彼らの隠れ家 10
職員室で顔を合わせた山田は、いつもと変わらないように見えた。山田に気取られないよう、山瀬はそっと様子を窺ってみると、山田は完璧なさり気なさで山瀬と目を合わせようとはしない。
ここ数日の己の言動を振り返れば、それは無理のないことだ。男同士だから表沙汰にはならないが、山田が女性であれば確実にセクシャルハラスメントになるのが明かであるだけでなく、ことと場合によれば犯罪者として社会的制裁を受けることにもなりかねない。山田に許されていないことを百も承知の山瀬だったが、山田がどうにかして平静を保とうとしてくれていることが、正直なところ嬉しい。ことを荒立たせない山田の本心を知ろうするどころか、全てを自分の都合の良いように考える愚かさを嗤いながらも、山瀬は『恋は盲目』という言葉を忠実に体現するのを楽しんでいた。
口から先に生まれたとしか思えない姉と妹と、母性本能のままに人の世話を焼きまくる母親に囲まれて育った山瀬は、どちらかというまでもなく受け身な性格だと自分を評価していたし、実際に誰かを困らせてしまうほどに強気な態度に出たことはない。その自分が山田に対する時だけは平静ではいられないばかりか、たがが完全に外れたとしか思えないことをしでかしてしまう。今度の件で新たに発見した自分は、まるで他人のように感じられたが、どこか懐かしくもあった。ずっと幼い頃の、我慢や自制など知らず、思いのままに振る舞っていた時代が戻ったような気さえする。
罪悪感で多少胸が痛みはするが、山瀬は放課後に決戦を仕掛けることにした。自分勝手が過ぎるのは承知している。だがこの勢いに任せてしまわなければ、きっと後悔するだろう。失恋するどころか、最悪の場合はせっかく得た友人を失う結末は既に見えている。それでも、と山瀬は腹をくくって放課後を待った。
◇◇◇
仕事を終えた山瀬は理科準備室に向かった。引き戸にかけた手に強い抵抗を感じて、山瀬はポケットからキーホルダーを取り出す。自宅アパートの鍵と一緒に、キーホルダーにまとめられた鍵は軽やかな金属音を奏でた。山田から手渡された春には銀色に輝いていた鍵は少しくすんでいたが、先端だけは磨いたような光沢を保っていて、山瀬は理科準備室を何度も訪れた半年余りを思う。忙しない毎日の中、薬品や紙や標本の匂いが混ざり合った匂いに包まれて活字を追うのは、山瀬にとってこの上ない休養になった。
その安らぎのひとときも、今日を限りに手放さなくてはならない。それは山田の友情を失うことの次に切なく思われた。山瀬は一度だけ指でなぞってから、理科準備室の鍵をキーホルダーから外し、静かに引き戸の鍵を開けた。
主のいない、少し広く感じる部屋を、山瀬はゆっくりと眺めた。それから、部屋の隅に置きっぱなしにしていた本を鞄に入れようとしていた時、山田が入ってきた。
「今日は、早いですね」
そう言う山田の笑顔は、どこかぎこちない。やはり同じように不自然であろう笑顔を作り、山瀬は話があると切り出す。山田は山瀬の申し出を快諾すると、お茶の用意し始める。使われていないアルコールランプに火を点した瞬間、アルコールとマッチの火薬が同時に燃える、独特の臭いが部屋を満たした。古ぼけた椅子に座る山瀬に渡された湯飲み代わりのビーカーは何度も洗われたためか、表面の目盛りが少し掠れている。
「風邪はもう、エエんですか?」
「風邪なんかじゃなくて……実は、ずる休みだったんです」
驚く山田と目を合わせて、山瀬は言葉を継ぐ。
「自分勝手なことばかりして、山田先生に迷惑をかけてしまったから、顔を合わせるのが怖かったんです。それで、つい仮病を……迷惑どころか、心配までかけてしまって、すみません」
口の中が妙に乾いている。山瀬は湯気の上るビーカーを口元に運び、ほうじ茶で唇を潤した。
「何からお話しすればいいのか、自分でもよくわかってないんです。でも、はっきりしていることはあります。僕は山田先生が好きなんです」
「へ……」
