銀の針と青い空-1- トラン城の一角。解放軍の戦士達が休息を取る宿屋のカウンターの奥にあるマリーの部屋にグレミオはいた。部屋の女主人は湯気が上がるカップを二つテーブルに置き、口を開く。
「悪いわねぇ、グレミオ。あんたも何かと忙しいってのに」
「いえ、私は大丈夫ですから。ところで、改まってお話というのは一体……」
「ビクトールのことなんだよ」
溜息混じりのマリーの言葉に、グレミオも溜息で答える。
「ビクトールさん、また何かやらかしちゃったんですか」
「やらかしたんじゃなくて、何もやらないもんだから困ってんのさ」
マリーはまた一つ溜息をつくと、熱いお茶を一口すすった。
マリーは訥々と彼女が抱えている悩みについて語り、グレミオはマリーの言葉の一つ一つを聞き漏らすまいと、真摯な態度で相槌を打つ。
「部屋を片づけないなんて……ビクトールさんも困ったもんですね。でも、ビクトールさんは誰かに部屋を整理整頓されたり、掃除されたりしても怒ったりしないと思いますよ」
「実は私もそう思ったんだよ。で、この間も掃除をしてくれてる女の子達に言ったのさ。ビクトールは細かいことにこだわったりしないから、ゴミに見えるものなら何もかも捨てちまってもいいってね」
「それでも駄目だったんですか」
「どれがゴミだか何だかわからないって、泣きつかれちゃってさ」
「洗濯物もたまってそうですね」
グレミオが遠い目で言った。
「おまけに、がらくたで足の踏み場もないって話だったよ」
「……困りますね」
「そうなんだよ。困ってんだよ、グレミオ」
こめかみを押さえながら相槌を打つと、マリーは足下に視線を落としたきり黙り込んでしまった。
反逆者一味としてグレッグミンスターを追われた夜、赤月帝国の兵士達からティルやグレミオ、クレオの3人を、危険を承知でかくまってくれた気丈なマリー。解放軍がトラン湖の古城を本拠地とした時、グレミオ達一行を匿ったかどで帝国軍から追われる身になった恨み言さえ口にせず、彼女は本拠地内の宿舎の管理人を買って出てくれた。彼女のしつらえてくれた寝具は心地よく、温かなスープは旅や戦いの疲れをいやしてくれたものだ。仲間が増えるに従い、マリーの仕事量も目に見えて増えていったが、彼女は愚痴の一つも零さずに解放軍に身を寄せる者達の世話をしてきた。
グレミオは思った。マリーの力になりたいと。マリーの負担が少しでも減らせるのであれば、どんなこともしてみせようと。
「マリーさん、私がビクトールさんをなんとかしましょう」
「やってくれるかい、グレミオ」
「もちろんです。ビクトールさんの行いが大勢の人達に迷惑をかけていると知った以上、放っておけませんよ。解放軍ではどうしても戦場に出る人達が注目されがちですけど、後顧の憂いなく戦に出られるのも、戻ってから快適に暮らせるのも、清潔な服を着ていられるのも、城を守ってくれる人達がいてくれるからなんです。それに気づかかないどころか、単に本人がだらしないというだけの理由で、その人達を困らせていいわけがありませんよ。それに、ビクトールさんの生活態度は、ぼっちゃんに悪い影響を与えるに決まってます」
「ほんとに、そうだよ、グレミオ。ティルぼっちゃんの他にも、ここに大勢の子供達がいるんだから、ああいう大人を野放しにしていちゃぁ、いけないよ」
「それじゃぁ、早速、私はビクトールさんを探しにいきます」
グレミオはそう言うと、マリーの部屋を後にした。
◇◇◇ 豊富な傭兵経験を持ち、旅慣れてもいるビクトールは頼りになる仲間だ。それはグレミオも認めている。しかしティルをはじめとする少年達に見習ってもらいたくはない言動には、グレミオが頭を抱えることも少なくない。例えばそれが一過性のものであれば見なかったふりの一つもできるのだが、解放軍の居城でもある本拠地で──いくらそこがビクトールに割り当てられた私室であろうと、既に予想されている衛生的とは言い難い状況を放置することだけはできない相談だ。
まっすぐにビクトールの部屋に向かったグレミオは、扉の前で一旦立ち止まった。それから一つ深呼吸をして、古びた木造のドアのノブに手をかけた。
◇◇◇ 汗の臭いが充満している室内に設えられたベッドの上で、ビクトールは大の字になっていた。気持ちよさそうに高いびきをかいている姿にグレミオは、よくもまぁ、こんな部屋で熟睡できるものだと呆れると同時に、解放軍に属する少年達に悪影響を与えかねない惨状を、力づくでも改善すべきだとの誓いを新たにする。
「ビクトールさん起きてください」
ビクトールに声をかけてみたが、ビクトールはピクリともせずに眠っている。
「ビクトールさん、お話しがあります。起きてください」
グレミオがビクトールの身体を揺するとようやく、部屋の主は薄く目を開いた。迷惑そうな、何がなにやらわからぬ声でグレミオに答えたビクトールは、そのまま毛布を頭から被って眠ってしまう。
「起きないというなら、実力行使に出ますよ」
毛布に隠された逞しい体躯を先刻よりも強い力で揺すってみたが、ビクトールはムニャムニャと言うばかりで起きようとはしない。
「忠告を聞き入れないほうが悪いんですからね」
