異聞・微笑みの脅迫 1


 乾燥具合を充分に確かめてから、武蔵坊弁慶は笊に広げた薬草を一定の規則に沿って分けていく。あるものは和紙に軽く包み、あるものは薄手の紙に巻いてから油紙で更に包む。またある草は掌に乗る程の瓶に収めていく一連の動きには迷いのない軽快さがあり、それは彼の生活の充実ぶりを感じさせるようだ。

 京だけでなく、鎌倉から西国の果て壇ノ浦までを巻き込んだ源氏と平氏の戦いは、源氏の勝利で幕を閉じた。弁慶が軍師として働いた源氏は源頼朝を首領として鎌倉に政の中枢を置き、その末弟にして弁慶の盟友でもある源九郎義経は西国を託され、京の堀川六条に置いた屋敷を拠点として忙しくしているという。そして弁慶はというと五条大橋の傍近くにささやかな庵を結び、薬師として働いている。

 平時こそ弁慶の知恵を借り、長く続く平和な時世を築きたいと九郎に望まれはしたが、彼は穏やかな微笑で源氏の大将の申し出を断った。必要な時には便利に使ってくれればいいと言い添えた上で弁慶は、薬師として、人々の間で生きるのを選んだ。

 人々とのふれあいの中で病や怪我を癒し、日々生きるに足る糧を得る暮らしに弁慶は満足していた。願わくば、自分の寿命が尽きるまでの間だけでも平穏な日々が続いてほしいと密かに祈る生活は、初めての安息の時でもあったのだ。

◇◇◇

 コツコツと、控えめに戸板を叩く音が聞こえたと思ったら、こちらの応えも待たずに元気の塊のような声が聞こえた。

「こんにちはー! お久しぶりです、弁慶さん」

「望美さん……?」

「ちょっと里帰りしてみました」

バツが悪そうに舌を出して見せる望美に微笑で応える弁慶の裡に、正体不明の悪寒が広がる。そんな自分を気取られぬよう、弁慶が言葉を返した。

「あちらには、もう慣れましたか?」

「はい、お陰様で。みんな親切にしてくれますから」

「特に兄は……ああ、あなたにとっては舅でしたっけね。先代の熊野別当殿は、特に親切なのでは?」

「お義母さんもよくしてくれますよ」

破顔する望美にさもありなんと、弁慶が笑う。

「どういうわけか、藤原の家には娘が生まれないんです。だから義姉上にとって君は藤原の嫁というよりも、待ちに待って授かった本当の娘のように感じられるんですよ。ですからね、望美さん。僕としては先代達を、実の両親のように慕ってもらえると嬉しいんです」

「そうします……て言いたいとこなんですけど、もうとっくに目一杯甘えさせてもらってますよ。しっかりしなくちゃって思うんだけど、つい……」

遠慮することありませんと答えた弁慶は、何かのついでのように言葉を継ぐ。

「それで? 何があったんですか?」

「何がって?」

「ごまかそうとしたって、駄目ですよ」

「ごまかしてなんか、いませんよ」

「嘘ですね。君は嘘をつく時、左のこめかみの辺りがヒクヒクと動くんです」

 知らなかったでしょうと微笑みをもって追求すると、望美はぽつりぽつりと、十日ほど前に熊野を飛び出した経緯を語り始めた。

◇◇◇

 「ヒノエとの夫婦喧嘩の勢いが余った、というわけですか」

白湯をすすりながら、弁慶が溜息をつく。

「喧嘩の原因は?」

微笑みを深めて問うたが、望美は目を逸らして黙り込む。

「夫婦喧嘩の原因なんて、犬も食わない程くだらないというのが世間の相場ですから。遠慮しなくていいですよ」

さぁ、と、促すと望美は向かい合って座る弁慶の方へと身を乗り出し、

「お願い!! 私をここに置いてください!!!」

と言い出した。

 両手を胸の当たりで組み、潤んだ瞳で見上げる姿の可憐さに、弁慶は思わず息を呑んだ。人の妻になって半年以上になるというのに初めてあった頃の少女らしさは失われず、その奥には密やかに息づいている艶のようなものが見え隠れするのを、弁慶は見逃さない。

「実家に帰るって、そう言って出てきたんです。でも私、こっちに家族いないし。家族って思えるのは八葉の人達と朔と白龍しかいないの!!」

「だったら朔殿を訪ねたらどうですか。僕だって、一応男なんですから」

「ダメ、それは絶対!! 朔の所だと、すぐに見つかっちゃうじゃないですか! せっかく烏の人達をうまくまいたのに……」

「烏をまいた?」

「ていうか、お願いして見逃してもらったっていうか……一応、困ったことになったら六波羅で連絡をとれるようにしてもらってはいるんですけど。念には念を入れて、鞍馬にちょっと寄ってですね、リズ先生に稽古をつけてもらってたんです。最近、ちょっと鈍ってたから丁度いいかなって。あ、お陰様で、二日みっちり稽古をつけてもらったら、昔のカンも戻ったみたいなんですよ」

「リズ先生の結界まで使ったんですか……」

「アレは簡単に通れないですから」

ね、と小首を傾げてみせる望美に、弁慶は問う。

「その足でここへ来たんですね。何故、朔殿の邸ではなく、九郎の住まう六条堀川邸でもなく、ここなんですか」

「ヒノエ君が最後に探しに来る場所だから」

 望美の鋭い読みにうっかりと感心した弁慶は、ついさっき覚えた悪寒を思い起こす。

「鞍馬で烏の人達が私を見失ったって聞くでしょ? で、最初は鞍馬に行くんだけど、リズ先生の結界で足止めされるわけです。そしたら、きっと朔の所に行くと思うの。次は……どうかな、九郎さんとことか弁慶さんとこか微妙なんだけど、ヒノエ君の性格だと弁慶さんに借りなんか作りたくない筈だから、多分、ここに来るのは、一番最後ですよね」

