灌 木


 生い茂る灌木の群の中を先に進む男の名を呼ぶと、彼は振り向きもせずに言う。

「いいんですよ、君になら」

「何が……何がいいんですか、弁慶さん」

「正義漢が強い君に、僕を許せる筈がない。そうでしょう?」

ならば今、ここで自分を亡き者にするといい。そう告げた弁慶の面には、無表情という名の微笑みが浮かんでいる。

「八葉は龍神の神子を守るべき存在。けれど、神子に仇をなそうとするのであれば、処断されて然るべきだ。だったら……そう、僕としてはやはり、最期くらいは伝説の神子の手にかかりたいと望んでしまうんですよ。封印を施す必要のないただの人の身では、その資格はないかも知れない。でも封印の手間が省けるということは、その白い手を煩わせる回数が多少なりとも減じられるわけですから、取るに足りない人の身も悪くないと思いませんか? 君の優しい、そして毅然とした一太刀は怨霊に安らぎを与える──ねぇ、望美さん。同じものを、僕にもくださいませんか?」

 不自然なほどに澱みのない言葉に、望美が抱えていた漠然とした不安が確かなものへと変わっていく。

「弁慶……さん……何が言いたいんですか? 私には、わかりません!!」

「君は、いけない人ですね。僕のような人間に情けをかけることなんてないのに……」

 わからないふりなどしなくていいと微笑む弁慶の唇には自嘲が、そして瞳の奥には、決して他者には悟らせはしなかったであろう本音が見え隠れする。

 数千年の歳月と静謐を裡に抱えた琥珀を思わせる、やや色素の薄い瞳は、常であれば静かに存在している筈だ。出会いから一年程になるけれど、望美は弁慶の瞳が感情のままに揺れるのを見たのは初めてのこと。

 望美や他の八葉達と接する時は言うまでもないが、軍師として時に厳しい選択を迫られている時にさえ、弁慶の瞳の色が変わることはない。その様子は望美に、揺るがぬ時を閉じ込めた琥珀を思わせた。

 その瞳が、刹那ではあったが確かに訴えていた。

 今──ここで。全てを終わりにできるならと──。

 

◇◇◇

 

 弁慶が、彼自身も背負いきれない何かを背負っていることを、望美は薄々察していた。それから、それを隠し通そうとしていることも。

 いつかだったか弁慶は、自身が犯した過ちを、その罰として罪を重ね続けているのだと語った。戦の後の、殺戮にも似た追討攻撃の最中、まるで他人事のように弁慶は非情にならざるを得ない立場を語り、望美はその言葉の向こうに弁慶の、おそらくは取り返しようのない過ちに対する償いを、命を賭して行おうとしている覚悟を知るに至る。

 自ら死を選ぶ方が遙かに楽であることや、弁慶の微笑みが他者を拒絶するための方便であり、自分の手で散らす命を最小限に抑えるための術だと気づいたのは、いつのことだったのかと思う。その罪と罰を──弁慶がこの世界で背負う業さえも分かち合いたいと望むようになったのは、白龍の神子としての使命や責任や、ましてや神子と八葉としての絆のせいではない。ただ力になりたいという想いが募るばかりで、けれど何もできない自分に半ば絶望してもいた。

 そんな望美を前に、弁慶は彼自身の救済を求めている。決して己を見失ったりはしない非情の軍師が、目的を果たすためならば手段を選ばない男が大地に膝をつき、断罪の瞬間を待ち侘びている。

 ひと思いに、この剣を心臓に突き立てるのは、弁慶の望みどおりの結末を自分の手で与えるのは、望美にとっては甘美な誘惑にも似ていた。その息の根を止めさえすれば、自分は弁慶にとって真の意味で最後の女となれるのだ。そればかりか、弁慶を全ての枷から解放できさえもする。そのために自分の手が血に染まったとしても、後悔などしない。

 けれど心の中の最も深い場所から、叫ぶ声が聞こえる。ただ生きていてくれればいい、生きていてほしいと──。

「冗談じゃないわ!」

望美の言葉に、弁慶の瞳が見開かれる。

「どうして……何の理由で! 私が弁慶さんなんかを楽にしてあげなきゃいけないんですか!!」

弁慶にとっては思いもかけない展開だったのか、自分を見つめる無防備な瞳を見据え、望美は言葉継ぐ。

「私が振るう剣は戦に巻き込まれた人達を救うもの。それから、天と地の理から外れて苦しむ怨霊達を解放するもの。自分だけ楽になりたいなんて……そんな卑怯な人のためにあるんじゃない!!」

 望美は死んで尚生きねばならなかった者達の気配の残る大地から、かつて彼の長刀であったものを取り上げた。

 先刻、人の目を忍んで陣から離れようとする弁慶を追って森の中に入ってすぐ、望美は夥しい数の怨霊に囲まれた。そのすぐ後に戻ってきてくれた弁慶と二人で怨霊を封じていたのだが、特に強い力を持つ怨霊の一撃が望美に向けられ、庇おうとした弁慶の長刀を打ち砕いたのだ。幸い、刃先こそ無事ではあったが、既にそれは身を守り、未来を切り開くために振るうことはできなくなっている。

 本来の役割を失ってしまった鈍い刃を、弁慶の首筋に、静かに当てた。

「でも……そう……その目を覚まさせるくらいはしてあげます」

 急所から僅かに外れた位置、深く頭巾を被れば誰からも見咎められない箇所の皮膚を、手にした刃で素早く切り裂く。致命傷にはならない、けれどしばらくの間は消えない刻印から、紅い血が一筋流れ落ちる。

 

◇◇◇

 

 永遠にも似た刹那の沈黙の後、風がふわりと動く。鼻腔を擽る香の気配に意識を向けると、弁慶が静かに佇んでいる。

 「何故、君が涙を流すんですか?」

 そう問うてくる弁慶の瞳からは、既に迷いも揺らぎも消え去っている。そこにあるのは見慣れた、全てを拒絶する美しい琥珀のみ。

「でも、ありがとう。お陰で目が覚めました。そう……僕は僕のすべきことを全うするしかない。そのことを今、改めて思い知った気がします」

 流れるような動作で弁慶は立ち上がり、望美の涙を指先で拭う。

「君の涙はきれいですね。けれど、こんなに美しいものを僕に見せてはいけません。僕には……ふさわしくはない」

 感情を悟らせない微笑みを浮かべた弁慶はそう言い終えると、すぐに踵を返して灌木の間に消えていった。

 振り向くどころか、自分に僅かな想いも感慨も残さずに行った薄情な男の血を吸った刃に、耐えきれずに望美は唇を寄せる。

 弁慶の目的が果たされるように──。

 その業も罪も罰も、彼の自由を奪う枷の全てをこの身に受けられるようにとの祈りを込めて──。


いっしーさんのイラストをイメージして書かせていただきました。
いっしーさんのステキサイト
『真昼の星』さんの「肝木」のイラストに添えられた、
望美が弁慶に刃を向ける選択肢というのが、素晴らしくツボったわけです。
弁慶と違って真っ向から清く正しい望美なら、こんな反応かなぁと。

弁慶は破滅型・自滅型の選択肢を採りそうです。

最後になりましたが、いっしーさん、直リン許可、ありがとでした。


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