絵空事


 中学時代の修学旅行は京都見物だった。有川将臣にとって京都が、これまで出かけたことのある西端であり、更に西に行く機会があると考えたことはない。だが彼は本州の最西端を超えた向こう──太宰府にいる。自分達が暮らしていた世界ではなかったが、きっと八百年ほども前の福岡県の辺りに似ているのだろう。

 外国の街並みを模したテーマパークや、日本三大歓楽街と呼ばれる街や、それから将臣でさえ知っている名物の屋台もない。けれど京ほどの賑わいこそないものの、対馬海峡を隔てた大陸や半島との交易の拠点の太宰府は、港町特有の活気に溢れている。外洋に出る舟の巨大な姿や、外つ国の衣装に身を包む人々が行き交うのを眺めていると、たった一人で見知らぬ世界に放り出された現実を、一瞬でも忘れてしまえそうだった。

「将臣!」

 張りのある声に振り向くと、袈裟姿の男が馬上で笑っている。

「港に行く。共をせい」

「そりゃ、かまわねーんだけどよ。またお付きの小僧を置いてきたのかよ……アイツ、後で他の連中にこっぴどく叱られるんだぜ? ほどほどにしといてやれよ」

年寄りの坊主が一人でうろつくのは感心できないと将臣が言うと、男はからからと笑う。

「天命はとうに過ぎた。余生を好きにしても、罰の一つも当たるまい」

 いつ、お迎えが来ても不思議ではないのだと減らず口を叩く男の言葉を軽く流し、将臣は通りがかりの子供に幾ばくかの駄賃を渡し、宿舎への伝言を頼む。それから往来の邪魔にならぬように繋いでおいた馬に跨った。

「で、港へは何用で? 平相国入道清盛殿」

「どこかの国の難破船があるらしい。生き残りの異人が数名と、散逸を免れた外つ国の荷物を検分にな」

「直々に行かれるのか」

「そうだ」

「部下に任せりゃぁ、いいだろうに」

物好きなことだと将臣が笑うと、

「物好きであればこそ海賊退治も南宋との交易もする。それでも飽きたらず、あまつさえ政にまで手を出しもする。武士としてはあるまじき行いと、吾を謗る者が絶えぬも道理」

と、さも愉快そうに清盛も高らかな笑い声を上げる。

◇◇◇

 普段と何ら変わりのなく午前中の授業を受け、特別教室での授業のために新館校舎と本館校舎を結ぶ、渡り廊下を望美と共に歩いていた時だった。新館校舎の方からクラスメイトらしき男子生徒と一緒の譲を認めた時、隣を歩いていた望美が小さな子供に声をかけた瞬間、全てが変わってしまったのだ。濁流に呑み込まれ、何も分からないままにただ流されるまま、まるで意思を持っているかのような水の勢いに身を任せ、気づいた時には、周囲には仰々しい甲冑に身を固めた男達に取り囲まれていて、その中心にいたのが平清盛だった。

 既に出家していた時の実力者は、源氏方から送り込まれた間者として囚われていた将臣を認めた瞬間ひどく驚いた顔になり、その後には形容しがたい柔らかな表情を浮かべた。

 自分が生きていた時代よりも遙か昔に迷い込んでしまっただけでなく、どうやら真っ直ぐに遡ったのではなく、並行して存在しているらしい別の世界に辿り着いたことに気づいた将臣は、事情を全て話した。自分の言葉など命乞いの出任せくらいにしかとられないだろうと予想していた将臣は、半信半疑ながらもこちらの言い分に耳を傾けてくれた清盛に、不思議な感覚を抱いた。

 学校の授業や歴史小説、時代劇で見聞きした非情の権力者が、どこの馬の骨とも分からぬ自分の言葉を理解しようとすることなどあり得ない。そう思えたから、将臣は何もかもをぶちまける気になったのだ。この時代の慣習で考えれば、間者の疑いを持たれたのであれば確実に、最終的には殺される。ならば、黙っていることはない。この世の春を謳歌しているらしい平清盛が相手だとしても、何の遠慮があるものか。弟の譲と幼馴染みの譲と離ればなれのまま逝くことは心残りだが、譲が望美の傍にいられたならそれでいい。二人の行く末の安寧だけを願いながら、最期まで有川将臣らしく生き抜く。それが彼の決断だった。

