漁夫の利 1


 梶原家の京邸を出て向かう先は六波羅界隈らしいと、有川譲は予測する。無言ながらも強い力で譲を牽引する兄・有川将臣と共に歩いていることに多少の抵抗を感じもするが、どんな時も自分のペースを崩そうとしない兄に抗う気力は残っていない。譲は惰性で、行き先も告げずに自分を連れ出した兄と同行している。後ろの気配をそれとなく窺ってみると、邸を出る時に出会わせた平敦盛の静かな足音が聞こえた。彼も譲同様、ろくに理由を説明されずに将臣に連れ出されたのである。

◇◇◇

 茶吉尼天の襲撃を受けるなどのアクシデントはあったものの、自分達の知る歴史とは異なる形で平氏と源氏との和議が結ばれることとなり、譲達が住む世界の安寧は守られ、1年ほど暮らしたこの世界も平和な世を迎えようとしている。また、京を守護する龍神の力を取り戻したお陰で、譲達がもといた世界に帰ることができるようになった。

 物語はハッピーエンドを迎えたのだ。譲の知らぬ間に、彼が密かに恋い慕っていた望美が八葉の一人に恋をし、いつの間にやら想いを通じ合わせ、来世の契りまでを結んだのは数日前のこと。そして、譲の恋心は行き着く場所を失った。

 帰還の準備と望美達の祝言と、それなりに忙しい日々を送ってはいたが、時折押し寄せてくる何ともしがたい空虚感をこらえるのには骨が折れた。ともすると、押さえつけていた感情が暴走しそうになる。そうならないよう周囲に、そして自分の感情に細心の注意を払いながら過ごしていた譲の腕を掴み、梶原邸から引っ張り出したのは兄の将臣だった。

 譲の知る限り、兄の将臣はどんな時にもマイペースだ。子供の頃から異世界に飛ばされるまでの十六年間も、この世界に迷い込んでからの兄は変わらない。白龍の神子であり、隣家に住んでいた幼馴染みの春日望美の八葉となってからも、マイペースのまま生きている。時折、何の前触れもなく現れ、自分達と行動を共にするかと思えば、自分の用が済めばさっさと姿を消す将臣の態度に苛つかされることは少なくない。何度か、その自分勝手さを責めたことがあったが、兄は決して自分の考えや行動を改めようとはしなかった。

「ほら、着いたぜ。ここだ」

 将臣が目で指し示したのは、かつては相応の立場の人間が住んでいたらしいこぢんまりとした館だったが、平家の失脚以来荒れるに任せる六波羅辺りと同様に、荒んだ印象を受ける。

「今からお前に、女に振られた男の作法ってヤツを、教えてやるよ」

将臣がニヤリと笑った。

◇◇◇

 一歩踏み出すたびに軋む床を進んでいくと、誰かの話し声が聞こえた。覚えがあるようでないような声を訝しく思う譲の歩みははかばしくはない。けれど将臣は気にせずに先に進み、人の気配を感じる部屋の直前で

「よぉ。今、戻ったぜ」

と、声をかける。

「随分とごゆっくりだったな、有川」

「いかがでしたか、あちらは」

二人の男の言葉に家人の存在を察した譲は軽く頭を下げながら、将臣に続いて入室した。

「お邪魔します。いつも兄がお世話に……」

と、初対面の相手に礼を失しないように注意しながら目線を上げると、そこには平家の中心人物が二人。

「兄……上……」

「敦盛。久しぶりだね、元気でやっているかい?」

「はい……兄上も……」

 梶原邸を出てから沈黙したきりの敦盛は、八葉であるが故に敵味方に別れてしまった兄・平経正の姿を見て、初めて口を開いた。兄弟が慈愛の視線をかわしている隣で、譲は経正の傍に座り込み、杯を手にしている男を指差す。

「な……なんで、変態ストーカーがいるんだよ、兄さん!!」

「おいおい、譲。いくらなんでもストーカーはねぇだろ?」

「似たようなもんだろ! こいつが余計なことを言ったせいで、先輩はしばらく、ものすごく落ち込んでたんだぞ!!」

「まぁ、落ち着け。これでも一応、俺の恩人の息子なんだからよ」

そういう問題ではないと将臣に食ってかかる譲を、大振りの杯越しに譲達を窺っていた平知盛が言い捨てた。

「有川……その小僧、うるさいぞ」

無駄吠えしかできない犬は、鴨川にでも捨ててこいという言葉に譲が激昂する。

「誰が犬だ!」

「源氏の神子の犬だろう? 貴様……」

クツクツと薄く笑う知盛を取りなすように、将臣が声をかける。

「おいおい、犬はよせ、犬は。こいつ、弟の譲っていうんだ。よろしく頼むぜ」

「俺は頼んだ覚えは……」

「うるせーよ、譲。これから“お作法”の時間だろ? 兄貴の俺様が直々に教えを授けてやるんだぜ? 感謝しろよ、感謝を」

「それも頼んでないだろ?!」

いつもの調子、いつもの言葉で兄の身勝手さを責めるのを流しながら、将臣は膳に目を走らせていたが、目当ての物が見当たらなかったのか、譲に少し待つように言うと姿を消し、しばらくすると椀を二つと一斗樽を手に戻ってきた。そして酒で満たした大振りの椀を譲に持たせようとしたが、譲は未成年であることを理由に受け取ろうとはしない。

「未成年だって言ってるだろう!」

「ばーか。こっちの十六歳は大人なんだよ。さっさと飲めよ。郷に入っては郷に従えって、知らねーのかよ」

「俺は元の世界に戻るんだから、関係ないよ」

「だったら尚更、飲め。なぁ、譲。俺はこっちに残るからよ、お前が成人してから酒を呑むなんてこともなくなるだろ?」

「譲殿……せめて一献なりと、酌み交わしてはどうだろうか……その……それぞれの理由があろうとも、やはり兄弟が離れるのは寂しいものだと……私は……思うのだが……だから……」

差し出たことを言ってすまない、と、目を伏せる敦盛の言葉に動かされたのか、不承不承といった風ではあったが、譲は将臣からの酒を受け取った。

「皆で乾杯をしませんか? そうですね……兄弟の再会を祝してというのは、いかがでしょう」

「兄弟? 冗談じゃないぞ、経正」

「何をおっしゃいます。知盛殿と将臣殿は、今は亡き重盛殿を通じての兄弟ではありませんか。さぁ、さぁ」

と、穏やかな微笑を浮かべながら将臣と敦盛に杯を渡し、知盛の杯にも酒を注いでいく経正は明らかに上機嫌で、予想もしていなかったであろう弟の再会を心から喜んでいるようだ。口数が少なく、万事に控えめな敦盛もまた嬉しそうで、譲もさすがにこの状況に水を差すようなことは憚られたのだろう。静かに、勧められるままに杯──椀を重ねていった。


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