七夜目の真実―Side of two persons 1st―
目を覚ました途端、飛葉は激しい頭痛に襲われた。ずきずきと痛む額を抑えた右の手首には、ナイロン製の登山用ザイルが巻かれている。手首から下がったロープの先はがっしりとした造りの木製のベッドの足の1本に結ばれており、同じ場所から伸びた3本のザイルは左手首と左右の足首に続いている。飛葉は左右の手首と足首の関節を順にゆっくりと回してみたが、血液の流れを遮ることのないように作られたゆとりは手足の拘束を解くには小さすぎた。ベッドの上で半身を起こした飛葉は、慎重に周囲の状況に目を配る。衣服は全てはぎ取られ、一糸纏わぬ姿となっていたが、新しい外傷は見あたらない。ベッドのマットレスには清潔なシーツが掛けられているが、身体を覆う毛布やケットの類は一切なく、枕は病院の診察室に置かれているような蕎殻の入った簡素なものだった。漆喰らしきものが塗り込められた壁は殺風景極まりなく、天井近くに切られた天窓が飛葉のいる部屋が半ば地下に位置していることを示している。ベッドの上に立ち、身体を伸ばしても天窓に手は届きそうにもなく、足場に使えそうなものもない。天窓の大きさは20センチ四方といったところだろうか。それらが部屋の四隅に設けられているために、室内は地下室とは思えないほどに明るかった。窓ガラスの外側は、ゴミなどの流入を防ぐための親指の先程の大きさの六角形に針金を編んだ金網で覆われており、窓の桟には朽ちた枯れ葉が重なってできた濃い茶褐色の塊が見える。
飛葉は頭痛を堪えながら床に降り立ち、白い陶器製の洗面台へ向かう。洗面台の上には真新しい歯ブラシと歯磨き粉が置かれ、その隣には洋式の便座とトイレットペーパー。それほど新しいとは思えない造りの部屋に、まだ珍しい洋式の水洗便所はあまり似つかわしいとは言えない。飛葉は便座の縁に登ろうとしたが、手足につながれたザイルに行動を制限されているために片足だけしか、それも不安定な形でしか乗せられず、上部の貯水タンクを破壊して武器を自作することは断念せざるを得なかった。洗面台の下には籐製の小さなちり箱が一つ置かれているだけで、武器や刃物に使えそうなものはない。ザイルの許す行動範囲は洗面台と便所までで、古びたオイルヒーターや掃除道具などは飛葉の行動半径の外にまとめて置かれている。当然、唯一の出入口である見るからに頑丈そうな木製のドアには届きそうもない。
飛葉はベッド側に戻り、マットレスを持ち上げようとしたが、中心部に藁が仕込まれている旧式の硬いマットレスを持ち上げるのは容易ではなく、シーツだと思われた生地はマットレスの表面に張られた布地でしかなかった。これではシーツの中に人間ほどの大きさの何かを仕込むなどして敵の裏をかく脱出計画を実行することはできない。マットレスの下に渡された板は相当に厚く、拳で打ち破れはしないだろう。当然、ベッドの足に使われている角材も、道具なしに折ることも切ることも不可能だと考えたほうが妥当である。現時点では打つべき手段が何一つないという結論を出したこ飛葉は仰向けにベッドに寝そべり、記憶の糸を手繰り始めた。
ここ数日、任務から解放されていたワイルド7のメンバーは、それぞれの平和な休暇を楽しんでいた。昨日はいつものように仲間たちとボンでコーヒーを飲み、閉店時間に皆で店を出た。特に用事のない時には、飛葉のアパートの近くに住む世界と共に帰途につくのだが、その夜世界は八百たちと飲みに行ったため、飛葉は一人でアパートまで歩いて帰った。
「特に変わったことはなかった……か」
飛葉は再び思考を巡らせようとしたが、目覚めた時から断続的に続いている頭痛が邪魔をする。一旦休息をとり、頭痛がある程度収まるのを待つほうが得策だと考えた飛葉は周囲の物音や気配をうかがってみたが、人どころか犬猫の気配さえも感じられない。おそらくドアの向こうには見張りもないはずだ。見張りがないということは、とりあえず現時点では、それほど切迫した状況ではないと判断しても間違いではあるまい。死の危険にさらされていないわけではないが、現状を打開する手だてが何一つない今は、体力の消耗を防ぐためにも眠る方がいい。飛葉はそう決めると、ザイルにつながれたままの四肢を伸ばして瞼を閉じた。
◇◇◇ 空腹を感じた飛葉が目を覚ました時、室内は薄闇に包まれ、ドア近くの裸電球が室内を申し訳程度に照らしていた。ソケットの付近にスイッチが見当たらなかったため、電球は日暮れと共に外部から点灯されたのか、或いはタイマーを作動させたかの二つの可能性が考えられたが、飛葉を拘束しているザイルの長さなどが周到に計算されていることから、飛葉を軟禁している人間は緻密な計算ができる人間だと考えられる。よって、室内の照明はタイマーなどで操作されていると考えた方が妥当だと飛葉は断定した。
