帰 省 1 

 東京から急行電車に揺られて1時間と少し。それから各駅停車に乗り換えて、十数分。車窓からはこじんまりとした住宅街が見え、その合間合間に僅かな畑や田圃が垣間見える。その遙か向こうの青い稜線は、東京での暮らしが長くなる分だけ懐かしく感じられた。

「十六……十八年ぶりかな? 大雑把に計算したら、四捨五入して20年ってとこかな。少しは懐かしい?」

成歩堂は向かいに座る御剣を見た。窓辺の席で御剣は、黙って窓の外を眺めている。

「まだ……きつかったかな……だったら……」

『ごめん』と足下に視線を落とす成歩堂に、御剣が答えた。

「一年程しか暮らしていないせいだろうか……あまり実感がない」

車窓の向こうに拡がる住宅地と田畑が混ざる田園風景は、日本の郊外ではよく見かけられるものと同じで、御剣の胸中に感慨をもたらす程のものはない。

「馴染みの深い場所に……例えば学校にでも行けば、少しは郷愁のようなものを感じるかも知れないが。いずれにせよ、学校生活は概ね楽しいものだったから、君が気にすることはない」

「だったら、いいんだけど……」

「それよりも気がかりなのは、いくら母上の申し出とは言え、君の帰省に便乗するのは少々厚かましいように思うのだが」

「いやいやいや、それは大丈夫。というか、一緒に来てもらった方が、僕は助かるよ、ものすごく」

◇◇◇

 成歩堂が数年ぶりの帰省を決めたのは、数週間前に遡る。

 ニュースで御剣がある弁護士の殺人事件の容疑者となったこと、その後、成歩堂の弁護によりその無罪が証明されたことや、時効直前に御剣の父が殺害された事件が解決に至ったことを知った成歩堂の母親は、再三再度、成歩堂に御剣を連れてこいとの連絡を寄越したのだ。しかし、事件が解決してしばらくすると御剣は成歩堂の前から姿を消し、再会を果たしてからも海外の法廷の研究という新しい職務のため、なかなか時間がとれなくて、二人揃って夏の休暇を確保できたのは、帰省シーズンから少し遅れた八月の末となった。

 成歩堂としては貴重な休日を御剣と二人で過ごしたかったし、既に遠くなった筈の記憶が今尚、御剣の心に暗い影を落としているのを知っているだけに、正直なところ気乗りはしない。ことあるごとに聞かされる帰省要請にしても、のらりくらりと受け流していれば、いつか諦めてくれるだろうと高を括ってもいた。ある時、御剣に母親の件を話して聞かせたのも単なる世間話の延長でしかなかったのだが、何の気まぐれか、御剣は成歩堂の帰省に同行してもいいと言い出したのだ。

 「戻ると小言や説教を聞かされるに決まってるからね。御剣と半分ずつにできるのはラッキーだ」

「日頃の不義理や親不孝のツケを私にまわすのは、どうかと思うのだが」

「おふくろは昔から御剣贔屓だからね。うまく取りなしてくれたまえ」

御剣のモノマネなのか、成歩堂は気取った顔で言う。

「君の親不孝の片棒を担がされるとは、とんだ休暇になったものだ」

 唇の片端だけを上げ、御剣は皮肉めいた口調で成歩堂に応えた。法廷でやり合う時とは明らかに異なる穏やかな瞳に、成歩堂は微笑みで返す。

「御剣は熟女キラーだもんな。期待してるよ」

「何だ、それは」

「警備のオバチャンなんか、御剣大好きじゃないか。それに、葉桜院の毘忌尼さんもさ、御剣のことは随分と気に入ってるみたいだったしね。『いい先輩を持ってよかったわねぇ』って。何度も先輩じゃなくて友達だって言っても、全然信じてくれなくてまいったよ」

