帰 省 2 「お袋の相手を、全面的に任せるつもりだったんだけどな」
二階に続く階段を昇りながら成歩堂は、すっかりアテが外れたとぼやく。
「小言が倍増するなんて、とんだ予想外だ」
「法廷では常に予想外の出来事と遭遇しているようだが、その経験が普段の生活に全く生かされていないのは、不思議なことだ」
「泣く子とオバチャンには絶対に勝てないように、世界はできているんだよ、天才検事君」
後ろを振り返る成歩堂の顔の真剣さに、御剣はつい吹き出してしまった。それを見た成歩堂は『薄情者め』と唇を尖らせる。その表情は遠い昔、絶望や憤り、諦念といった負の感情を知る前の御剣が毎日見ていた、親しい友人のそれだった。
「矢張と君はよく、些細なことでケンカしたものだった。私はできるだけ公平な立場で君達の仲裁をしたが、矢張に分があろうとなかろうと、君は私が君の肩を持たなかった時には、私を薄情者呼ばわりしたな」
「そう……だっけ?」
そんなに昔のことは覚えていないと返す成歩堂の動揺ぶりに、成歩堂もまた、9歳の頃を思い出している。御剣が確信したのと同時に、二階の最も奥にある襖を開けた。
六畳間の畳の上に鎮座する7個の段ボールを一瞥し、
「自分のものではない、この荷物の山の始末を手伝おうと申し出た私は、随分と人が好い」
と御剣が言い、成歩堂は苦笑いを浮かべて頭を掻いてみせる。
「やっぱさ、愛の力ってやつだよな?」
「まるで矢張のような言い分だな」
既に生き様そのものが一種のアートとも言える、幼馴染みのトラブルメーカーと同列に扱われたことにショックを受けて項垂れる成歩堂に構わず、御剣が続ける。
「落ち込んでいる暇はないぞ、成歩堂。貴重な時間を全て大掃除に充てるつもりか、君は?」
その言葉に惚ける成歩堂に、御剣が掠めるように口吻けた。
「続きは、片づけを終えてからだ」
そう聞いた途端に成歩堂は復活し、子供のように首をぶんぶんと縦に振る。鼻歌交じりに段ボールを開けていく姿からは、法廷で果敢に戦う姿は想像できない。ベリベリとガムテープをはがし、中身を確かめている背中を眺めてから、御剣は窓の外に視線を移す。
「稜線だけは、変わらないのだな」
駅や町中は随分と変わっているのにと呟く御剣を、成歩堂が振り返る。
「教室の窓から見えていた景色と、同じだ」
「御剣は、いつも窓側の席で羨ましかったな」
「君や矢張の指定席は、教壇の真ん前だった」
「矢張がすぐにちょっかいを出してくるから、僕まで目をつけられたんだよな」
「彼だけのせいだとは、言えまい」
「御剣だけは、ここで僕を庇ってくれるって思ってたんだけど……」
「そうしてやりたいのはやまやまだが、真実はたった一つしかない」
御剣が鼻で笑うと、成歩堂はがっくりと項垂れ、段ボールを次々に開けていく。大学で使っていた教科書や参考文献、画集や写真集といった本は嵩張る上に重い。数冊の、手放したくはないものは東京の部屋に残してあるし、今更内容を確かめる必要もないのだけれどと成歩堂が言うと、
「芸術学部に籍を置いていたそうだが、専門分野は何だったのだ?」
と、尋ねてきた。
「工芸で木工細工をしてたかな」
「そう言えば、手先は器用だったか……」
「矢張ほどの独創性はなかったけどね。まぁ、祖父ちゃんの跡を継ぐつもりだったから、独創性はいらないんだけどね」
「お祖父さんは、何をしてらしたのだ?」
「仏壇職人。趣味で欄間とか達磨とか。あと、表札ね。よく頼まれたりしてたよ」
「君は大学で、仏壇を作っていたのか?」
「いやいや、それはやってないよ。モチーフに雲形とか唐草とか蓮とか使ったことあるくらいで……」
最後の本の箱の確認を終えると、成歩堂は部屋の中で最も大きな箱を示して言う。
「この中に卒業制作とか、入ってる筈なんだけど……見る?」
「ほう?」
「たいしたもんじゃないけどね」
成歩堂は梱包材で丁寧に包まれた作品を、一つずつ御剣の前に置いた。最初は寄木細工のオルゴール。次に桜の花のレリーフが施された上蓋のついた小箱──これもオルゴールなのだと成歩堂は告げる。
「寄木細工はほんの真似事だけどね。曲は『月の砂漠』。こっちは『荒城の月』。桜の方は祖母ちゃんにあげようかな。好きなんだよ、この歌」
その次に取り出した箱を御剣の前に置き、成歩堂が言う。
「これは卒業制作の雛人形」
「雛人形?」
「細かい細工がしたかったから、お道具類には力が入ってるんだけどね。人形の出来はイマイチだな。これは僕が持っていても仕方ないから、真宵ちゃんと春美ちゃんにあげようかな」
最後に成歩堂は、手の込んだ透かし彫りで飾られた猫足付きの文箱を取り出す。
