彼らの隠れ家 9
無事に終わった幼少中合同運動会が明けた翌日の月曜日、山瀬は準備期間に溜まった疲れからか、ほぼ一日夢の中にいた。平日ということもあって、昼間は一本の電話もかかってはこず、喉の渇きや空腹などで目を覚ました他は深い夢に沈んでいるか、微睡みに漂っているかの、本当の意味での休日をだらだらと、ただひたすらに満喫した。
惰眠を貪るのにもさすがに飽きてきた頃には夕暮れも近く、手近な食べ物でごまかせないほどの空腹感が、山瀬の意識をはっきりとしたものに変えていく。ベッドを抜け出して冷蔵庫を覗いてみたが、ろくなものはない。戸棚にはカップラーメンが二つ三つあったが、そんなものでは腹の虫を黙らせることはできそうもないため、山瀬は外出の支度をした。どうせ食事をするなら賑やかな方がいいかもしれないと、少しだけ考えてから川辺の携帯電話に連絡を取る。
本来ならば山田に連絡しているところなのだが、初めての大きな学校行事にまだ慣れていない自分をサポートすると同時に、仮装行列以外のプログラムでも大活躍していた山田はきっと、ひどく疲れているだろうと山瀬は思い、その気持ちから食事の相手として川辺を選んだのだ。
◇◇◇
待ち合わせ場所にやってきた川辺は相変わらずの上機嫌で、人好きのする笑顔を浮かべている。どんな状況でも人を楽しい気分にさせてくれる川辺が実は苦労人だとを知った時、山瀬は随分と驚いた。けれど付き合いが長くなるほどに、その人当たりの良さが幼い頃から人間関係で苦労してきたからこそ得られたものであることを痛感する。
この日、川辺が選んだのは、彼の後輩の一人が経営する店だった。
若い夫婦が切り盛りする店は広くはない。けれど何とも言えないあたたかさが、山瀬の気に入った。店主の川辺の慕いようは微笑ましく、細君もまた川辺には好印象を持っていることが容易に見て取れたし、そのお陰で山瀬にもさり気ない、けれど細やかな気遣いに預かり、それを山瀬は嬉しく思い、次に山田と外で食事をする時には、是非ここに来ようと決めた。家庭的な献立が並ぶ、居酒屋にしてはご飯ものが充実している店は、きっと山田も気に入るだろう。そう、山瀬は確信する。
「良い雰囲気のお店でしたね。料理も美味しかったし、値段も手頃で……」
山瀬が言うと、川辺は後輩を褒められたことが余程嬉しいのか、人なつっこい笑顔を浮かべた。
「中学時分からやんちゃして、高校で知り合うた、嫁さんになった娘と付き合うようになってから、落ち着いてん。二人で店するんや言うて、高校、途中で辞めて二人で住み込みで働ける居酒屋の仕事見つけて、金貯めて、やっとこ自分の店持ったんが、去年の祭のちょい前で……」
「若いのに、偉いんですね」
「まぁ、そうやな。よかったら、また行ったって」
「その時は、山田先生を誘いますよ」
大阪に来てそれ程経っていない自分より山田の方が、大勢の客を連れてこれるだろうと考えて山瀬は言ったつもりだったが、傍らで笑っていた川辺の表情がたちまち曇るのを見て、自分の失言を悟った。
「何で、そこで山ちゃんなん?」
「それは……学校くらいにしか知り合いのいない僕よりも、山田先生の方が、大勢の人にあのお店を紹介できると思ったからで……」
「俺と、もっかい、二人で来たいとか、そんなん思わへんかったん?」
全く予想外の川辺の言葉に戸惑う山瀬に、川辺が更に問う。
「せっかく二人だけやのに、何で山ちゃんが出てくんの?」
「何でって言われても……」
「俺と二人やったら、つまらへん? 退屈やの?」
「そんなことはないです、絶対に」
次々と投げかけられる、思いもかけない言葉を必死に山瀬は否定する。
「川辺さんと話すのは、好きですよ。ただ、僕達は大抵、三人でいるじゃないですか。だから、つい……」
「ホンマに、それだけなん?」
「どういう意味ですか、それ?」
「忘れられてるかもしれへんけど、俺は山瀬センセーに惚れてんねんで? デートに誘われて、ゴキゲンで飯食うた後に他の男、思い出されておもろいワケないやん」
