闇の道連れ 1


 京の夏は暑い。四方を山に囲まれた地形のため、昼間の熱気は日が暮れても冷めやらず、夜半を過ぎても蒸すような暑さが続いている。時折吹く風も熱気を孕んでいるせいか、汗ばむ肌を撫でられても唯不快に感じるばかり。少しばかりの涼を求める気持ちは誰もが同じと見え、庭に面した縁に一人二人と人が集まり、終いには遠い所用で舘を留守にしている舘の主・景時を除く八葉と白龍、白龍の神子である春日望美が顔を揃え、他愛のない雑談に興じるに至る。

◇◇◇

 望美は後悔していた。早々にこの場から離れなかった自分が、今はただただ悔やまれてならない。

「日々やつれていく高僧の姿に、寺の者は人ならぬ力を感じたのでしょう。誰ともなく、そっと高僧を窺うようになったんですよ。そしてある夜……そう、間もなく朔日を迎えようとする細い細い月の夜に、再び掻き消えるように彼は皆の前から姿を消した。寺の者達が全員で、それこそ寺の隅々まで彼を捜したのですが、結局は見つからなかったんです」

静かな弁慶の語りに、誰かが息を飲み下した。

「結局、夜明け頃、その僧侶は見つかったそうですが、それはもう、言葉にするのもおぞましい姿を晒していたのだとか。既に訪れる人もない墓の盛り土に生きながらに埋もれ、袈裟の端が僅かに見えるだけで。人々が急いで土をのけると、僧侶の身体には夥しい数の髑髏が絡みついていたそうです」

 ヒノエが灯心を少し摘んだ分だけ、室内の闇が濃くなる。まだ人の顔は見えるけれど、このまま物語が進めば、百話目の怪談が終わる頃には周囲は完全な闇に包まれる筈。そろそろ部屋に戻ろうと望美が意を決した時、

「なぁ、譲は何か、ネタないの」

と、ヒノエが尋ねる。

「“学校の怪談”でよければ」

「“学校”って?」

「学問だとか運動だとかを習う場所だよ、白龍。七歳頃から十八歳くらいまで、男女に関係なく、殆ど毎日通うんだ」

「学問所ですね。けれど、そんな場所にも怨霊や物の怪が出るんですか?」

「人がいる時は賑やかですが、学生がいなくなればひっそりとしていて、まるで別世界のような印象になるので、題材にしやすいんだと思いますよ」

「大勢の人が集まる場所なら、情念が残りやすいのかもしれませんしね」

「弁慶も譲も、蘊蓄はそれくらいにしてくれよ」

言いながらヒノエは、譲に見知らぬ世界の物語を催促する。譲はしばらく思考を巡らせてから、話し始めた。

「俺達が生まれるずっと前に、俺達の通っていた学校の水飲み場で……」

 譲が学校の怪談を語るであろうことは予測できたが、まさか舞台が懐かしい母校だとは思いも寄らず、望美は心の中で叫んだ。

(譲君のバカーーー! もう、学校に行けなくなるじゃないの!! てゆーか、あの学校にそんな話あるなんて知らないよーーーーっ!!!)

 粛々と譲の語りは進む。

 譲が語り終えると、ヒノエが熊野に伝わる不可思議な話を始めた。それは譲の話に少し似ているからとヒノエが語ったのだが、そのすぐ後に“そう言えば……”と弁慶が、山伏の間で囁かれていた噂を披露する。話の合間に立ち上がるきっかけがないわけではない。けれど未だ慣れない正座を長く続けたせいで痺れきった足では、その場から引き上げることもできず、何とかずらした常態に戻った時には、情けなくも腰が抜けて立てなくなっていた。故に望美は意に反し、怪談話を全て聞くハメになったのだ。

◇◇◇

 やがて、限りなく小さくなっていた灯火が消され、部屋の中は闇に包まれた。一瞬の沈黙の後、再び灯心に火がつけられると、居合わせている全員が安堵の表情を浮かべる。

「結局、何もなしか」

期待はずれだと言いながら、ヒノエが欠伸をしながら上半身を伸ばす。応えるように譲が

「百物語の最後に起きる不思議なことは、集団ヒステリーによる共通幻想によるものだと、俺達の世界では言われていますよ」

と言う。

「“ヒステリー”とは何ですか、譲君」

「神経が、必要以上に高ぶった状態……とでも言うのかな。とにかく精神的に興奮して、それが周囲に伝わって、居合わせた全員が似たような心理状態になるというか……」

「それで同じような現象を見てしまう……と」

弁慶が納得したように頷くが、九郎はと言えば些か腑に落ちない表情を浮かべている。

「わからんな」

「九郎は、今の話がつまらなかったのか? 私は聞いたことがないものばかりだったから、とても楽しかった」

白龍の問いに九郎は

「それなり興味深くはあったが、恐ろしくはないな。だいたい、そういう話は闇の中の見間違いや勘違いだろう。こちらに襲いかかる怨霊なら話は別だが、ただの物語のどこに恐れる理由があると言うんだ」