「毘忌尼住職の件は、単に君が頼りなく感じられただけではないのか?」

「そうじゃなくて、御剣が老けてるって発想はないのかな?」

「落ち着きのない君と比べられたら、誰だって年長に見えると考えるのが、妥当なところだな」

御剣はそう言うと、責任転嫁も甚だしいと成歩堂の発言を却下する。成歩堂はすっかりくつろいだ様子の御剣を眺めながら、思いがけない形の帰省に思いを馳せた。

◇◇◇

 駅から十分程歩いて到着した成歩堂の実家を眺めた御剣が、

「あの木には、見覚えがある」

と、言った。

 二坪程の庭の端で勢いよく空に枝を伸ばし、白い花をたわわに咲かせている木を指さす御剣の記憶力の確かさに、成歩堂は素直に感心する。

「花の名前を、知ってるか?」

「チューリップでもひまわりでもないことだけは、わかるよ」

家の庭に咲いている花の名前くらいは調べるものではないかと、御剣が軽く咎めるように応えて、ヘラリと成歩堂が笑う。

「僕が生まれた年に、もう亡くなったじいちゃんが植えてくれたんだって。梅雨時から秋の終わり頃まで、ずっと咲いてる」

「私が知っているあの木は、もっと小さかったな」

「一年に二回も剪定するのに、ガンガン伸びるんだよ。あんまり伸びるもんだから、一度、思いっきり短く刈り込んだんだけどね」

「全く効果はなかったわけだ」

「分かる?」

「法廷での成歩堂龍一そのものだからな」

「僕はあんなにしぶとくはないと思うけど?」

成歩堂は異議を唱えてみたが、御剣は笑うばかりで全く取り合おうとはしない。何度か異議の申し立てと、その却下をひとしきり繰り返してから、二人は生け垣の途切れる場所から玄関に向かう。

「ただいまー。おふくろー、御剣も一緒だけどさー」

カラカラと、引き戸を鳴らしながら成歩堂が家の中に向かって声をあげるとすぐに、奥から乾いた足音が聞こえてくる。

「あんた達、遅かったじゃないのよ、どうせ龍一がいつまでもぐずぐずしてたんでしょ、ほんとにいつもごめんなさいね、怜侍君。お昼ご飯、食べてこなかったでしょうね? 用意してあるわよ、おそうめん。早くお上がんなさいよ、ホラ、怜侍君も遠慮しないで……全く龍一ときたら返事もしないで、突っ立ってないで、怜侍君に上がってもらいなさいって……」

「返事できるペースで喋ってくれないかな? 返事できないだろ? 次々に喋るとさ。御剣も困ってるじゃないか」

言いながら、成歩堂は御剣の背中を母親の方へと押しやった。その背中に隠れるように年齢を経るほどに口数が増える母親を眺めていると、少し年を取った目元にみるみる涙が滲む。

「まぁ、怜侍君……ほんとに立派になったわねぇ……御剣先生がお元気だったら、どんなに……」

 エプロンで目元を抑え、しみじみと言われるとさすがの御剣も面はゆく、

「ご無沙汰しています。お言葉に甘えて、今日はお世話になります」

としか、言えなかった。

「まぁ、あんなに小さかった怜侍君が大きくなって……立派になったわねぇ。昔からお行儀が良くて礼儀正しい子だったけど、今も変わんないのねぇ。まぁ、本当に、ねぇ」

 成歩堂の母親に腕を取られて玄関に上がると、成歩堂の祖母にまでわざわざ迎えられ、御剣は恐縮した。

「お祖母ちゃん、ほら、御剣先生の息子さん。龍一が散々お世話になってね、今も色々お世話になってるんですって」

「いえ……、龍一君には私の方もお世話になっていますので……」

「そうそう、お互い様ってヤツなんだよ、お祖母ちゃん」

「何言ってンのよ、龍一。アンタってば、夏休みの宿題を政志君と一緒にみてもらってたクセに! 母さん、知ってるんだからね」

「僕だって御剣の宿題手伝ったぞ。図画工作!!」

「アンタの取り柄はそれだけだったでしょ! 他の宿題を見てもらってるクセに、一つしかお返ししてないじゃないよ!」

 小学生の頃の宿題を巡る低レベルな母子の争いを目の当たりにした御剣は、考えあぐねていた。深刻な親子喧嘩であれば即刻止めもするのだが、コミュニケーションの一種とも解釈できる小競り合いであれば、しかも数年ぶりの再会だと聞いていることもあり、それならば静観する方が親切だろうとも思う。