“マジ惚れだけにな”と、川辺が付け加えた。山瀬は何も答えられなかった。
「もしかして、いつかの話、冗談やと思てたん?」
唇の片端だけ上げて微笑った川辺の目には、あの夜、片恋を山瀬に告げた時と同じ光が宿っている。
川辺の素知らぬ素振りに、良き友人を見事に演じる姿に、山瀬はすっかり安心しきっていた。それどころか、川辺に思いを寄せられていることさえ忘れ、運動会の準備にかこつけて川辺興業を何度も訪ねた。その度に川辺は笑顔で山瀬と山田を迎えてくれた。だから山瀬も川辺の告白を意識せずに済み、それが山瀬にとっては川辺との関係に特別な緊張感を与えず、川辺にとっては山瀬から敬遠されずには済んだものの、友達を越える人間関係の進展が全く望めない事態を招いたのだ。その状況に山瀬は安心し、川辺は焦りを感じていたのだろう。そこに山瀬は何気なく川辺を食事に誘い、川辺はおそらく、山瀬からの電話を次のステップに進むチャンスだと考えた。
それぞれの気持ちのベクトルの方向が違っていることを知っている者と、そうでない者。第三者がいる時には避けられているすれ違いも、二人だけになると簡単に露呈する。そして自身の川辺に対する甘えもまた、同時に表面化したのだと、山瀬は思う。
「冗談だとか、そんな風には思ってなかったんです。すみません。川辺さんが気を遣ってくれているのに、すっかり甘えてしまって……」
そう言って山瀬が頭を下げると、川辺は困り顔で微笑った。
「謝らんといてや、センセ。甘えてもらうのんは好きやで、俺。本音を言うたら、今よりもっと甘えてほしいくらいやし、できたら人目のあるトコやのうて、ベッドか車がええねんけどな」
「川辺さん……」
「明日、学校あるねんやろ? 今日はもう遅いし、帰ろか。送るし」
「色々、すみません」
「せやから、謝らんといてて。俺も大人げなかったし。なんか、山ちゃんとセンセ、仮装行列で腕組んでるし、エライ仲良う見えて、ちょっとな、腐っとってん。ほんで、八つ当たってもうてん。せやし、おあいこにして?」
そう言うと川辺は、ポケットから取り出したキーホルダーをジャラジャラと鳴らしながら、荷台側面に大きく『(有)川辺興業』と書かれた白い軽トラックの方へ歩いていく。その後を追いながら、この車で愛を語り合うのはいくら何でも無理があるのだろうにと思いながらも口にはせず、山瀬は常にどこかに逃げ道を用意してくれている、自分よりも年少の友人の優しさに感謝したのだった。
◇◇◇
明けて火曜日。午前中の授業を終えた山瀬が職員室に戻ると、そこには運動会で大活躍した写真店の主がいた。
「山瀬先生、日曜はお疲れさまでした。写真、できましたで」
そう言って店主は、本物の結婚記念写真に使われているような写真帳を差し出す。ベルベットのアルバムの中には、陽気に笑う大柄な花嫁に拘束されているような、妙に緊張している自分の姿があった。滑稽でしかない自分に何ともコメントのしようがなくて、山瀬は写真が納められている写真帳に感心したと答える。すると店主は
「陽に焼けて、売り物にならへんもんですよって」
と笑う。見合い写真も成人式の記念写真も四つ切り版が増えたため、小さな八つ切り版の写真を納める台紙の需要は年々少なくなり、かといって在庫を一切持たないわけにもいかず、常にいくつかは用意しているのだと、店主は言う。そして何年か経つとどうしても隅や端が変色してしまい、処理に困っているのだとも。そこでお得意様には時折、商品価値がなくなった台紙をサービスで渡しており、山瀬が受け取ったものも、その一つなのだと、だから代金はいらないのだと言った。
「これ、お見合い写真に使えますかね」
山瀬の隣では山田が笑っている。その陽気な笑顔に何となく救われたような気分になった山瀬だったが、何も考えていなさそうな脳天気さが少しだけ恨めしく感じられた。そして山瀬は一瞬ではあったが無意識に抱いてしまった、その感情に驚いてもいた。
