節分狂想曲1


 補習から逃げ出した桜井琉夏は、潜伏先から兄の琥一にメールを送る。放課後の音楽室。グランドピアノの下の空間は、演奏者から姿を隠せるだけでなく、豊かな表情を持つ調べも聞こえてくる絶好の場所だ。

「セイちゃん、絶好調だね」

抱えた膝に片頬を押しつけながら言うと、不機嫌そうな声が返ってくる。

「わかるのか、お前に」

「前より、何か楽しそう。いいこと、あった?」

「ない」

「そう?」

「そうだ。ところで、琉夏。いつまで、そこにいるつもりだ? 気が散る。さっさと帰れ」

少し動揺したような声音の幼馴染みの声に

「只今絶賛待ち合わせ中。もうちょっと、いさせて?」

と、答える琉夏に設楽聖司は溜息で返事を寄越したが、その指は我関せずと言わんばかりにメロディーを奏で続けている。放課後になると聞こえてくる、いつもの曲。思い入れがあるというよりも、曰く付きといった印象の音に耳を傾けていると、賑やかな声と共に幼馴染みの水田まりと琥一が揃って顔を出す。

「このバカを、さっさと連れて帰れ」

「ヒデェ、セイちゃん」

「うるさい」

いつものように「もう」と呆れ顔で笑いながら水田が

「明日からの補習にちゃんと出たら、恵方巻き、持ってきてあげる。だから、頑張ろうよ。ね?」

と言う。

「恵方巻き……作るの?」

「作るよ、大量に。ご近所の奥様達と手分けして具材を作るから、毎年、お店屋さんができるくらい作るの。私も手伝うんだよ。だからね、節分の日、お弁当にして持ってくるよ」

「そりゃ、楽しみだな」

「そうだ、設楽先輩も一緒に食べませんか? 私、頑張って作りますから」

名案だと言わんばかりに笑う水田を、設楽は無言で見つめている。

「今年はどっち向きだっけ? 知ってる? セイちゃん」

「知ってるに決まってるだろう。常識だ、そんなもの」

「ま、普通は知ってる……つーか、常識にもなんねぇよなぁ」

「まぁね。それじゃ、設楽先輩の分も用意しますから、楽しみにしててくださいね。あ、そろそろ急がなくちゃ。琉夏君、明日は補習出なきゃダメよ? 琥一君も、また明日ね。設楽先輩、お先に失礼します」

「あ……ああ」

水田を見送る設楽の微妙な表情を、琉夏は琥一に目配せで教える。すぐに事情を察した琥一は、片方の眉尻を僅かに上げた。

「恵方巻き、楽しみだな、コウ。セイちゃんも」

「だな」

「セイちゃんさ、恵方巻きのお作法……ポーズとか衣装とか、バッチリだったりする?」

ポーカーフェイスならぬポーカースマイルを浮かべながら問う琉夏に、設楽は当然だと言わんばかりに胸を張る。

「当然だ。そんなこと、常識以前の問題だ。お前達もさっき、そう言ったんじゃないか?」

「さっすが、セレブ様々だ、な」

「セイちゃん、凄いね。俺、ソンケーしちゃった」

さり気なく褒めそやしてやると、設楽の表情が僅かに硬くなる。

「やっぱさ、鉢巻きは白だよな、コウ。で、願い事を書いて……あ、マジックで良かったっけ」

「あ……ああ、ま、アレだ。一応、神さんに願い事ってことになってんだからよ、墨汁とか……あれだ、筆ペンだ」

「やっぱ、そう? あと、鰯の頭のついた柊の葉っぱ。あれも、持ってこないとな」

「おい、それは玄関先に飾るとかってやつじゃないのか?」

「恵方巻き食べる時にも使うんだ。前と後ろと右と左、全部で4本鉢巻きに差すの知らないの? 食べ終わるまで鬼に邪魔されないようにってさ。食べる時は脇をがっちり占めて、両手で巻き寿司を持って、右手は中指、左手は小指を立てるんだけど……あ、セイちゃん、もしかして恵方巻きのこと“シッタカ”っぽい? まりちゃんの前だからって、ちょっとカッコつけたくなったとか……」