そう言うとグレミオは勢いよく毛布の端を引き寄せる。その途端、ビクトールの身体は石の床に落ち、更に勢い余ったように何度か床の上を転がった。
「何すんだ、お前は! 痛てぇじゃないか、グレミオ!!」
「実力行使は予告しましたよ」
床に座り込んだまま、身体のあちこちをさするビクトールにグレミオが、冷たく言い放つ。その空気にビクトールは不穏な何かを感じ取ったのか、神妙な表情を浮かべてみせる。
「まぁ……アレだな。人の昼寝をジャマするくらいなんだから、何かあるってぇのは俺にもわかるぜ。さて、その大事な用ってのを聞かせてもらおうか」
無理矢理叩き起こされた不機嫌さを懸命に押さえ込みながら、作り笑顔を浮かべてビクトールが言った。
「では、たまりにたまった洗濯物を出してもらいましょう」
グレミオが静かに答える。その口調は穏やかだったが、グレミオの目は完全に据わっていた。それどころか全身から殺気に似た緊張感を孕んだ空気が発せられおり、どんな時でも少々のことでは動じることのないビクトールも、多少余裕を失っている。
「洗濯物だぁ? そんなもん、どうすんだよ」
「どうするも何もありません。洗うに決まっています。ついでにこの部屋の大掃除もやっちゃいましょう。ビクトールさん。当然、あなたにも手伝ってもらいますよ」
「おいおい、誰がそんなこと頼んだよ。俺は俺で適当にやってんだから放っておけ。それよりお前さんは、ティルの世話で忙しいんじゃないのか」
「大切なぼっちゃんのため、そしてこの城で生活を共にしている子供達のため、そして洗濯や掃除をしてくれている人達のためにも、あなたの生活態度を見て見ぬ振りできません」
洗濯物をためたくらいで、何を大袈裟なことを言い出すのかとビクトールが文句を言うと、
「あなたのそのいい加減な生活態度を見習う子供達が出たら困ります。未来ある若い人達には周囲の大人が手本となる規範を示さなければならならないんですよ? それなのにビクトールさん、あなたって人は昼間から何もしないでベッドで寝転がったままじゃないですか。いい大人がこんなにだらしのないことでどうするんですか!!」
「昨夜は軍師さんたちとの会議が長引いたんだ。昼寝くらいしたっていいじゃないか」
「坊ちゃんも同席していましたから、それは存じています。それにお昼寝が悪いなんて、私は一言も言ってませんよ。私が言いたいのは、洗濯物をやたらにため込まないでくださいってことと、もう少し部屋の整理整頓をしてほしいってことです」
この惨状のままでは、トラン城の掃除や洗濯を引き受けてくれている者達もビクトールの部屋に進んで近づこうとはしないだろう。そんな状態が長く続いたならば、ただでさえ乱雑極まりない室内が非衛生的になってしまうではないか。それどころか最悪の場合、ビクトールの部屋を汚染源とした疫病さえ発生しかねないとグレミオは言った。
「随分と言いたいことを言ってくれるじゃないか、グレミオ。それになぁ、おい、いくら俺でも、そこまで無精するかよ。ったく、こんなボロクソな扱いをされちまったら、さすがの俺様も傷つくってもんだ」
こう見えても、意外と繊細なんだとしょげて見せたビクトールを全く相手にせず、
「ぐだぐだ言ってないで、さっさと覚悟を決めてくださいよ。逃げようったって、そうはいきませんからね」
と、グレミオは宣言し、勇ましい動作で腕まくりをした。
◇◇◇ ベッドから、いつ洗ったのかさえ定かではなさそうなシーツを引き剥がしたグレミオが、床によれよれのシーツを広げた。次に開けっ放しになっていた衣装箱をひっくり返して、その中身をシーツの上にぶちまける。それから部屋の隅に丸められたまま忘れられた、或いは裏返しのままに放置された布でできた何かを片っ端から拾い上げ、洗濯物の山を作った
「あ、おい。それはまだ着られるんだ。洗わなくていい」見事な手際で汚れ物を見つけ出していたグレミオが、椅子の背に引っかけられたシャツに手を伸ばしすと、ビクトールが慌てて言う。
「このシャツ、一度も着てないわけじゃないでしょう」
「まぁ……な、2〜3回くらいな、着た」
それほど汚れもしていないし、汗もかいてないからとビクトールが言うと
「それだけ着れば充分です。洗いますよ。もうこの際、一度でも着たものは全部、洗っちゃいましょう」
と、グレミオが毅然と答える。
「バカ野郎、そんなことしたら、まっ裸になっちまうじゃねぇか」
ビクトールは抗議の声を挙げたが、
「自業自得です」
と、グレミオは欠片ほどの情も含まない声音で答えると、火事場の馬鹿力とも言える迅速さと力強さでもってビクトールを丸裸に剥いた。
それから数分後。ビクトールはふてくされてベッドの上に胡座をかき、グレミオは床に広げたシーツを風呂敷代わりにして大量の洗濯物をまとめ、何の苦もないといった様子で背負う。
「そのみっともない格好で城内をうろつかないでくださいよ。ここにはご婦人方も大勢いるんですからね」
「お前なぁ……そんなに俺は信用がないのか?」
「これだけ洗濯物をため込んでおいて、何を今更」
グレミオはビクトールを一瞥し、すぐに戻ると言い残して部屋を後にした。
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