幼少中合同運動会が終わるとすぐに、二学期の中間テストがやってくる。教職員は通常の授業に加えて定期試験対策を生徒達に授け、進学を控えた三年生には高校受験を意識したアドバイスを行い、更に試験問題の作成に追われる日々が続く。テストの採点と返却、そして担当教科ごとでの試験の反省会と、今後の授業の進め方などの検討会が終わる頃には、既に季節は秋の気配を色濃く宿していた。
さすがに十月になると残暑の名残もなく、山瀬の勤める中学校は大阪府下でも山間部に位置するため、朝夕の冷え込みには晩秋の気配さえ感じられた。地域の特産物でもある蜜柑はすっかり色づき、柿も素朴な橙色に染まっている。そして植林された針葉樹の合間には紅葉が華やかな錦を思わせる色彩を放つ。
新興住宅街に育った山瀬には、自然の営みの移り変わりを色濃く映す職場周辺の風景は珍しく、仕事の合間の息抜きに眺めることも多く、誰かに声をかけられるまで見入ることも少なくない。
あれから、川辺との関係に変化はない。山瀬を気遣っているのだろう川辺は、普段通りの軽妙な態度で接してくれている。良き友人として振る舞ってくれる心遣いは嬉しい。だが、それに甘えるわけにはいかないと、川辺に対して友情以上の感情を持てるのか、持てないのかを見極めようと、山瀬はここ数日、自分の気持ちの核とも呼べるものを必死で探そうとしていた。
形のない心の奥深くにある真意を見出すのは容易ではなく、どうにかすると川辺が寄せてくれる思いに流されてしまおうかと考えることがある。けれど、そんないい加減な理由で川辺を選ぶことは、友人として川辺を好ましく思っているからこそできず、また川辺自身も望んでいないことを承知しているからこそ、理科準備室で本のページを繰りながらも、心ここにあらずといった状態が続いていた。
いつものように形だけ、文字を目で追っていた山瀬が振り向くと、くたびれた白衣姿の山田がいる。
「山瀬センセー、いてはったんですか」
「放課後、ここで顔を合わせるのは久しぶりですね、山田先生」
「そういうたら、そうですね」
「最近、何かお忙しそうで」
やはり形ばかりの言葉を返すと、山田が目を細めて破顔した。
「やー、ちょっと、ねぇ」
脳天気な山田の笑顔に、気楽なものだと心の中で呟いた山瀬は、この部屋の主に上機嫌の理由を問う。すると山田は、よくぞ訊いてくれましたとばかりに山瀬の手を引き、理科準備室の隅にある暗室に向かう。
狭い部屋の灯りを点けた山田は両手を広げ、
「山瀬センセーにプレゼント〜」
と、笑った。
「僕に……?」
「そう、センセーにスペッシャルなプレゼント。まぁ、見てみてください。自信作なんですよ、今回のんは」
「自信作……ですか」
「そう! はよ、見てください」
自慢の宝物を披露する子供のような表情で背中を押され、山瀬は作業台に歩み寄った。鮮やかな筆さばきで『万葉集』と記された、B3サイズの色画用紙の下には押し花が、その傍らに、花の美しさを損ねないように花の名前をはじめとする幾つかのデータが配置され、そして花の盛りを写し取った写真が添えられている。清廉な木の香を放つ箱の中には、同じように処理された花々が眠っていて、その一つ一つがとても丁寧に、見事な標本となっている
ことが見て取れた。「凄いですね……」
山瀬が簡単の溜め息を吐くと、山田は誉められた子供のような笑顔を浮かべる。
それは山瀬の知る押し花とは、全てが違う。花や茎や葉の自然な姿には、素朴な美しさを留められていて、その可憐さや力強さには万葉人でなくても心惹かれるだろう。実際に山瀬は無言で次々に標本を標本の台紙を取り出しては見つめた。一通り見終わってはじめて、暗室に入って以来、山田を無視し続けていたことに山瀬は気付いた。
「あ……!! すみません、山田先生。つい、夢中になって……」
「いえいえ。そんだけ喜んでもらえたっちゅーことですから、俺、ムッチャ嬉しいですわ」
「この花……全部、山田先生が集めてくれたんですか?」