「僕自身も気付いてませんでした。山田先生にあんなことをした理由を一日かけて考えて、この答に辿り着いたんです。僕は山田先生に友情以上の気持ちを持っていて、だから山田先生がぐっすり眠っているのを見ているうちに、キスをしたくなった。それを頭から冗談だと決めつけられて、腹を立てて、山田先生の気持ちもお構いなしに、あんなことをしてまったんです、きっと。山田先生には謝らなくてはならないと思ってるんですけど、でもその前に、僕の率直な気持ちを伝えたかったんです」
山瀬は山田の視線を捕らえて、
「山田先生。僕は、あなたを愛しています」
と、告げた。
案の定、山田は驚きのあまり言葉を失っている。
「先生の気持ちも考えず、ひどいことをしました。本当にすみませんでした。謝って済むことじゃないのはわかってます。今まで通り、友達でいてもらえるなんて図々しいことも考えていません。ただ、僕は……僕は自分の気持ちをきちんとした言葉で伝えたくて……」
それだけ言って山瀬は立ち上がり、外しておいた鍵を山田に差し出した。山田は山瀬と鍵を交互に見たが、何も言わない。
言葉にした瞬間に、何もかも失ってしまうことを覚悟していた山瀬だったが、実際にその場に居合わせると、ひどく胸が痛んだ。それは思っていたよりも強い山田への思慕の証のようにも感じられ、山瀬は今更ながらに己の浅はかさに、胸の内だけで溜息をつく。
「もう、ここにはお邪魔しません。不愉快な思いをさせて、本当に申し訳ありませんでした。異動願いを出すつもりなので、次の落ち着き先が決まるまでは同僚として、改めてよろしくお願いします」
もしも今、山田が引き止めてくれたなら──この期に及んでも尚捨てきれない未練のせいか、鼻の奥が微かに痛む。できれば二度と会わない方がいい。同じ職場にいる以上、顔を合わせるたびにきっと山田は不愉快な気分になり、山瀬はそれを寂しく感じる。けれどきっと、嫌われていても同じ職場にいるお陰で毎日のようにその姿を見られる幸運に、自分は後ろめたさの混ざる喜びを感じるのだ。
驚きで目を見開いたまま、山田は表情を失ってしまっている。山瀬の指先では、差し出されたままの鍵が揺れたまま、行き場を失っていた。揺れる鍵の頼りなさに耐えられず、
「山田先生、鍵をお返ししますから……」
と、山田に話しかける。
「俺……センセーに嫌われるようなことしてしもて……スンマセン……」
消え入るように弱々しい山田の言葉に、山瀬は耳を疑った。
「せっかく山瀬センセーと友達になれたのに……」
そう呟いた山田は項垂れてしまっている。山瀬よりも遙かに恵まれた、堂々とした体躯を持つ筈の山田が、今は自分よりも随分と小さく見えてしまい、ついその肩に手を置いてしまいそうになった。
「山田先生を嫌いなわけではないんです」
山田に触れたいという衝動を抑え込みながら、山瀬が言う。
「そしたらなんで、鍵を返すとか言わはるんですか? 俺と顔を合わせたぁないから、せやからとちゃうんですか?」
「そうじゃなくて、先生といると何をしでかすかわからないからなんです」
わかってほしいと山瀬は言葉を重ねた。
「わからへんのやったら、別にかまへんやないですか。俺ら親友とちごたんですか? 俺はセンセーと親友やて思てたのに……悩み事があるねんやったら、なんで一言相談してくれはらへんのですか?」
けれど山田は、この世の終わりが来たような声音で、恨み言めいたことを言うばかりだった。
「やっぱり俺は、全然頼りにならへんのですね……センセーの親友はべーやんで、俺はその他大勢で……せやから俺には言うてくれへんようなことでも、べーやんには相談したりして……なんか、そんなん狡いですやんか……薄情です……」
理科準備室の鍵をぶら下げたまま部屋を出るきっかけを失った山瀬は、山田の繰り言から一つの要素が抜け落ちているような気がする。
「あの……山田先生?」
「センセーは落ち着いてはるから、俺みたいなお調子モンなんか、相手にようしはらへんかって、ほんで……」
