耳掃除
待つことには慣れている。高校生として生きていた頃も、待たされるのは苦にならない質だった。歴史の授業で習った筈の源平合戦と似ていながらも明らかに異なる戦が始まろうとしている世界に迷い込んでからは、特にその傾向が強くなっている。固定電話や携帯電話もなければ、生まれた時から慣れ親しんでいる郵便制度もない。テレビやラジオといった情報媒体などは論外という状況では、ちょっとした情報を集めるのも人に会うのも、まず待つことから始まるのだ。
適当な誰かからの紹介を得て、まずは会見の申し込みを行う。相手によっては、その前振りや時候の挨拶を認めた書状を送って御機嫌伺いをして、ようやく会見ができると思っても、訪ねた邸で散々待たさるのは当たり前。相手が気まぐれだったりする場合は、待ちぼうけを食わされて終わることも珍しくはない。誰かを待たせることで優越感を得る人間もいれば、辛抱強く待つ人間だけを信頼する慎重な者があり、ひたすらに忍び耐える性格が悪し様に嗤われることもある。待たせ、待たされる時間が有利な展開を生む駆け引きの場になり、その腹の探り合いが勝機を掴むきっかけとなることもあるので、待つことは決して無駄ではない。
そして有川将臣は春爛漫の京で、貴人からの返事を待っている。
人を待たせることに何の呵責も感じないだけでなく、時と場合に応じて易々と態度を変える狸親爺が相手となれば、長丁場は覚悟の上。それに、待たされるのも初めてではない。男も女も、私事も政も策謀も、いくらかの手間暇をかけた方が上品だと考えているに違いない高貴な俗人は、万事において取り敢えずインターバルを取りたがる。それを承知しているからこそ危険も顧みず、単身、春の京に紛れ込んでみた将臣だった。
思いもかけずに再会した弟の譲と幼馴染みの春日望美の安否を確認できたのは、ただ待ちぼうけを食わされるだけに終わるかも知れない日々の中で、偶然に得た僥倖。何だかわからないままに龍神の神子を務め、怨霊を封じて回っているのだと近況を語る望美達は、時空の狭間に飲み込まれた時と変わりはなく感じられたが、再会した時の二人の驚きようからは、既に流れてしまった三年余りの歳月を改めて思い知った将臣だった。
それでも暢気な望美と、相変わらず望美の心配ばかりしてる譲の姿に、知らぬ間に乾いていたらしい心が少しずつ潤うのが感じられる。自分が龍神の神子とやらを守る八葉の一人だと言われた時は多少驚きはしたものの、京にいる間は付き合うと約束して以来、梶原景時と朔兄妹の京邸の居候を決め込んでいるわけだ。
望美や譲が行動を共にしている仲間達は気の好い人間が多く、梶原邸での暮らしは快適そのもの。適度な厚意と無関心のお陰で、単独行動も自由にできる。世話になっている間はと、それなりに八葉の務めも果たしてはいるが、それ以外の時は至って暢気な時間を、将臣は過ごしていた。
◇◇◇
太刀を研ぎ終えた将臣が部屋の端近で庭を眺めていると、渡殿を聞き慣れた足音が近づいてきた。名前を呼ぶ声に振り返ると、上機嫌の望美が立っている。
「ねぇ、耳掃除、してあげよっか」
「はぁ? 何だよ、急に」
「ほらほら、見て。九郎さんに作ってもらっちゃった」
後ろ手に隠し持っていた耳かきを、嬉しそうに示す笑顔に釣られてつい、将臣も笑ってしまう。
「九郎が? アイツ、見かけに寄らず器用なんだな」
「リズ先生が木彫りのお師匠なんだって。身の回りのものなら、だいたい作れるって言ってたんだけど、この世界っていうか、この時代だとまだ耳かきってないんだね。作ってくれることになったのはいんだけど、うまく説明できなくて。それに九郎さんてば気が短いから、すぐに口喧嘩になっちゃうし……」
「九郎もお前も、喧嘩っ早いのは、目くそ鼻くそだろ?」
「五十歩百歩って言いなさいよ、下品だなぁ、将臣君は」
「下品だぁ? お前が言うか? お前がよ」
大声で笑う将臣から少し離れて正座した望美は、
「さぁて、お兄さん。女子高生の膝枕付きの耳掃除、どう? 今ならタダ!!」
と、言いながら、掌で軽く足を叩く。その楽しげな様子に肩を竦めて見せた将臣は、相も変わらず無邪気な幼馴染みに請われるままに、揃えた膝に頭を乗せた。こんなところを譲に見られでもしたら大騒ぎになるだろうと思いながらも、その時はその時で何とでもなるだろうという気分で眺める庭は、先刻とは異なる趣を見せる。
角度の違いで印象が変わるのは風景だけでなく、人間も自分の立ち位置次第でまるで別人のようだと、将臣は思った。ひどい評判を伝聞でしか知らない男が好人物だったり、慎重だと評判の者が単なる物臭男だとか、善人だと聞いていた人間が単なる八方美人で驚かされることは珍しくない。もっとひどいのは深窓の姫君で、花も恥じらう美女だと噂されてていたとしても、御簾越しで会うばかりでは、その真偽の確かめようもないわけだが。それに比べれば幼馴染みの望美は、化粧をしていない実物を、真昼の太陽の下で見られるというだけで、それなりに見えないわけでもない。