「外来の帰化植物の繁殖範囲は、ここいらでもかなり拡がってますねんけど、ちょっと奥の方に行ったらまだまだ在来種が残ってるんですよ。せやから全部、この辺で採集したもんばっかりです。採集ポイントと、繁殖状態の写真をつけときましたから、シーズンやったら生徒らと一緒に見に行ったりもできますよ。道案内は生徒らが喜んでしてくれる、思いますから」
ふと見ると、いつか山田が濡れ鼠で理科準備室に飛び込んできた時に採集していたらしい花があった。薄紅色の花弁は、山田の広い背中が激しい雨から守ったもので、風邪を引く心配よりも花が雨に濡れたのではないかと気にかける山田を叱りつけた日のことを、山瀬は思い出した。
「この花……いつか、山田先生がずぶ濡れになってた日の……?」
「ああ、そうでしたね。花の時期が短い上に、一日しか花が咲かへんし、雨が当たったとこは色が抜けてしまう性質があって、そんで、濡らしたらエライこっちゃと思うて、慌てたん、覚えてますわ。ホンマ、いきなり降ってきたさかいに」
「あの日、僕が失礼なことを言ったのも、覚えてますか?」
「そうやのうて、先生が俺が風邪引くんちゃうかて、心配してくれたんでしょ?」
お人好しもここまでくれば、お手上げだ。人の失言を良い方へ、良い方へと解釈した挙げ句、乱暴な扱いを受けたことさえなかったことにしてしまう。それが山田の“良い人”としての評価を揺るぎないものにしていて、それから山瀬を戸惑わせたり混乱させたり喜ばせたり怒らせたり呆れさせたりと、とにかく初めて経験する色々の、そして何とも説明できない、言葉で形容できない感情を、それは強引に持ち込んでくるのだ。それでいて本人は完全に無自覚なものだから、タチが悪い。おまけに山瀬にとっては、これまでにない程に大きく揺れる感情の変化が刺激的で、新鮮な魅力さえ感じている。
「夕食、一緒に食べませんか?」
標本の礼にごちそうすると山瀬が言うと、山田は嬉しそうに笑った。
「お礼言うてもらう程のこととちゃうんですよ。標本作るのは好きやし得意やし。俺の方こそ理科と国語にこんな接点あるやて気ぃつかへんかって。せやから、俺からセンセーにお礼言わなアカンくらいで」
「でも、きっと、万葉集で詠まれている草花の、こんなに立派な標本は世界中、どこ探してもないですよ」
「そんなたいそうなもんとちゃうんですよ。理科て、あんまり役に立たへんていうか、ベツモンみたいな感じしますやん。けど、センセーが準備室の図鑑を授業で使いたいて言わはった時、どうせやったら、押し花でもホンモンを生徒に見せたった方がええかなと思ただけで、そしたら生徒らも、ちょっとは理科に興味持ってくれるようになるかなて……」
「標本もですけど、僕は山田先生の気持ちが嬉しかったんです。だから、一緒に食事をしたいって、ご馳走したいって思ったんですよ」
嫌ですか、と、山瀬が言い募ると、山田は照れたように笑って山瀬の申し出を受け取ってくれた。
◇◇◇
山田と二人で向かったのは、ついこの間、川辺に連れて行かれた居酒屋だった。山瀬は山田に、そこで食べた菜飯を食べてほしかった。どこか懐かしい、爽やかな青菜の香りが口に拡がった瞬間、山瀬は山田の料理を思い出したのだ。
そう――だからあの夜、山瀬は次の機会には絶対に山田を誘おうと考えた。
家庭料理を好んで作る山田が好きそうな料理が食べられる。それが山瀬にとって重要だったのだ。
そう気付いた時、山瀬の胸に川辺に対する罪悪感が生まれた。けれどカウンターの隣で目を見張る健啖ぶりを見せる山田の笑顔を見ると、川辺にすまないと思いながらも、やはりこの店に来て良かったと、山瀬は思うのだった。
それからの数日間、山瀬は万葉集に歌われた花々を、暇があれば眺めていた。
素朴な花の姿は、そして世界に一つしかない標本を作った人を思い起こさせ、その人物について考えるのはとても楽しい。しかし今は山田よりも、川辺の件に答を出すべきだった。