「これは御剣にもらってほしいんだけど……」
御剣に手渡された箱は側面に唐草と花を組み合わせた優美な彫刻が施され、花芯には螺鈿が象嵌されている。蓋の中央には二羽の鳳凰がシンメトリーに配置され、その周囲をやはり蔦と花が優雅な曲線を描く。摘みには半透明の翡翠色の硝子玉があしらわれているそれは、美術工芸品にはあまり詳しくない御剣にも力作だと知れた。
「しかし……」
「仏壇職人になるつもりだった僕の、最後の作品」
「ならば、君が持っているべきだろう」
御剣の言葉に、成歩堂が静かに首を横に振る。
「御剣に見てもらっても恥ずかしくないものを作るんだって、結構、気合い入れてたから、貰ってやってよ。使ってくれると、もっと嬉しいんだ。職人てのは、作ったものを使ってもらえてナンボって感じだから」
祖父ちゃんの受け売りだけどと、成歩堂が笑う。
御剣は迷った。成歩堂にとって大切なものだからこそ自分の手元に置きたいと思い、それだからこそ作り手の元にあるべきだろうとも考えてしまう。
「それに、御剣ンちに置いてもらえたら安心だし、僕もいつでも見に行けるなって思うんだけど……」
どうだろうと身を乗り出す成歩堂の真剣な眼差しには逆らえず、御剣は押しつけられるように手渡された箱を改めて見詰めてから、承諾の意を伝える。
「この小函に収めるにふさわしいものを持っていないことが、残念だ」
「鍵がないから、貴重品はダメだぞ。中もそれなりに見えるから、ヤバイものも入れられないし……案外、使い勝手が悪いんだよ」
「参考のために、本来の使用目的を、聞いておこうか」
「お経を仕舞っておく箱なんだよね、実は。仕様の決まりがないから、何に使ってもいいんだけど、提出する時には無難に“経箱”にしたんだ」
妙なものを入れると仏罰が当たりそうだと御剣が呟くと、成歩堂は制作者本人がある意味罰当たりな人間だから大丈夫だと笑った。
そして成歩堂と御剣は、本の入った段ボールを全て階下に移した。成歩堂は母親に本の処分を頼み、母親は予想よりも作業が早く終わった褒美にと、冷えた西瓜を切ってくれる。西瓜を載せた皿を手に二階に戻るとすぐに成歩堂が西瓜よりも甘い褒美をねだり、御剣は微笑みながら幼馴染みであり、今では恋人で、法廷に立つ時には好敵手となる男の項を抱き寄せた。
取り敢えず、というには唇を重ねていた時間は長く、互いの身体に回した腕は熱い。幼い頃に一緒に遊んだこの部屋で、腕の中に御剣を抱いているのだと考えるだけで、成歩堂の胸には熱いものがこみ上げてくる。長い口吻けのためか、少し息が上がっている御剣の瞳が潤んでいるのを認めると、矢も楯もたまらずに強引に濡れた唇を奪う。それから深く唇を合わせ、その全てを味わうように御剣に探りを入れると、御剣も情熱的な答を返してくる。それが嬉しくて成歩堂は、子供のようにもっと、もっとと御剣を求めた。
突然、子供心にも納得できる理由もなく御剣が自分の前から姿を消した。再びその名前を目にした時、大志を抱いていた幼友達は夢とは相反するとも言うべき道を歩いていた。彼が夢を違えた理由を知りたいがために、成歩堂は弁護士を目指した。冷たい目をした御剣との再会と法廷での闘い。そして、多くの人々を巻き込んだ不幸な事件の当事者となった旧友を冤罪から救い出すために奔走した冬の日々。ようやく旧交を取り戻せたと思った矢先の疾走。その後の予期せぬ再会や、いつの間にか友情を超える感情を抱いていたこと、叶う筈などないからと胸の奥に押し込めていた想いが不意に溢れ出たあの日、御剣もまた同じ想いを同じように抱え込んでいたこと。それからの、互いの距離を推し量るように触れ合うようになった日々を思い返しながら、成歩堂は飽かず御剣を抱きしめる手に力を込めた……つもりが、強い力で身体を押し返されてしまった。
「御剣……?」
「いい加減にしないか」
つい先刻までの甘い雰囲気など微塵も感じさせない、冷静な口調に驚く成歩堂の腕をすり抜け、御剣は開け放たれたままの窓から身を乗り出してみる。
「落っこちないように、気をつけろよ」
言いながら窓辺に来た成歩堂は、御剣がバランスを失したとしても無理なく手を伸ばせる距離と姿勢を取り、それが御剣には非常に嬉しくもあり、そして少しくすぐったくもあった。
「小学校が見える」