 腕を組み、思案くれている御剣の肘に、静かに触れる手があった。御剣が振り返ると、成歩堂の祖母が穏やかに微笑んでいる。

「放っておきなさい」

「いいのでしょうか」

「お腹が空いたら、勝手に来ますよ」

そう言って彼女は御剣を奥へと招く。

「元気でやってますか」

「はい……お陰様で」

「龍一は、どうですか。ちゃんとやってますかね」

「はい。彼は若手弁護士の中で、最も期待されている人物です。その……お世辞などでなく、私も彼と法廷で戦う時は……とても……充実しています。審理を通して、必ず真実に辿り着くという確信が持てる相手というのは貴重ですし、私自身も何度も、彼に助けてもらいました」

「怜侍君にたくさん誉めてもらって、龍一は果報者だわね」

 御剣を座敷の上座に座らせてから彼女は、台所からそうめんの鉢を運んできてくれた。「たんと、食べなさい。たくさんあるからね。子供は、遠慮するもんじゃないんだからね」

 玄関先に残してきた成歩堂母子が気にはなったが、年長者に敬意を払うべきだと判断した御剣は、静かに箸を取る。よく冷えたツユに浸した白いそうめんを口に運ぶと、出汁の豊かな香りが広がり、御剣は素直にその美味さを言葉にした。老女は静かに微笑みながら頷く。

「仕事は、忙しいですか」

「そうですね……検事局や警察が忙しいのは、良くないことなのですが……」

残念です、と御剣が呟き、成歩堂の祖母は御剣をいたわるような相づちを打つ。

 世間話を苦手とする御剣は、こういう状況下にふさわしい話題に乏しい。仕事の話は世間話というには殺伐としている上に守秘義務を課せられている検事という立場では、人に話せることなどはないに等しく、トノサマンについては、語る相手が極めて限られてしまう。詰まるところ、仕事が生活の中心となっているため、当たり障りのない話題とそのものを知らないのだ。故に、裁判所や検事局、警視庁に出入りする人間との会話は成立しても、そうでない人々との会話が弾むことはなく、ひたすら続く沈黙に気まずい思いをするのが常である。

 そして今、やはり言葉もなくそうめんを食べているのだが、不思議なことに普段感じるいたたまれなさはない。玄関から未だに聞こえる成歩堂母子の口喧嘩というBGMが多少のアクセントになっている気はするが、それが沈黙を心地よく感じさせる要因になっているとは考えにくい。

 これが所謂『年の功』というものなのだろうか、などと御剣が考えを巡らせていた時、騒々しい足音と共に成歩堂が客間に入ってきた。

「ずるいぞ、御剣! 自分だけ先に食べて! おふくろ、僕にもそうめん、くれよ」

「ごめんねぇ、怜侍君。龍一のせいで、ほっぽっちゃって。あら、もう終わりじゃないの、おかわり、食べて、食べて。お出汁、美味しいでしょ? お祖母ちゃんがね、干しエビと椎茸とで作ってくれたのよ。私も作るんだけど、でも、お祖母ちゃんの味にはまだまだ敵わないのよねぇ」

「早く、そうめん! 餓死するってば」

「うるさいわねぇ、龍一は。一回ご飯食べなくても、死にゃしないんだから。待ちきれないんだったら、自分で取ってきなさい。冷蔵庫に入れてあるから、ほんとに、まったくねぇ」

母子が揃った途端、心地よい静寂は愉快な喧噪に変わる。その落差が御剣には珍しい。成歩堂を手伝うべきかと考えている間に、成歩堂は両手・両腕に器用に皿を乗せて座敷に現れ、これまた器用に座卓の上に並べていく。

「見事な手際だな」

御剣が感心すると、成歩堂は夏休み限定のアルバイトの成果だと答えた。

「大学の時、軽井沢のペンションで住み込みのアルバイトをしたことがあるんだ。食事時は一気に料理を運ばなきゃなんなくて、初日に特訓があってさ。両手と両腕に、最高で7枚の皿を持てるようにならないと、日給が満額もらえなくなるって言われて、頑張ったんだよな」

 『お待たせいたしました』と、畏まった動作で成歩堂が空になって間もない御剣のそうめんの鉢に追加の麺を、昔取った杵柄とばかりに形良く盛りつけてやる。御剣は一瞬だけ目を見張り、それから笑いを堪えながら

「法廷での尋問以外にも特技があったのだな」

と言う。そのくつろいだ様子に、成歩堂は人知れず安堵の息を吐く。

 自分との帰省が、幼い頃の悪夢のような事件だけを思い出させるものになりはしないかと、ここ数日の間、密かに案じていた成歩堂としては、自分の家族が御剣にとって心地よい存在であると言えなくもないことが、素直に嬉しかった。明日の午後、ここを発つまでに何事もなく、平穏な時間が続いてくれればいいと、成歩堂は柄にもなく願うのであった。が、その時