川辺は答えを急がないと言った。けれど、その彼流の思いやりに甘えるわけにはいかない。表面的には軽く見える川辺だったが、その本質が誰よりも誠実であることを知っているだけに、いいかげんなことは言えない──否、曖昧な言葉で川辺を、そして自分自身をごまかしたくはなかった。多少時間が必要になったとしても、川辺に対して友情以上の感情を持てるという可能性を、僅かでも見出せるのであれば待ってほしいと伝えることもできるだろう。しかし川辺を親友の一人としてしか見られないのであれば、答を長引かせるのは残酷だ。だから山辺はあの夜以来、自分の気持ちがどこに向いているのか、向かおうとしているのかを見極めようとしていた。
夏の名残を残していた季節は既に終わり、秋が色濃く周囲を染め上げる頃になったというのに、山瀬は未だ答の片鱗さえも見つけられず、それが自分の優柔不断さの証のようで腹立たしかった。
焦ったところで何にもならないことは承知しているし、人の気持ちが簡単に説明できるものではなく、その時には掴んだと思った感情さえ次の瞬間には変わってしまうことだってある。けれどいつか、北川には恋愛感情を持てないと確信したように、何らかの方向性くらいは分かるだろう。そう思うからこそ山瀬は、折りを見て意識を内向させていたのだ。
◇◇◇
一日の仕事を終えた山瀬は大きく伸びをした。
「今日はもう、終わりですか?」
先輩教師の言葉に山瀬が応えると、彼はささやかな楽しみをお裾分けしようと、相好を崩しながら言った。
「山瀬先生は若いのに熱心やから、オッチャン先生からのご褒美っちゅうことやね」
年齢よりも老けて見える彼は生徒達から“オヤジ”だとか“オッサン”などと親しまれ、彼自身も自分を、同じように戯けて呼ぶことが多い。山瀬も彼には懐かしさが混ざる親近感を覚えていて、担当科目は違ったけれども仕事の上で頼りにすることは多く、彼もまた大阪に来て間もない山瀬を何かと気にかけてくれる。さり気ない心遣いが嬉しくて、山瀬も時折お礼にと、先輩教師が好む飴玉などを差し入れたりしていた。
「何か、心配事でもあるんかなぁ?」
人の良い笑顔で、四十路半ばの教師が問う。
「や、最近、溜め息多いみたいやから。まぁ、悩むんは若いモンの特権やし、先生みたいな男前は憂い顔も似合うさかい、ええねんけどな」
「何ですか、それ」
「俺らみたいなオッサンになったら、沈んだ顔やて全然似合わへんようになるし、忙しいて悩んでる暇もなくなるさかい、所帯持つ前にせいぜい悩むこっちゃゆーことやな」
「人生の先輩からのアドバイスですね」
そう言ってから、感謝の言葉を山瀬が伝えると、照れ臭そうに笑ってから彼は、一人で悩むのに飽きたら山田に相談したらいいと、それでも解決できなければ“オッチャン”とこに来ると言った。
「何も足しになるようなことはよう言わんけど、屁の突っ張りくらいにはなるかしらんし」
飾らない言葉で伝えられる、彼らしい気遣いに感謝の言葉を伝えると、彼は照れ隠しなのだろう、頭を掻きながら聞き取れない独り言をひとしきり呟いてから、一足先に帰っていった。
職員室に一人残された山瀬は、自分と山田以外の職員が既に帰宅していることを室内の行事表横の名札で確認すると、灯りを消して理科準備室に向かう。
山田は職員の終礼が終わるとすぐ、明日の実験の準備をしてくると言っていた。準備中は理科準備室と理科室を頻繁に行き来するのを知っている山瀬は、山田の邪魔をしないようにと職員室に残り、雑用を片づけることにした。明日の授業の準備の後には、いつの間にか貯めてしまっていた雑用に手をつけたのだが、その時、引き出しの中に生徒達からもらったきりになっていた写真を見つけたのだ。