不意に微かな音が飛葉の鼓膜を振るわせた。気配ほどにしか感じられない音が徐々に近づく。それが人間の足音であること、その調子から足音の主が成人男子であることを察した飛葉の全身に緊張が走る。鍵穴が耳障りな音を立て、次いでいくつかの閂が外される音が聞こえた後、ゆっくりとドアが開いた。
「こんばんわ。飛葉君」
手篭を下げた男が一人、ぎこちない笑みを浮かべている。
「お前……何故、俺の名前を知ってる」
「君のことなら、なんでも知ってるよ」
重量感のある音と共に扉が閉じられた。男はドアのすぐ横の壁をしばらく見つめた後、
「室温は24度。寒くはないと思うんだけど、どうかな?」
と飛葉に問う。しかし飛葉は無言で男を睨むだけだった。
「寒くは……ないようだね」
男は飛葉を子細に素早く観察すると、微かな苦笑浮かべながら言う。
「何でも知ってるって言うだけはあるな」
飛葉の当てつけのような口調に、男の表情が曇る。
「俺のことなら、なんでも知ってるって言ったな」
「ああ、知ってるよ」
「聞かせてみろ」
縋るような面持ちになった男が一つ一つの言葉を確かめるような、途切れがちの口調で話し始めた。しかしそれは最初だけで、男の言葉は次第に滑らかな調子に変わり、その表情さえも明るいものへと移っていく。
「行き着けの店は表通りのスナック・ボン。よく7人一緒にいるだろう? それほどの開きはないみたいだけど、みんな年齢がバラバラのようだから、彼らは職場か何処かで一緒にいる人たちだね。職業は……時間なんかがかなり不規則みたいだから、何かの技術職に就いてるんじゃないかい……そう、例えば大がかりな事故の処理を請け負うような。仕事がいつ舞い込むのか、終わるのかもわからない。もちろん、その難易度も予測することは不可能で、君たちは他の人間には手に負えない高度な専門技術を使って、事態の収拾に当たっている。ああ、仕事については君たちの様子を見て導き出した、僕の推論でしかないんだけど、でも、遠からずという気はしてるんだ。飛葉君のアパートは――町の松ノ湯のすぐ近く。そう、銭湯と部屋は歩いて2〜3分くらいしか離れていなかったね。仕事がない時はボンで仲間と一緒にいることが多い。オートバイでどこかに出かけることもあるみたいだけど、仕事の性質上、私用なんかで3日以上部屋を空けることはまずない。そうそう、君は自炊をしていて、必要な買い物は殆ど近くの商店街で済ませてる。乾物屋でいつも買うのは削っていない鰹節。自分で削るくらいだから、必要に迫られて自炊をしているといったレベルじゃないね。どちらかというと趣味的な要素が強いんじゃないかい? それから……」
男が語る言葉に、飛葉は驚きを隠せなかった。しかし驚きは次第に恐怖めいたものへと変わる。普段、飛葉が気に留めてなどいない習慣を口にし、行動を共にすることの多い仲間たちの風体などから推論されたという――それは核心に到達しているとは言えなかったが、決して誤りではない――職業を、立て板に水といった具合に次々と話し続ける男の口調や表情は無邪気そのものだった。そして、そこには殺意や敵意といったものは全く感じられない。それが何よりも不気味に感じられる。
飛葉が無言で男を見つめ続けていると、男は不意に何かを思い出した様子で言葉を切った。
「あ、ごめんね。僕だけが話してばかりで……」
「生憎、お前に話すようなことはねぇよ」
飛葉の素気ない態度に、男はひどく傷ついたような表情を浮かべたが、気を取り直すように、努めて明るく飛葉に話しかけた。
「お腹、空いてるだろう? 夕食を持ってきたんだ」
男は手篭を差し出したが、飛葉は受け取ろうとはせず、男を見据えたまま黙っていた。室内に気まずい沈黙が満ち、差し出した手を戻すこともできない男は、居心地の悪そうな表情を浮かべたまま立ち尽くしている。飛葉の厳しい視線に耐えられなくなった男は足下に視線を落とす。時折、男は縋るような視線を飛葉に向けて意思の疎通を図ろうとするのだが、飛葉の絶対の拒絶の前にはなす術もなかった。
「毒が盛られてるかもしれないものを、俺が食うとでも思ってるのか」
飛葉の言葉に弾かれたように、男が飛葉に足早に歩み寄る。男が登山用ザイルに制限された行動半径内に入ると同時に、飛葉は男の腹に蹴りを入れた。突然腹部に受けた強い衝撃に男は床に崩れ落ち、身体を折り曲げて呻き声をあげている。飛葉は男の顔を無理矢理上げさせると、不敵な笑みを浮かべた。
「隙だらけだな。俺に薬を使ったな?」
「クロロホルムを……少し……」
「それから?」
「車……で……家に……」
「なるほどね」
飛葉は深呼吸を一つすると、余裕を窺わせる口調で更に男を問い詰める。
「さぁ、ここからが本題だ。おい、お前。一体何のつもりだ」
苦悶の表情を浮かべている男に顔を近づけ、凄みを効かせた声音で飛葉が訊く。すると男は満面に笑みを浮かべて
「君と友達になりたいんだ」
とだけ答えた。