視線を感じた世界は仰向けのまま、彼の隣で膝を抱えるようにして座り込んでいる飛葉のほうに顔を向けた。飛葉は世界と視線を交えると
「やせ我慢かよ?」
と問う。
「かもしれん」
世界が答えると、飛葉は視線でその続きを求める。
「大小にかかわらず、何かのヤマを抱えている時には精神的なプレッシャーを感じるもんだ。それを解消するために女や酒を選ぶ人間もいる。だが、俺は違う。それだけのことだ」
「なんで?」
「適度な緊張感は感覚を鋭くしてくれる。鋭くなった勘は些細な変化や罠の気配を嗅ぎ分ける役に立つ。危険を事前に回避して、確実にターゲットを倒しさえすれば、敵よりも長く生きることができる。簡単なことだ」
「あんたにとって酒と女は、邪魔なのかい?」
「そんなことはない。一仕事終わった後に飲む酒は旨いし、女は柔らかい身体で疲れをほぐしてくれる。……そうだな、酒と女を存分に楽しむためには、少しばかりの禁欲期間も必要だってことだ」
世界の言葉が納得しかねるのか、飛葉は憮然とした表情を向けたまま黙り込んでいる。世界が微かな笑みを浮かべ
「悪かった。酒も女も知らねぇ、子供には難しい話だったな」
とからかうと、飛葉はいかにも面白くなさそうに鼻を鳴らし
「言ったろ? 酒は嫌いなんだ。それから、俺だって女くらいは知ってる。あんまり馬鹿にすんなよな」
と答えた。
◇◇◇ 年若い者に似つかわしい、飛葉の虚勢にも似た言葉を最後に、二人の間に沈黙が降りる。
それは淡い色の花々が咲き乱れていた頃、出会ったばかりの世界と飛葉の間にはなかったものだった。プロの殺し屋として闇の世界で生きてきた世界に、誰にも負けたことがなかったはずのバイクの操縦でさえ敵わなかった飛葉は、むき出しの敵対心を世界に投げつけたものだったが、世界はそれを意に介すことなく受け流した。そして自分がいかに無力であるかを眼前に突きつけられた飛葉は、力がないが故に絶対の服従を強いられるという辛酸を嘗めることになった。負けん気の強い飛葉は屈辱をバネとし、厳しい訓練を耐え抜いた。時に降り注ぐ拳や鞭は、身体よりも男としてのプライドをより深く傷つけたが、いつしかそれは、飛葉の中で揺るがぬ精神力と集中力に変化していたのだ。やがて飛葉は少しずつ態度をやわらげるようになり、今夜のようなとりとめのない会話を交わす機会も増えた。
訓練中の飛葉は野性の獣を思わせる、獰猛な獣のようだ。足音もなく忍び寄り、獲物の喉笛に食らいついたが最後、敵の息の根を止めるまで離れようとはしない。バイクを巧みに操り、対する相手の一瞬の隙を突き、確実に急所を捕らえるその様は豹に似ている。だが訓練が終わり、仲間と休息のひとときを過ごす時には少年らしい表情を取り戻す。最年少故にメンバーからからかわれることも珍しくはないが、そんな時に見せるふてくされた顔は、まるでいとけない子供のようだと世界は思う。今夜のように膝を抱えて座っている姿はまるで、母猫とはぐれた子猫のように頼りなく見え、飛葉がまだ精神的に不安定な思春期にあることを痛感すると共に、殺人の手段を教え込んだ自身の罪深さに胸が痛んだ。
◇◇◇ 「なぁ、世界」
飛葉の静かな声が、長い沈黙を破った。
「あんたはシャバに出て、何をする?」
「そうだな……」
飛葉の問に短い言葉を返し、世界は思考を巡らせてみた。しかし闇の世界に自ら足を踏み入れた時から、生き延びること以外の全てを諦めてしまった彼には何もなかった。飛葉に返す言葉どころか、気の利いた言葉も持たない世界は沈黙を守ったまま空を仰いでいる。
「おい、俺ぁ、そんなに難しい質問なんか、してねぇだろ?」
大部分の人間にとって何でもない質問に答えられないことに気付いた世界の胸中に、苦々しい感情が広がる。闇の世界に生きていた時にはただ生き延びることだけを考えていた。死刑の執行を待つだけの塀の中では、ただ月日が過ぎていくのを見送る他なく、そしてワイルド7のメンバーとして活動することと引き替えに自由を得た今も、自分が何も持っていない事実を突然突きつけられ、狼狽えている自分自身が不甲斐なく感じられる。
「言いたくないなら、いいんだ。何となく、聞いてみたかっただけだからよ」
少し気落ちしたような声で、飛葉が言った。
「飛葉。お前は何をするんだ?」
「俺はとりあえず、旨い飯を食う。で、仕事」
「俺たちの仕事は、楽しいもんじゃないぞ」
「わかってる。けどよ、悪党どもの首を捕れるのは、悪かねぇ。少年院からシャバに出るとよ、世間の奴等ぁ冷てぇんだな。昔の俺の仲間たちもひどい目に遭ったもんだ。慈善家だ、名士だって言われてるヤツらは大抵、前科者に辛く当たんだよ。裏じゃ悪どいことしてるクセに、正義漢ぶってたりしてんだな。そいつらに一泡ふかしてやるのは、絶対おもしれぇぜ。そうは思わねぇか?」
「単純なヤツだな」
僅かな笑みを含んだ世界の言葉に、飛葉が拗ねたような表情を浮かべた。世界は身を起こし、飛葉の肩を軽く叩くと
「ま、お前らしくていい」
と言った。そして
「そうだな、俺は……訓練が終わったらねぐらを探して、ゆっくりと昼寝でもするさ。ムショじゃ何から何まで自由にならなかったからな」
と、先刻の飛葉の質問の答を返す。すると飛葉は
「なんかさ……年寄り臭せぇぞ、それ」
と、笑った。