切り取られた初秋の空の下では、生徒達に混ざって山瀬が笑っている。いつの間に撮られていたのか、新郎新婦に扮した山田と一緒の写真の山瀬は、おかしいくらいに緊張していて、そんな自分を見守るような山田の眼差しはひどく優しい。川辺興業の私設応援団の面々との記念写真で目立つのは、アニメかゲームのキャラクターにしか見えない色の髪に真っ黒の、膝を超える長さの学ランに身を固めた川辺興業の従業員達。彼らは斜に構えて腕組みをして、レンズを見据えている。写真中央には金色の髪を天を突くように整えた川辺が、その両隣に山田と山瀬が立つ。川辺の不敵な微笑みを口元に浮かべていて、山田は目を細めて笑っている。それに比べて自分の顔は、楽しそうではあるけれど平凡でしかなく、誰かに恋い慕われるような柄ではないとしみじみ思う。けれど北川や、そして川辺は山瀬がいいと言い、山瀬にはその理由が全く理解できない──というよりも、身も心も焦がすような恋愛などに無縁の生活を送ってきた自分には、恋愛対象になる人物に積極的なアプローチをしたことはなく、交際を申し込まれた時にフリーで、尚且つ相手に相応の好感を抱いていれば付き合いを承諾するといった極めて消極的な姿勢しか持っていなかった。
恋愛の対象が異性であれば深く考える必要はない。しばらく付き合ってみて、お互いの相性が良いかどうか判断するだけで事足りる。だが川辺が相手となると、そうもいかない。
男を相手にするなどとんでもない、考える余地などないと、川辺を一蹴するのは簡単だ。否、むしろ、その方が一般的には正しいと言える。けれど常識があるようでなく、ないようである川辺や山田達と接していると、これまで築いてきた山瀬の中の一般常識は簡単に揺らぐ。それ故、山瀬は混乱した思考を収拾することもできずにいて、それを察しているらしい川辺もいつかの夜以来、山瀬を急かすようなことはなかった。そして山瀬にとって、それが辛くもあったのだ。
◇◇◇
理科準備室は静かだった。
実験の準備を終えたらしい部屋の主は、どこからか調達してきた古びた合皮の一人掛けソファに埋もれるように座り込んでいた。子供のような無垢な寝顔に、山瀬の気分は多少軽くはなり、それがありがたく感じられる。
そう言えば、と、山瀬の脳裏にささやかな考えが浮かぶ。山田にとって、異性と同性のどちらが恋愛対象になるのか、その両方を受け入れられるのかを訊いてみたい。恋人の気配さえ感じさせない山田だが、当たり前の成人男子としての欲はある筈だろうに、何故か山田だけはそういった生臭いものに無縁に思えるのだ。
よく眠っている山田を起こすのは忍びなく、山瀬はそっとキャスター付きの椅子を引き寄せた。
常日頃から人好きのする笑顔を浮かべている山田の真剣な表情は、山瀬の目から見ても凛々しい。無防備に眠っている顔は穏やかで、よくよく見れば鼻梁はすっきりと通っていて、唇は少し厚いように見えるが、それは山田の情の深さを表しているようでもある。顎のラインには頼もしさを、短い髪がかかる額からは知的な印象を受けた。
人の寝顔をこんな近くで見つめるのは初めての体験だった。声もかけずにいるのは、まるで寝込みを襲っているようで、山瀬の胸に僅かな罪悪感が生まれる。けれど本人さえ見られない寝顔を独占できるのは、どこか嬉しくもあった。
熟睡している山田は眉を動かしもせず、健やかな寝息を立てている。それは自分に完全に気を許してくれている証左だと考えるのはあまりにもご都合主義に思えたが、それでも山田は許してくれるような気もした。
腕の時計に目を遣ると、既に時刻は午後7時を過ぎている。晩秋と呼ぶには早い季節だったが、理科室と理科準備室は中学校敷地の北に位置しているため、他の教室よりも冷え込む。白衣を着ているだけで居眠りを続けては、常日頃から丈夫が取り柄だと豪語している山田であっても、風邪をひきかねない。それに下校時間はとっくに過ぎているし、生徒達も全員下校しているのだから、特に仕事もない職員が居残る必要もない。
「山田先生、起きてください。風邪、ひきますよ」
声をかけてみたが、山田の反応はない。山瀬は仕方ないと苦笑しながら山田に歩み寄り、子供のように眠る山田の肩に手を置いた。
「う……うわぁっ!!」
山田の素っ頓狂な声に、山瀬は我に返った。
「あ……僕は……」
「山瀬センセー……」
口元を被う山田の大きな掌を見た山瀬は、大いに焦った。
「あの……」
何か言わなくてはと思うのだが、何の言葉も出てこない。