 そして将臣は今、平家の食客として暮らしている。若くして死病に倒れた清盛の嫡男・小松内府平重盛の若い頃に似ているという、ただそれだけの理由で命を助けられた。どれどころか、どこをどうしたものやら清盛にひどく気に入られてしまい、今では側近の一人として認められるまでになっている。将臣はというと、およそ権力者とは思えない気の好い坊主の傍は居心地が良いことと、また清盛の一人歩きを心配する周囲からの無言の要請のようなものもあって、何かというと傍近くにいることが増えた。

 太宰府に来てからは警固の薄い旅先ということもあり、護身を兼ねて清盛の傍近くに控えている。京や福原のように周囲の目がないせいか、太宰府に来てからの清盛はかなり開放的になっており、彼の相談役を務める老貴族や太宰府を預けている海賊や水軍の棟梁達と親しく言葉を交わし、上機嫌で将臣を周囲に紹介した。引き合わせられた者達の大部分は、将臣を見た途端に息を呑み、その態度から将臣は、重盛と自分とが生き写しのように似ていることを知る。だからといって、身も知らぬどこかの誰かを──しかも自分よりも何百年も前に生きて死んだ人間を過剰に意識したりはしない。というよりも、意識しようがないのだけれど────。

◇◇◇

 清盛の後ろについて船着き場に行くと、見上げるほどの船が停泊している。朱塗りの手摺りをはじめとする装飾部品の、華やかにも優美な姿に将臣が目を奪われていると、

「どうだ、吾の船だ」

と、清盛の声が聞こえた。

「よくわかんねぇが、派手な船だな」

「わからんか、お前にも」

「人を載せるにしちゃぁ、えらく造りが頑丈そうだ。物を運ぶだけなら、ああいうチャラチャラしたのは必要ねぇだろ?」

将臣が甲板上の、飾りが施された部屋らしきものを視線で示す。

「この船は南宋との貿易の品と、今後のために働く使者を運ぶだけではない。我らの明日を載せるのだ」

「明日?」

「希望とも幸福とも呼ぶ」

言いながら将臣に振り向いた清盛の表情は、還暦を過ぎているとは思えないほどに若々しい。人生五十年で上々だと言われたこの時代に、六十歳を過ぎても尚意気盛んな清盛の行動力に、将臣はよく驚かされる。

「南宋との貿易、やってんだよな」

「そうだ。大陸と半島と。その西にある小さな島々から陶器や細工物、経典や書、薬草を積んで帰る。こちらからは漆器や干物、金と銀とを運ぶ。海を渡る期間だけでなく、あちらとこちらでの荷物の調整もあるのでな。行き来に三月、四月とかかるが、無事に船が戻れば、いい稼ぎになる」

「そんなに稼いで、どうするんだよ」

将臣は呆れ顔で笑った。

 素性の知れぬ人間ならば、せめて見栄えだけでも良くしようと言う魂胆があったのだろう。清盛の傍に控えることが増えた将臣に与えられた衣類は、服装には無頓着な将臣にさえ一目でそれとわかる上物だった。太刀がほしいと言えば、刀鍛冶の名人がやってきて、最高の一振りを将臣のためだけに打ってもくれる。数千、数万の郎党を養い、その生計を支える清盛は相当な資産を持っている筈だ。なのにまだ、南宋貿易で稼ごうとするのを、将臣は理解できない。

「交易船を造る。その船には売り買いのための品だけでなく、向こうの職人だの学者だの坊主だのも乗せる。連れてきた人間を西国の要所に住まわせる。そこで窯を開かせたり、向こうの機織りをさせたりしてだな、交易に使える新しい品を作らせたら、どうだ? 今よりも多くの稼ぎが得られるだろう」

「その稼ぎでまた船を造るのか?」

「他のものもな。手始めに溜め池を造り、田畑を拓く。西国は干魃が多い。溜め池はそこここにあるが、まだ足りん。水さえあれば旱に民が苦しむことも少なくなるだろうし、米を蓄えることもできる。米があれば不作の年に、種籾に手を出さずにも済む。それから嵐に強い港を築き、瀬戸内の難所の底を浚い、船の行き来を今よりも楽にさせねばならん。船の行き来が楽になれば、海賊家業でしか生きられぬ連中も、西国で作られたもの、収穫されたものを運ぶ生業にも就けるであろう。そうなれば、海賊共とて、明日をも知れぬ生き方も変えられる。生き方が変えられれば、明日に希望を持つこともできよう。来年に再来年に希望を持てる暮らしが立てば、ささやかな幸いも持てるやもしれん」