「怜侍君、奥の客間に荷物とか置いてね。お布団も用意してあるから」

と、思いもがけない言葉が聞こえた。

「何で? 僕の部屋でいいよ。布団、自分達で運ぶから」

成歩堂は必死で異議を唱えたが、彼の母親はあっさりと却下する。

「あんたの部屋、物置みたいで怜侍君の布団を敷く場所がないじゃないの、龍一。あんた、大学卒業する時、本だとか彫刻の道具だとかを送ってきておいて、一度も片づけにこなかったんだもの。あれ、そのままになってるのよ。段ボールが6つだか7つだか。どれもこれもバカみたいに重いから、重ねられやしない」

「ええ! 片づけてくれてないの?!」

「どうして私があんたの荷物を片づけなきゃならないの!! 帰ってこない方が悪いんでしょ!!!」

「いやいや、ほら、僕、司法試験の準備で忙しかったし、仕事も……」

「そんなの、言い訳にもなりゃしないわよ。いい歳して、何言ってんだか」

「いやいやいや、こう、休み、取りにくいわけよ、この仕事」

「要領が悪いんでしょ? アンタみたいなのを、『器用貧乏』っていうのよ、世間様じゃね」

「おいおい、御剣。お祖母ちゃんと麦茶なんか飲んでないで、何とか言ってくれよ」

 食後の果物を、成歩堂の祖母と共に楽しんでいた御剣を、成歩堂が縋るような目で見た。この騒ぎを隣で聞いていた御剣は、いかにも胡散臭いと言わんばかりの視線を成歩堂に投げてくる。

「誰に意見を求めたとしても、君に非がないとは言わないだろう」

「異議あり! その頃、僕は多忙を極めていて、こっちに戻る時間的な余裕も、それから精神的な余裕もなかった」

「だからといって、自分の荷物を整理しなくてもいいというわけではない筈だが? 例えば君が母上に対して、何らかの形で荷物の処理を依頼していたのであれば、情状酌量の余地がなくもない。そういった配慮は、なかったのだろうか」

「家族としてだな、こう、阿吽の呼吸というか、言葉にしなくても伝わるものがあるだろう? 情愛とか人間愛とか家族愛とか同胞愛とか……」

「確かに。しかし、成歩堂。獅子は子供を一人前にするために、敢えて幼い我が子を千尋の谷に突き落とすという。こういった厳しい姿勢を示す愛情の形もある以上、敢えて荷物の整理をしなかったことは、母上の愛情であると考えるが?」

 淡々と正論を述べる御剣に、成歩堂は形ばかりの抵抗をしてはみるのだが、即座に全てを却下された。母は頼もしい味方を得たとばかりに成歩堂を更なる攻撃を仕掛けだし、これぞ“踏んだり蹴ったり”だと、勢いよく尖った髪も項垂れて見えるくらいにへこんでみせる。

「どうせ、僕なんか……」

そう呟く成歩堂の肩を、御剣が親しみを込めて叩く。

「荷物の片づけを手伝おう」

「えっ?」

御剣の言葉に、成歩堂と彼の母親が同時に反応する。

「怜侍君、いいのよ、そんなの。一人でやらさなきゃ、龍一のためになんないし……」

「いやいやいや、これが僕らの友情ってやつなんだよ、おふくろ。な? 御剣、そうだよな?」

「何言ってんのよ、この子は。怜侍君が見かねて手伝ってくれるって、それだけじゃないの。もしかしたら東京でも、こんな風に毎度毎度、この子が世話を焼かせてるっていうか、一方的に迷惑かけてるんじゃない? 怜侍君。いいのよ、私達に気なんか遣わなくても。正直に言って?」

「龍一君とは仕事の上でも、仕事を離れてからも良いお付き合いをさせていただいています。一方的にだとか、そういうことはありませんので……」

「そーお? だったらいいんだけど……あ、でもあんまり手伝わないでね。さぼらないように監視してくれれば、それだけでいいからね?」

 黙っていればいつまでも続きそうなお小言を遮るように成歩堂が立ち上がり、次いで御剣が昼食の礼を述べてから腰を上げた。


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