「すみませんでした!!」
やっとの思いでそれだけ言うと、山瀬は全速力で理科準備室を走り出た。彼の思考は完全に停止している。ただ明確なのは、あろう事か山田を起こすつもりだった彼は、何故か山田にキスをしていた。その事実に我を失った山瀬は、大急ぎで学校を後にした。
混乱したまま学校を飛び出したところで、山瀬の記憶は途切れていた。
冷たい水を3杯、立て続けに飲み干してようやく、自分のアパートに戻っていたことに気がついて、よくも何事もなく帰ってこれたものだと、山瀬は半ば呆れながらも人の帰巣本能に感心した。
鼓動は既に収まっている。玄関には脱ぎ捨てられた靴。鞄は放り出されたままで、そのすぐ傍には、レンタルビデオ店のキャリーバッグが転がっている。レンタルビデオ店に立ち寄った記憶のない山瀬は、訝しく思いながらもバッグのマジックテープをはがし、借りた覚えのないビデオのラベルを見た。
その瞬間、山瀬の心臓が飛び出しそうになった。
『誘惑の昼下がり・飾り窓の人妻』、『実録・女学生の放課後』、『ダイナマイトボディー・美人秘書のオ・ツ・ト・メ』、『戒められて……』など、タイトルを見ただけで内容が推測できるアダルトビデオの中に、『鉄腕マッチョ・絶頂兄貴』と『人事部長の陰棒』という、これまたあからさまな作品を見つけた山瀬は一瞬、心臓が止まったような気がした。そして次に、狼狽した挙げ句、正気を失った自分自身の情けなさを痛感する。
無意識のうちに自分の性行を確かめようとしたのだろうか。多分、そうだろう。バラエティーに富んだというか、色々なジャンルのものを節操がなかろうがとりあえず見て、身体が反応するのを確かめられれば、それでよし。そんなところだろう。もしも、万が一の時のことなど考えていない辺りが短絡的だ。もっとも、あの精神状態では、これ以上の考えなど浮かばなかったのだろうとも思う。そしてくだらないとも。
AV鑑賞くらいで自分の性行がわかれば苦労はない。そんなことにも気がつかない程に混乱した自分が滑稽だった。だからといって、借りてきたビデオを見ようという気にはならないのだが、我知らず山田に無体なことをしてしまった理由が単なる気の迷いでしかないことを確かめられるなら、妙案かもしれないと思う。
ごく真っ当な成人男子としては当然の欲求はあるのだし、決まったパートナーがいない今は自慰も日常の中の一つになっている。返却が面倒なこともあり、レンタルビデオを所謂“オカズ”にしたりすることは、成人した今は滅多になくなっていた。そういう意味では、久しぶりにこういうのを見るのも悪くはないと思いもする。
借りた経緯(いきさつ)が経緯だけに多少の抵抗はあるのだが、一人暮らしの身で一気に6本。旧作が混ざっているから幾ばくかの割引はされているにしても、見ずに返してしまうのはもったいなく感じられ、そう考えてしまう自分の所帯じみた考えに苦笑しながら、山瀬はテープをデッキにセットした。
全てのテープに一通り目を通した山瀬だったが、どのビデオも結局は彼の身体に何の変化も起こさせなかった。“女学生”と呼ぶには無理がある女優の若作りと媚態に呆れ、ダイナマイトボディーがウリの女優はよく見れば、身体のラインが微妙に崩れているし、縛ったり縛られたりするものに関しては、出演者の身体の柔軟性のみに感心した。男性同性愛者向けの二本に関しては、朧気に知っているだけだった男同士のセックスのやり方を目の当たりにできたという点では、何だかよくわからないものの、何某の経験値になったかもしれない。だが、いずれも男性向けに撮られたものだけに、見せ方などに類似点は多く、乱暴な言い方をすれば、出演者とタイトルが異なるだけで内容はほぼ同じだ。
そのせいなのか、山瀬はAV観賞半ばで既に飽きてしまった。ビデオにも、ビデオを観るという行為にも何も感じるものはなく、結果的に混乱した意識がしでかした無駄遣いは、文字通り無駄の他ならなかったのだ。
◇◇◇