「君がここにいること自体、ヒノエの、僕に対する貸しになるとは思わないんですか」

「お世話になるのは私だから、私の借りです」

望美は弁慶がかつて慣れ親しんでいた表情で、にっこりと笑う。

「借り……ですか。ではもちろん、返してもらえるんですよね」

「はい、身体で返します」

「身体って……望美さん?」

予想外の言葉に弁慶が真意を正すと

「お義母さんの特訓受けましたからね。朔や譲君には敵わないけど、お炊事もできますよ。あと、洗濯とお掃除も。だから弁慶さんは薬師のお仕事に専念してください」

などという拍子抜けもいいところの答が返る。

「君は……本当にいけない人だ」

いつの間にやら熊野の女のしたたかさを身に着けている望美には──彼女がまだ白龍の神子であった頃も同じなのだが──敵わないと痛感した弁慶は、微笑みながら望美の申し出を承知したのであった。

◇◇◇

 それから数日が過ぎたある朝、差し向かいで朝餉を摂る弁慶と望美を訪う声に二人が顔を上げるよりも早く、緋色を帯びた一陣の旋風が戸板を蹴破るかのように舞い込んだ。

「やぁ、姫君。久しぶりだね……」

 ヒノエこと熊野別当・藤原湛増は鮮やかに笑い、ずかずかと庵の奥へと歩みを進める。平静さを装ってはいるが、その腑はありとあらゆる負の感情で煮えくりかえっているだろうことを、親戚縁者であるが故に長い付き合いの弁慶は察した。望美はというと、ほんの一瞬だけ背を向けていた戸口を振り返ったが、すぐに弁慶の方へ向き直り、黙々と雑穀の粥を口に運んでいる。

「もう、気がすんだ頃合いだろうと思って、迎えに来たよ」

帰ろうと差し出された手に目もくれず朝餉を食べ続ける望美と、感情を押し殺しながら話しかけるヒノエを、弁慶は朝餉を平らげながら興味深く眺めた。気配に気づいて戸口に目を遣ると、心配げな朔の姿。望美に気取られぬよう目配せすると、朔も会釈で応える。

「家出ごっこは、もうお終いだ。帰ろうぜ、奥方様」

ヒノエの優しい声に望美は柳眉を上げて言った。

「絶対、いや」

「まだ怒ってるのかい。何度謝れば許してくれるんだろうね、オレの神子姫様は」

「何もわかってないクセに! 口先だけで謝ればいいってもんじゃないでしょ!! ヒノエ君なんて、大ッキライ!!!」

叫びのような最後の言葉と共に、つい今し方まで望美が持っていた筈の椀が、ヒノエめがけて飛ぶ。

「なんで、避けるのよ!!」

「あ、ゴメン」

「どうして、そこで謝るのよ!!」

望美は言うが早いが円座から土間へと飛び退く。そして次の瞬間には土間の片隅に立てかけられていた竹箒を掴む。

「何でもかんでも謝ればいいっていう、その態度が気に入らない!!」

 猫のようなすばしっこさで、ヒノエは振り上げられた箒から逃れるように戸口から出ていった。それを追う望美の後ろ姿を見送りながら、弁慶は椀の底に残る最後の粥を胃の腑に収めてしまう。

「弁軽殿……」

戸口の脇に立つ朔が手招きした。やれやれと、溜め息と共に立ち上がった弁慶が外に出てみると、河原ではヒノエと望美が派手な追いかけっこをしているのが見える。

「二人を止めないと……」

心配そうな朔に、弁慶が答えた。

「放っておけばいいんですよ」

「でも……」

「ほら、ご覧なさい。二人の距離はつかず離れずといった具合でしょう。あれはヒノエが手加減してるんです。望美さんはカンがいいですから、すぐにヒノエの魂胆を見破るでしょうし、そうなると今よりも物凄い剣幕になりますよ」

見物ですね、などとおかしげに呟く弁慶の予言は現実となり、ヒノエは河原から川へと追い込まれていく。

 そこへ一人の男がやってきた。

「先生、止めないんですか? 可愛い嫁御が困っておいでですよ」

「違いますと、何度言えばわかってくれるんでしょうね。彼女は僕の甥っ子の奥方なんですよ。そして、あれは可愛い夫婦喧嘩です」

「じゃぁ、こちらが先生の……」

「こちらの女性は朔殿といって、望美さんのお友達です」

こんな貧乏薬師に嫁ぐ物好きなどいやしないと弁慶が微笑むと、男はバツの悪そうな笑顔で朔に挨拶をする。

「近所迷惑になるから、そろそろ呼び戻しましょうか……」

「いや、皆楽しんでるみたいですぜ、ほら」

と、男が視線で河原や土手の当たりを示すと、確かにそこここには見物人の姿があった。眉を顰めている者はなく、殆どの見物人は笑いながらヒノエを追いかける望美を眺めており、時折、二人に送られる声援まで聞こえる。

「声援は、望美さんの優勢ですねぇ」

「そりゃぁ、先生。ここ何日かの間、よくよく儂らの世話を焼いてくれましたからねぇ。子供らもすっかり懐いちまって」

「まぁ、望美はここでも人気者だったんですね」

「多少、気は強いですけどね、気立ての優しい人ですからね」

「多少……ですか」

男の言葉に安心したのか、朔の表情が穏やかなものに変わる。

「で、あの二人は何で、あんなことやってんですか?」

「さぁ」

弁慶は朔と男に肩を竦めてみせてから、

「犬も食わない、猫も跨いで通るような、つまんないことだってことだけは確かですが」
とだけ、答えた。


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