「殖産興業か……」

将臣が呟くと、清盛は将臣の言葉の意味がわからないと笑う。

「えーっと、産業を興して国を富ませる……あー、庶民が金を持ったら景気の風が吹いて桶屋が儲かるっつーか……まぁ、なんつーか……」

「もう、よい。無理をするな。悪い話ではないことは、わかった」

「そうか……なら、いいんだ。けどよ……」

「何だ?」

「そういう話は、俺よりも他の連中にした方がいいと思うぜ。どこの馬の骨ともわからねぇ俺よりも。知盛とか忠度殿がいるだろう。それから経正とか……身内のヤツらにな」

 不意に清盛の笑顔が消えた。将臣の目を見据えてはいるが、その焦点は自分よりも遙かに遠いところに結ばれているのがわかる。

「平氏がこれまでになるには三代かかった。民が憂いなく暮らせるような国を造るためには、もう三代……いや、それ以上の歳月を要することだろう。後を託す筈の重盛は病に倒れた。折りを見て話そうとは思うていたが、あまりにも突然に、呆気なく逝きよった……。
 忠度は文武両道に秀でてはおるが、世渡りが少々もの足りぬ。それに、さほど若くもない。経正は気性が優しすぎ、知盛は気性が激しすぎる。どちらかに跡を託すにしろ、今はまだ時期尚早」

 もしも──と、清盛は言葉を継いだ。

「この身が、魂が永遠を手にすることができたなら、この途方もない絵空事を、この手で本当にできるやもしれぬな。平家一門だけでなく、できれば源氏とも和議を結び、戦のない世を──」

まるで青年が夢を語るかのような、美しい言葉の連なりが不意に途切れた。将臣が清盛を見ると、そこには年老いた男がただ空を見上げている。

「吾も年老いたか……つまらぬ繰り言を聞かせてしまったな」

「いや、面白い話だ。その絵空事ってヤツに、ちょっと賭けてみたくなる」

 それは将臣の本心だった。歴史の流れが平家の衰退へと向かっているのは知っている。最近ではそれを、肌に感じるようにもなっていた。歴史の授業や『平家物語』で知るだけの平清盛は横暴を尽くした権力の亡者だと思っていたが、実際に接してみれば貴族達に軽んじられている武士の社会的地位の確立に奔走し、庶民の暮らしを気にかけるバイタリティー溢れる親父で、その懐の深さや人柄に惹きつけられずにはいられない。

 永遠を欲することこそが絵空事。だが、もしも清盛が永遠の生命を手に入れたなら、この世界の歴史は大きく変わる。その行く末を見てみたいと、将臣は思った。

「勝たせてくれとは言わないさ。だが、多少でも勝ちにいく手伝いくらいはすると約束しよう。あなたと小松内府殿には恩もあることだしな」

 将臣の言いようが気に入ったのか、清盛の笑い声が空の高みへと登っていく。

 平家という名の望月は既に欠けようとしている。だが欠けた末に消える月は必ず蘇る。

 いずれ始まる戦の末に、できれば一人でも多くの平家一門と共に南へと落ち延び、そこから再スタートすればいい。ささやかながらも外つ国との交易を始めるのだ。清盛の望む夢からは取るに足りないのは間違いないだろうが、それでも平穏な暮らしを何年か望めるような結果を勝ち取りさえすれば、滅亡という名の結末を迎えずに済む。そのために働こうと、この時将臣は誓った。

 異世界であっても自分らしく生き抜くために──。他の誰でもない、有川将臣自身に──。


平清盛が権力を欲したのは袋小路に陥った藤原一族による官僚政治を瓦解し武士による政治体制を確立せんがためであった。
また彼は南宋貿易を中心とした殖産興業を行い、庶民の生活向上を目指した、今で言うところの改革者であったと、
そういう味方をしている歴史家や歴史小説家も多いそうです。

将臣が全てを賭けて平家一族を滅亡から救おうとする動機として、
命の恩人だけでは少し物足りませんでしてね。
一人の漢として生前の清盛に感銘を受けたりしてる方が、個人的には自然な気がします。
で、このネタを引っ張ってきたわけですよ。
つか、漢心に漢が惚れるシチュエーションが大好物なので(笑)。


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