相手にしないとかできないのではなく、恋愛の相手にしてしまったから距離を取ろうとしたのではなかったかと思い直し、山瀬は慎重に選んだ言葉を山田に投げかける。
「確かに……親友とか友情とか、そういう感情を山田先生に抱けなくなったのは確かなんですが……」
「やっぱり……!! 俺はまた、見捨てられるんや……しょーもない男やから……」
「ちょっと待ってください、山田先生。僕は山田先生がそんな人だと思ったことありません。むしろ……!!」
「そしたらなんで、鍵いらんとか言わはるんですか?! 愛想尽かしたから、友達なんかしてられへんからでしょう?」
やはり……と、山瀬は確信した。山田の思考回路から、恋愛感情という要素が完全に抜け落ちている。この間のキスも、その次の山瀬の激昂も、山田にとっては冗談と、その延長上にあることに過ぎないのだ。故に山瀬が山田を想うがからこそ鍵を返そうとすることは、山田には絶交宣言の他ならない。
山田の誤解を解き、意思の疎通を図ることが先決だと判断した山瀬は、鍵をひとまずポケットにしまう。もう一度、深く椅子に腰掛けると、項垂れたきりの山田がゆっくりと顔を上げた。今にも泣き出しそうな子供のような表情の山田を愛しく思うことは止められない。その感情が欲望に直結していることを承知しているからこそ、山瀬は山田との距離を伸ばそうとした。けれど自分の言葉に狼狽え、肩を落として嘆く山田を見れば、その決心は容易く揺らいでしまう。
「山田先生、僕の言うこと、ちゃんと聞いてくれてませんね?」
できるだけ穏やかな声で、山瀬は言った。
「俺は……」
「僕は山田先生が好きなんです」
「俺かて、山瀬センセーのこと、好きですよ?」
「僕は山田先生に恋をしているんです。だから、ただの友達のふりを続けるのは辛いんです」
山瀬は山田の額にかかる、短い髪を指先で掬い上げた。それからゆっくりと二人を遮る空間を狭め、唇が一瞬触れ合うだけのキスをする。
「ほら。こんな風に、先生の気持ちもおかまいなしに、こんなことしてしまいたくなる。これじゃぁ、先生にいつか嫌われてしまうでしょう? だから、そうならないうちに、先生と距離を取りたかったんです」
いつかと同じように呆気にとられている山田から離れようとした山瀬の手が、強い力で引っ張られた。驚いた山瀬が正面を見ると、自分を見詰める真剣な視線があった。
「なんで、俺? そんなん、嘘や」
「そんな風に決めつけるなんて、ひどいな。嘘だから、今までのこと全部、冗談だと思ってたんですか?」
「あり得へんもん、そんなん。俺がそんな風に相手にしてもらえるやて、絶対にあり得へんし……」
「それ、どういう意味ですか?」
山田の言葉がただ不思議で、山瀬は問うた。山田は決まり悪そうな表情を浮かべ、絶対に笑わないと約束するなら話すと答える。山瀬は一も二もなく山田と約束をした。数秒の沈黙をおいてから、山田は
「実は俺、彼女いない歴6年なんです」
と、言った。
「人並みに女の子と付き合うたりもしたけど、ようもって3ヵ月。短い時は半月で愛想尽かされて、いっつも振られてしまうんです。いっつも同じ理由で」
「理由を訊いても、いいですか?」
山瀬の問いに山田は頷いた。
「見かけ倒しの、しょーもないヤツ。全然おもろない。やること、なすこと鈍くさい。気の利いたことの一つも言えらへん。女心がわからへん。話がおもろないくせに長い。優柔不断。車持ってへん。他にも細かいことは色々ありましたけど、だいたいこんなもんで。告ったり、告られたり、始まりも色々やったけど、最後はいっつも同じです。大学の二回生の時、大失恋してからは軽い女性不信気味で……」
「その……振られたショックで?」
遠慮がちに訊く山瀬に、山田は頼りなく微笑う。
「それ以前の問題っちゅーか……まぁ、散々痛い目に遭うてきたから、二十歳くらいにはだいぶ慎重になってたっちゅーか、まぁ、アレやったんです。長いこと片思いのままで。告るんもコワイ気ぃするしで、なんとなく、まぁ、実験とかの多い講義で顔見れたし、実験の班が一緒やったから、それだけ嬉しかったんもあって、なかなか言い出せへんかって、それでも近くにおれるし、それだけでもええかなぁとか思てて……」