と、にべもなく言い捨てた。

 その言葉に異を唱える者があれば、その場の雰囲気を素直に楽しもうとはしない生真面目さを無粋だと表する者もいた。

「もう夜も遅い。皆、寝仕度をした方がいい」

静かに告げるリズヴァーンの声に、皆が腰を上げようとした──その時、か細い女の声が聞こえた。

「置いてかないで……」

 見れば座り込んだままの望美が、おそらく最も身近にいた九郎の直垂の袖を、しっかと両手で掴んでいる。見開かれた目は僅かに潤み、心なしか顔色も冴えない。

「オバケ出るかも知れないから、置いてかないで……」

「お前は子供か!! バカなことを言ってないで、袖を離せ」

呆れたように言ってから、九郎は袖を引いて望美を引き離そうとするのだが、思いの外強い力で抗われてしまう。

「離せと言っているだろう」

「いや! 私も皆と一緒の部屋で寝る!! というか、そっちで寝かせて、お願い!!!」

「お前は、馬鹿か! いくらお前でも、男ばかりの部屋で寝かせられるものか!!」

「だって、だって、怖いんだもの、しょーがないじゃない!!」

お願いだから、この通りだからと言う度に、望美に半ばしがみつかれた直垂が強い力で引かれて、立ち上がりかけていた九郎が片膝をつく。

「先輩……さすがに、それは……」

「譲君に言われたくない! だって、ひどいじゃない! 私、向こうに戻ってももう学校に行けないよ!! 水飲み場であんな怖いことがあったなんて……!!!」

「知らなかったんですか? あれは有名な話じゃないですか」

「怖い話が苦手だから、避けて通ってたんだもん!! なのに、あんな話するなんて、譲君、いくら何でもひどすぎ!!! 信じらんないっ!!」

 望美がオカルト嫌いだと知っていたなら、こんな話に乗ったりしなかったものをと、譲は臍を噛んだ。しかし時は既に遅く、自分と目を合わせようともしない頑なな望美の態度に、譲は奈落の底に沈み込んだ気分になった。

「俺の隣なら、空いてるぜ?」

重苦しい空気をものともせず、ヒノエが言う。

「ヒノエ君?」

「望美のためなら寝ずの番だってしてやるぜ? だったら……怖くないだろ? 一晩中、お前の夢路を守ってやるからさ」

「それは、違う意味で危険だと言えそうですね」

弁慶が他の者達の意を確かめるように言うと、暗黙の了解とも言える溜め息があちこちで聞こえる。

「でも、それでオバケが出なくなるなら……」

「先輩! それだけは駄目です!!」

「うるさいよ、譲。望美を怖がらせた無粋な野郎は引っ込んでな」

「何だと!!」

「やめなさい、二人とも」

いつもの小競り合いを始めそうな譲とヒノエを、リズヴァーンが制した。

「何故……神子は、このような話が苦手なのだろうか。怨霊には臆することなどないあなたなのに……」

「だって、外にいる怨霊は封じることができるじゃないですか。でもお話の中の怨霊とか幽霊とかそんなのは封じることができないのに、頭から離れないんだもの……!! で、絶対に後から夢に出てきて、怖いのとびっくりするので目が覚めて……そしたらもう、怖くて怖くて朝まで寝らんなくなっちゃうんです」

 怖くて眠れないのは我慢するから、せめて一人にしないでくれと懇願する望美の姿に最初に折れたのは九郎だった。

「誰か、几帳を運んできてやれ。それから、望美が眠る場所を……おい、廊下側と奥のどちらだ?」

「え……と……廊……下?」

「よし。弁慶、こちらは任せる。望美、夜具を運ぶぞ」

「え……九郎……さん?」

「何だ? まだ腰が抜けて動けないのか?」

「それは、大丈夫だけど……いいの? そっちで一緒に寝かせてもらっても……」

「こちらの言い分をお前が聞かない以上、議論を続けるのは時間の無駄だ。ならば、さっさと動くしかないだろう」

 そう言い置いた九郎は望美の腕を掴み、面倒事はさっさと済ませるに限りと言わんばかりに渡殿を進む。その後ろ姿になす術もない譲は弁慶と共に几張を借りに行き、リズヴァーンの指揮で広間状に間仕切りを外した室内に夜具が並べられる。やがて夜具を担いだ九郎と身の回りのものを抱えた望美が戻ると、彼らは寝支度を整えた後、極めて平和的に床に就いたのであった。



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