この町に住んでいた頃に、御剣は彼自身の人生を一転させてしまう程の事件に遭遇し、た。故に彼はこの町での全ての記憶を封印し、尊敬してやまなかった父を失ったことさえ、自分自身からは遙かに遠い出来事のように扱うこととなる。その結果として、十五年もの歳月を罪の意識に彩られた悪夢を唯一の友とし、法という名の鎧に身を固めて生きてきた御剣は、自らが負う罪の深さ故に犯罪を憎み、検事として生きてきた──否、生きるほかなかった。二度と訪れることなどできはしない筈のこの街の、再会などあり得ない筈の旧友と共に、かつて共に遊んだ部屋の窓から、幼い頃に通った小学校を眺めていることの不思議さを、改めて御剣は思う。
「兎は、まだいるのだろうか」
「孫とか曾孫とかかな、今は。僕が卒業する時にいたのは、御剣も知ってるあの兎だったよ」
放課後、兎小屋の掃除をする成歩堂を待つのが好きだった。嬉しそうにウサギの世話をする幼い成歩堂の姿と、小屋の扉を開け放して中の敷き藁を交換する時、預けられた兎の小さな体温が思い出される。人によく慣れていた兎は、動物に接するのが得意ではない御剣の腕の中でもおとなしく、赤い瞳で幼い彼を見つめたものだった。
「御剣?」
声の方向を振り向けば、黒い瞳が御剣を見つめている。
「黙り込んで、何、考えてるんだよ」
「兎……だろうか」
「兎?」
怪訝な表情の成歩堂を御剣はそっと抱き寄せた。
小学校の片隅で託された小さな命と同じ種類の温もりが、十数年を経た今もこの手にあること自体が奇跡だと、御剣は思う。不義理の限りを尽くし、変わり果てた自分を捜し出しただけでなく、対極にあるとは言え、法の庭に自らも立つ資格をもぎ取った成歩堂との、長い歳月を隔てた再会こそが奇跡だったのか、それとも成歩堂龍一という存在自体が希有であるのかはわからない──というより、今の御剣にとってどうでもいいことだ。
御剣は満ち足りた気分で、深く息を吸う。薄い汗に混じる成歩堂自身の匂いが鼻孔をくすぐる。
「ねぇ、御剣。もしかして、僕が兎なワケ?」
「ム……」
「じゃぁさ、ちょとでいいから、もっとやさしくしてよ。だってさ、兎って寂しいと死んじゃう……っ!!」
成歩堂の言葉を遮るように、御剣が尖った頭に拳をお見舞いした。
「何するんだよ!! さっきから冷たいっていうか、ひどいじゃないか」
「貴様のどこが兎だと言うのだ! あの愛らしい、健気な小動物と自分を同等に論じるなど、厚かましいにも程がある!!」
「御剣が先に思わせぶりなことを言ったり、したりしたんじゃないか!!」
『異議あり!』と、成歩堂が言い放ち、すぐさま御剣がその発言を却下する。
「貴様は曲解が過ぎるのだ。いつもいつも自分に都合の良いように解釈するのも、いい加減にしたまえ!」
「誤解されるような言動を取る方がよくないんだぞ? 『李下に冠を正さず』って、知らないのか?」
「その程度の常識を知ってるからと、胸を威張るな! この素人弁護士が!!」
「石頭検事に何を言われても、痛くも痒くもないね!!」
好意の裏返しでもある毒舌の応酬は、いつの間にか悪戯のようなキスになった。階下から伝わってくる家族の気配に、ゆっくりと深くなる戯れに溺れてしまわないように気をつけるのがもどかしいのか、成歩堂が呟く。
「こういう家は、若い二人には不便だよな」
「慎みを身に着ければ、問題はない」
「いつ何時、おふくろが来るかもしれないし」
「ここにいる間くらいは、清らかな幼友達でいようという発想ができないのか?」
「僕は聖人君子じゃないからね」
ふてぶてしく笑いながら、再び口吻を仕掛けてくる成歩堂の扱いをどうするかと御剣が考えていると、
「りゅーいちーっ、れいじくーんっ。ご飯よーーっ!」
と、階下から二人を呼ぶ威勢の良い声が聞こえた。
「タイムリミットだ、幼馴染み君」
余裕たっぷりの涼しい笑顔を御剣が浮かべると、成歩堂は至極残念そうに、そして忌々しいと言わんばかりの声で言った。
「いいとこだったのに……」
未練がましくまとわりつく成歩堂の腕を引きはがし、御剣が立ち上がる。成歩堂は薄情な恋人を視線の端で追いながら、けれど見ない振りをしながら、わざとらしく膝を抱え、無駄だと承知の上で同情を引こうと試みた。頭の上で呆れたような溜め息が聞こえる。これ以上、子供じみた真似を続けたところで何の得にもならないと思った成歩堂に、御剣の右手が差し伸べられた。
「行くぞ」
叱り飛ばされるのがオチだと考えていた成歩堂にとって、御剣の穏やかな表情はもちろんだが、静かに彼の手を引いて立つ手助けをしてくれる手の存在が、照れ臭い程に嬉しい。
「食卓に着くまでに、そのしまりのない顔を何とかしたまえ」
最終的には眉を顰められてしまった成歩堂なのだが、そんなことも気にならない程に満ち足りた気分だった。
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