山田はしばらくの間、黙り込んだ。言葉を選んでいるのか、話を続けなくてすむ理由を探しているのか、その両方なのか、どちらでもないのか推し量ることはできない。それ故に山瀬は、山田の中に言葉が生まれるのを辛抱強く待った。
「何の飲み会やったかは忘れたけど……なんか、まぁ、同じ講義で仲良かったりしたモンが集まって、誰かのアパートで飲むことになって……俺は例によって飯炊き係で……俺、一人暮らしで自炊してんのん皆知ってたから、誰かのとこで飲むとかなったら、いっつもメシとか肴とか作ってて、料理は好きやったから別に何とも思わへんかってん。けど、好きやった子とその友達とが、部屋の端っこで好きな男のタイプとか話してるの聞こえてきて、俺のこと、永遠のキープ君やとか言うねん。料理もできるし、そこそこマメで、人付き合いもそつないけど、おもろいとこが一つもないて。色気もないし、アウトオブ眼中もええとことこか、エッチな気分になるどころか男に思われへんとか。話が長ぁて理屈っぽいとか、しょーもない話しかようせんとか。ちょっとおだてたら荷物持ちでも実験の片づけでも何でもするお人好しやとか。
俺が好きやった子だけとちごて、他の女の子らも似たようなこと言うててんけど、その前の実験で俺の話が面白いて言うてくれたばっかりやったから、ごっつうショックで……」
「それは……ひどいですね……」
「誰かて多少、外面と内面がちゃうのはわかってるつもりやったんです。けど、俺はアホで単細胞やから、彼女はそんなんちゃうて、なんか知らんけど思い込んでて……せやから、彼女が悪いんとちゃんです。俺が勝手に思い込んでただけで……」
なんだか妙に腹が立った。勝手に人を低く評価した挙げ句、山田から自信を奪った彼女達が、どうしようもなく腹立たしい。彼女らが短所としたところは山瀬にとって、山田の美点に他ならなかった。
確かに優柔不断なところもあるけれど、それは自分の気持ちをいつでも後回しにしてしまうからであって、単独行動の時には驚く程の行動力を見せる。確かにお人好しの面は否めないが、それは相手の喜ぶ顔を見たいという純粋な好意から生まれたもので、八方美人というわけでも、おだてに弱いわけでもない。話が長くなるのは一生懸命に分かってもらおうとするからであって、話題だって山瀬には新鮮に感じられるものばかりだ。そして何よりも、一生懸命に語りかけてくれる山田の声は、どんな時も山瀬の耳に心地よく響いた。
「それから、俺は恋愛事には向いてない体質やと思うようになって……この間のことも、センセーの冗談に決まってるて……」
「男の僕にキスされたのに?」
「べーやんは、実はキス魔で、へべれけに酔っぱろうたら誰彼構わずチューするから、そんなんかなぁて……」
「気持ち悪くなかったんですか?」
「ああ、べーやんのお陰で……」
「川辺さん?」
「実はべーやん、男も女もどっちもオッケーで、ツレにもホモとかニューハーフとかレズとかどっちもオッケーとか色々いてるさかい、まぁ、慣れてるっちゅーか、そういう人らが身近にいてるというか、いつの間にか俺もツレの中に入ってるっちゅーか……」
酔うと誰にでもキスする酒癖を持つ人間と同性愛者に免疫があって、自分は色恋事に全く縁がないと思い込んでいた。そういう条件が揃っているのなら、山瀬からの突然のキスも、山田にとっては珍しくはない悪ふざけの一つだったとしても不思議ではない。ならば最初から仕切治す他に、現状を打開する手立てはないと山瀬は考えた。
「だいたいの事情は、わかりました」
山瀬は静かに言う。
「でも僕の山田先生への気持ちも本当です。先生にとって僕は、恋愛の対象にはなりませんか?」
山田は何も答えなかった。しかしその面には複雑な表情が宿っている。