膝枕で耳掃除という、ある意味では男のロマンを実現したかのようなシチュエーションに恵まれても、互いに何歳まで寝小便をしていたか知っている、物心がつく前からじゃれ合いながら育った望美が相手では、何の感動も感慨もないのだ。正直なところ。
それなりに着飾れば、それなりに見られる女だとは思いはするが、如何せん色気が皆無に近いのが望美の致命傷だと、まるで娘を持つ父親の気分に浸っていると、いきなり左の耳に痛みが走る。
「……っ!! 望美!! お前、何をする気なんだよ!!!」
「あ、ゴメン。痛かった?」
「ゴメン、じゃねーって! 耳、もぎ取るつもりか?!」
軽い口調で詫びる望美を見上げれば、子供の頃と同じ照れ笑いがあった。笑いながら望美は、白龍の宝玉を触ってみたかっただけだと言う。その理由に呆れながらも、別に減るものでもないからと、将臣は望美の希望を叶えてやることにした。
「こんなもん、さわったってしょうがねぇだろう」
「えー、そうでもないよ。実はさわるの、初めてなんだよね。見た目でグミっぽいかと思ったんだけど、案外硬いんだ。プラスティックっぽいっていうか……あんまりガラスっぽくもないし……石って感じでもないよね、これ。将臣君はさ、どんな感じ? 痛いとか、くすぐったいとか」
「意識するのは頭を洗う時くらいだからなぁ。術を使う時は、熱くなる……かな」
戦いの時は余裕がないこともあり、いつの間にかできていたせいか普段は気にならないため、あまり記憶にないのだと答える将臣の左耳を、望美は飽かず、子供のように触っている。それくらいならば文句はないのだが、指先で転がすようにしてみたり、揚げ句、痛くない程度に引っ張ったり、“ギョーザ”など言いながら、宝玉ごと耳を押さえつけたりと、やりたい放題だ。
そう言えばと、二人乗りしていた自転車のブレーキがいきなり壊れて、崖から砂浜に頭から突っ込んで、擦り傷だらけになった幼い頃の記憶が、不意に蘇る。
「剥がすなよ、それ」
「どういう意味、それ?」
「お前、瘡蓋剥がすの、好きだったろ」
「ていうか、剥がせるの? これ」
試してもいいかと、ソワソワする望美を押しやりながら、将臣はゆっくりと身を起こした。
「試すなって。取れたら、どうすんだよ、取れたら!」
「大丈夫だってば! ポロって落ちても、将臣君は八葉だから、すぐにくっつくんじゃない?」
「だーかーらー!!」
「いいじゃないの! ほら、男の子がケチケチしない!!」
半ば本気の力で望美の肩を押した将臣が、盛大な溜息をつく。
「そんなに宝玉で遊びたいなら、ヒノエのデコでピンポンダッシュでもやってこい! あいつなら、好きなだけ付き合ってくれるだろうよ。だいたい、何で俺なんだよ、何で!! 他にも八葉はいるだろうに」
「色々と事情があるのよ、事情が」
「どんな事情だよ、どんな」
「そゆことするとさ、色んな意味でタダじゃ済まなさそうじゃない、ヒノエくんって。それに首もとの宝玉って、ちょっとエッチな気がするのよね、さわらせてもらうには。だから譲君と景時さんもパス。リズ先生だと申し訳ないし、弁慶さんには手を握られそうだし、敦盛さんは安心だけでシャイな人だし、何となく悪いことしてるような気分になりそうでしょ?」
「九郎はどうなんだよ、九郎は」
袖を勢いよく捲り上げてやればいいんだという将臣の言葉に、
「普段着でも何枚も重ね着してるのよ? 絶対、無理だって。それに九郎さんてば、この手の冗談、通じなさそうだし」
と、望美は唇を尖らせながら答えた。
“まったく、しょーがないヤツだな”と言いながら、将臣は望美の膝枕で耳掃除の態勢を取る。
「無茶すんなよ。あと、剥がすの禁止な」
「わかってるって。サンキュ、将臣君」
再び長閑な春の昼下がりが戻ってきた。
上機嫌の望美は、藍色の宝玉にちょっかいを出しながら、将臣の耳掃除をしている。
将臣は肉親のものに近い体温を感じながらも、やがて訪れる別れを予感していた。今生の別れになるかも知れないそれへの覚悟はできている。だが、その瞬間が訪れる時までは、今ここにある平穏を潔く甘受するのも悪くないと、将臣は静かに瞼を閉じた。
ヒノエのあれでピンポンダッシュをしたいのは、私です。
天の青龍のあれを、心ゆくまでいらい倒したいのも、私です。
ついでに瘡蓋みたいに、剥がせるかどうかもやってみたいです。「はるとき3」の場合、青龍コンビと望美の関係に色気が感じられないというか、
どうしても兄妹とか幼馴染みとかの色気のない方向性に向いてしまいます。
や、個人的には誰と誰がくっつこうが気にならないといいますか、
誰とでもくっついてもらってけっこうなんですよ、ええ。
相手が熊野の先代棟梁でも平泉の秀衡じいちゃんでもオッケーです。HOME 版権二次創作 はるとき