「何だよ、そういうことかよ。ったくよぉ。知らねーなら、最初っから素直に言えよ、セイちゃんよぉ」

挑発するような琥一の視線を毅然と受け止めた設楽が、

「お前達が知らないようなら教えてやろうと思って、とぼけて見せただけだ。有り難く思え」

と、言い捨てる。

「そっか。優しいね、セイちゃん」

「そう思うなら、感謝しろ」

「わかった、わかった。感謝してやるよ。なぁ、ルカ」

「だな。俺達、これからバイトだから、帰るね。じゃね」

 音楽室から玄関へ向かう廊下を歩いていると、琥一が笑いを噛み殺すように言う。

「全然、分かってねぇな、ありゃ」

「恵方巻き、チョー楽しみ。コウ、賭けるか? 負けた方が皿洗い1週間。俺、セイちゃんが鰯の頭持ってくる方な」

「それじゃ、賭けになんねーじゃねぇな。しっかし、相変わらずピアノしか能のねぇヤツだな」

「だって、それが、セイちゃんだから」

琉夏が笑うと、琥一は呆れたように空を見上げた。

◇◇◇

 生徒会執行部の活動を終えた紺野玉緒は、借りていた本を返すために図書室に向かっていた。

「おい、紺野」

後ろからかけられた声に振り返ると、設楽が立っている。

「設楽」

「図書館に、行くのか?」

「ああ。本を返しに」

鞄から出した本を、設楽は興味なさそうに一瞥する。

「付き合う」

並んで歩き出す設楽に、珍しいこともあるものだと紺野は思う。自分の興味と感情のままに振る舞う設楽は、良くも悪くも芸術家肌を地でいく人物である。そのせいで周囲とトラブルを起こすことも少なくはないが、おそらくは必要以上に周囲を気にしてしまう紺野にとっては、自分勝手半歩手前にある率直さは羨ましくもあり、心のどこかで羨んでいる自覚も持っていた。

「何か、話でもあるのか?」

「恵方巻きって、知ってるか?」

「節分の日に丸囓りする巻き寿司だよな。今年は確か、南南東だったかな」

「南南東?」

「恵方だよ。縁起の良い方に向かって食べるんだ。ちなみに、恵方は毎年変わる」

「それで?」

「海苔巻きを一本食べ終わるまで、喋っちゃいけない」

「一本……切らないのか?」

「縁起を担ぐんだよ。細く長く……だったかな。切らないままの海苔巻きを、無言で一気に食べてしまうんだ。お年寄りや小さな子供には細巻きだったり、人によっては切ってから食べることもあるよ。縁起にこだわって喉に詰まらせたりしたら、大変だからね。無言で食べるのも、確か謂われがあった筈……」

「他に何か、あるのか? その……衣装というか、作法のようなものだが……」

「他にって……どうかしたのか? 設楽。急に恵方巻きに興味を持つなんて」

「別に、どうもしない。そう言えば、柔道部のヤツは、食用菊を巻き込むとか言ってたな。巻き寿司の種類は、何でもいいのか? 食材の決まり事とか、そういう……」

「そういう家や地域も、中にはあるだろうな。巻き寿司そのものに、特に決まりはなかったと思うけど。もしかしたら、ローカルルールのようなものもあるかも知れない」

「何だと?」

自分の何気ない言葉に過剰に反応する設楽に、紺野は驚いた。

「おい。恵方巻きについて知っていることを聞かせろ。全部だ」

「全部って……僕だって、よくは知らないぞ? 最近はロールケーキなんかも恵方巻きにカテゴライズされてることくらいしか……」

「それでいい。洗いざらい教えろ」

「設楽……それ、人に何かを頼む態度じゃぁ、ないな」

「うるさい。教えるのか、教えないのか?」

「わかった。教えるよ。先に本を返却してくるから、適当な場所に座っていてくれ」

「早くしろよ」

 不遜な表情と態度の設楽を見送りながら、今回のことはきっと、後輩の水田まりが絡んでいる。そう、確信する紺野であった。


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