「何年もそういうことは考えたこともなかったんで……よう、わからんです。けど山瀬センセーは大事な親友で、せやから鍵を返すやて殺生なこと、言わんとってほしいです」
「この先も、この部屋に出入りすることになると、僕は自分の行動に責任が持てなくなります」
それでもいいのかと、山瀬は目の前の愛しい存在に念を押す。
「きっといつか、自分を押さえることができなくなる」
「それは、困ります」
「気持ち、悪いですか?」
「そうやのうて、俺の心の準備ができてないし……」
「これから心の準備をしてみてくれませんか?」
「これから……ですか?」
「山田先生は、僕が恋愛対象になるかどうかを考える。僕は山田先生にせっせと愛を囁くんです」
「手ぇつないだりとかも、あったりするんですか?」
「もう少し距離の短いスキンシップも……」
言いながら山瀬は山田に唇を寄せようとする。しかし山田の大きな掌に押しとどめられてしまう。
「それは、マズイです」
「どうしてですか?」
「ここは神聖な職場やから……」
「僕達の隠れ家でもあるんでしょう? いつか先生は、僕にそう言いましたよね?」
「それは、そうです。隠れ家みたいに一服したり本読むのに使うてくれはったら……」
「なら、問題はありませんよ」
山瀬は山田の大きな手を取って、笑いかけた。
「隠れ家ですることは、僕らが子供の時から、誰にも知られたくないことだと決まってるんです。僕は先生と一緒のいる時間を誰にも邪魔されたくないから、隠れ家を持てるのは実に好都合なんですよ」
山瀬の顔を、山田は惚けて見つめている。その頬を引き寄せて、山瀬は自分の気持ちが少しでも山田の心を動かすようにとの想いを込めて唇を重ねた。「僕がここで、山田先生にキスをするのは必然なんです。恋愛に関する秘め事は、神話の時代から、他の誰にも知られたくない当事者だけの秘密と決まってるんですよ」
短いキスを終えてから、山田が山瀬に問う。
「もしかして、俺は先生に口説かれてるんですか?」
「もちろん」
山瀬は笑顔を浮かべ、もの慣れない未来の恋人に言った。
◇◇◇
結局、山瀬は異動願いを出さなかった。そして理科準備室の鍵も、手放してはいない。彼は毎日のように隠れ家に通い、タイミングを計っては、山田と軽いスキンシップを重ねた。
山田は山瀬の言動に、最初こそ戸惑ったり驚いた入りしていたようだが、次第に生来の鷹揚さで山瀬を受け入れるようになった。けれど山田から山瀬にアプローチすることはない。
二人の関係はつかず離れず、お互いに異なる種類の行為を抱きながら、少しずつ歩みを進めている。急がなくてもいつか、答は出る筈だ。それがどんなものであれ、真正面から受け止められる自信が山瀬の中にはある。この先、どういう形に二人が収まるのかはわからないが、山田とは一生つきあえるという確信を彼は持つに至った。
川辺は相変わらず忙しそうで、それでも暇を見つけては窓から図書室にやってきた。彼が山瀬にとって掛け替えのない親友であり、川辺もそのスタンスを崩すようなことはせずに、一定の距離を守ってくれている。
赴任前にはどうなることかと考えていた大阪での生活だったが、冬が訪れようとしている今では、とても楽しいものになっている。それどころか山瀬は、京都と奈良の教員採用試験に落ちてよかったとさえ想っているのだ。そんな風に考えられる自分が不思議だったが、山瀬は誰もがいつ何時不測の事態に遭遇するかわからなくて、突然の出来事に驚いたり困ったり迷ったりしながらも、予測不可能な状況とそれなりに付き合いながら生きていくのだろうと思う。時として、不意に訪れた様々な事柄がドラマチックになったり、そうならなかったりするけれど、結局は当事者の心の持ちよう次第で不運も幸運になってしまうのだ。だから今は、ゆっくりと流れる時間に身を任せる状況を存分に楽しもう。
そんな風に半ば開き直った山瀬は今日も、彼らの隠れ家に向かった。
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