邂 逅 ―7―
翌朝、飛葉は普段と変わらぬ様子で洗面所にいた。寝癖で鳥の巣のようになっている頭のまま腰に手を当て、ガシガシと左右に歯ブラシを動かしている様は、まるで起き抜けの子供のようにも見える。
「今日は目玉だ」
と、飛葉が言い、
「わかった」
と、世界はいつもと同じ調子で答えた。
◇◇◇ 牧場での訓練を開始して以来、洗面所や風呂場、便所などの辺りで目にする様子で小生意気な少年の調子を窺うのが、世界の朝の習慣に加わって早一月。力と機転の早さだけを武器に生きてきたためか、駆け引きを好まない質に生まれついているのか、飛葉には感情を隠そうとするだとか、言葉の遣り取りの中から相手の出方を探ろうとする素振りさえ見せない。ストレートな言葉と剥き出しの感情を真っ正面からぶつけてきたかと思えば、世界の態度に心底腹を立てていることをあからさまに晒した挙げ句、全てを拒絶するような態度に出たりもする。それでも僅かでも自分のほうに非を認めると、極めて素直ではないやり方で、傍目からはとても譲歩とは思えない、けれど飛葉らしい和解の姿勢を示す。その一つが食事当番の遂行だ。
腹の虫が治まらない時、飛葉は自分からやると言い出した食事作りを一切しようとしない。どうにかすると一人分の食事だけを作り、私室に持ち込んで一人で食べてしまう。そんなあまりにも幼いやり方で翻される反旗に呆れた世界は沈黙を守り、インスタントラーメンを作り対抗した。任務中は特に食に対するこだわりが弱くなる世界にとって、味気ない同じ食事が続くことは苦にならない。そのため飛葉が機嫌を損なっている時には同じ屋根の下、ほぼ同じスケジュールで行動していながらも、彼らは訓練の時以外に顔を合わせることが皆無になることも少なくない。そういった状態が何日続こうとも世界の態度が全く変わらないことに業を煮やしたのか、自身の大人げのなさに思い至ったのか、いつの頃からか飛葉が食事当番を放り出すことはなくなり、世界が課した課題を黙々とこなすようになっていた。それでも時折、単調なトレーニングに嫌気がさすと飛葉は癇癪を起こし、世界はその爆発的なエネルギーを一旦受け止め、飛葉の中に溜まりに溜まった感情を流すことを繰り返す。
それが彼らの日常でもあったのだ。
◇◇◇ 洗濯機を回している間に身繕いと簡易給油場でガソリンの残量を確かめ、バイクの簡単なチェックを済ませた世界は、洗濯物を干しながらその日の訓練の予定を組み始める。それも訓練が始まってから加わった、世界の新しい習慣だった。
先刻の飛葉の様子を見る限り、昨日の諍いを根に持っている様子はない。精神の安定性を必要とする射撃訓練も問題なく行えるだろうが、そろそろ一つ上の口径の銃を与えるべきか。拳銃ではなくショットガンやライフルといった長い銃身を持つもので気分転換を図っても悪くない。飛葉の状態さえ安定していれば、その選択を委ねてもいいだろう。
晴れ渡った青空に似つかわしくないことこの上ないことを考えながらも、長閑にも洗濯物をロープにひっかけているかぎりには、硝煙とバイクのエンジン音に支配されるだけの日々が既に始まっていることさえ絵空事のように思われた。
肌が軽くヒリつくような緊張感の中、飛葉の身体の中に眠る力を引き出し、その限界を探る過程を楽しんでいる自身を自覚しながら、彼はかつて身を置いていた世界に思いを馳せる。
全身の関節が、筋肉が、神経が悲鳴を上げるまで自身を追い込み、更にその上を目指そうとした季節が確かにあった。根拠など何一つないというのに、陽の射す方向に未来があると信じていられた平和な頃――思い煩うという言葉の意味さえ知らなかった季節に見上げていたのは、昼間は薄暗く埃の臭いの立ち込めた、けれど夜には人工の灯りに煌々と照らされる天幕の鮮やかな色であり、浮き草稼業の無聊を慰める星空であり、どこまでも続く青空の下にあった日々――それらが世界の中の十代の記憶である。
全ての可能性を無条件に受け入れ、疑うことなく信じることのできる、瞬く間に過ぎ去ってしまった短い時期を取り戻すことはできない。その輝かしい季節のただ中にあり、訓練の成果を着実に身につけ、日々成長を遂げる飛葉の姿を目にするにごとに世界の胸中に苦々しい感情が湧き上がり、消すことのできない小さな染みへと変わる。広がることはない、けれど確実に濃さを増すその影に潜む後ろめたさを無視することもできない世界は、なすべきことを遂行する以外の一切に目を逸らすのみだった。
「いつまで洗濯してんだよ、飯が冷めるじゃねーか、とっとと食っちまえ。こっちだって片づかねーんだよ、グズかよ、てめー」
我知らず、思考の迷路に迷い込んでいた世界を、飛葉の罵声が現実に引き戻す。世界は洗濯篭を手に取ると苦笑いを浮かべた。