翌朝、自宅近くのレンタルビデオ店の、ビデオ返却口にキャリーバッグを放り込んだ山瀬の心は軽い。ゲイ向けAVに何の反応もしなかった、何ら感慨も感情の乱れも生じなかった事実は、昨日の山田への行為が度を過ぎた悪戯以外の何ものでもないことを示している。最初は無駄だと思ったおよそ2,000円の出費も、今となっては意味があった。
普段の自分ではおそらく考えつきもしないであろう単純きわまりない対処方法だが、精神的に混乱していたからこそ可能だったとも言える。狼狽えた様を山田に見せてしまったのは失態だったが、そのお陰で自分がストレートであるという確信を得たのだから結果オーライだ。二人だけになる機会をできるだけ早くに作り、悪戯の謝罪と、みっともない言動の言い訳をしよう。誠意を見せたなら、きっと山田はいつもの調子で受け入れてくれる。そう、山瀬は信じて疑わなかった。
朝一番、職員室で顔を合わせた山田はぎこちない笑顔を浮かべたけれど、ごく普通に接してくれた。そして努めて当たり障りのない話題を選んでいるようにも見え、山瀬は今更ながらに山田の人の良さに感謝する。そして放課後、既に快適な隠れ家となった理科準備室で山田に対して抱いているのは友情なのだと伝え、この妙な緊張感を解消するのだと改めて誓うのだった。
理科準備室の前で山瀬は一度、深呼吸をした。それから引き戸をゆっくりと開ける。努めて静かに通路を進むと、部屋の隅、戸棚の中に首を突っ込むようにして捜し物をしている大きな背中が見えた。
「山田先生」
山瀬が声をかけると、部屋の主はまるでお手本のような返事を返す。
「あ、痛っ!!」
不意にかけられた声に驚き慌てたのか、山田は後頭部を棚板にぶつけた。
「大丈夫ですか?」
「や、どもないです。スンマセン、びっくりさせてもーて」
「こちらこそ、すみません。急に声をかけてしまって……」
自分達の他に誰もいないせいか、山田の表情からは僅かな、けれど明らかな緊張が読みとれる。そして一通りの挨拶らしき会話が終わると、居心地の悪い沈黙が訪れた。
「それから……と言うのは失礼というか、本当なら真っ先に言わなくちゃいけなかったんですけど……昨日のこと……」
沈黙を破る山瀬の言葉を、山田は困ったような笑顔で遮る。
「や、あんなこと、俺、気にしてませんから」
「あんなこと?」
「センセー、ふざけただけやったんでしょ? 俺があんまり起きひんから、びっくりさそ、思ただけでしょ?」
理由も聞かず、自分の行動を冗談だと決めつけられたことが、ひどく腹立たしい。
「寸留めにする筈やったんでしょ? けど、うっかり勢いついてしもて……」
そんな些細な失敗など気にしていないとでも言いたげな態度が、気に障った。
「そんなん、別に謝ってもらうほどのこととちゃいますから……」
自分にとっては十二分に衝撃的だったことを、取るに足りない出来事にしてしまう山田の言葉が神経を逆撫でする。昨夜の混乱や葛藤など何も知らないクセに、全てわかっているのだとでも言いたげにニコニコと笑ってみせる、それ自体が、これ以上ないくらいに無神経に感じられて、山瀬は己の理性と忍耐力が削られていくのを感じていた。
「ホンマに、何でもないことやし……」
平常心を保つために必要な要素の全てが臨界に達した時、所謂“血管が切れる音”らしきものを確かに、山瀬は聞いたような気がした。
「何でもない、何でもないって、よくも簡単に言ってくれますね。僕が冗談で、あんなことをすると、同意も得ずに、山田先生にあんな……キスするって、本気で思ってるんですか?」
呆気にとられる山田の顔に、ああ、やっぱりと思い、同時に山瀬は思いもかけない自分の言葉に驚いてもいた。
「何とも思っていない人間を相手に、不意打ちみたいにキスするような、いい加減で軽い人間だって……山田先生は僕を、そんな風に考えていたんですね?」
荒っぽい言葉を次々に吐く唇は、既にコントロールを失っている。多分、今の自分はひどい顔で山田を責めているのだろう。困惑しきった山田の表情が、完全に平常心を失った自分の存在を知らしめる。
確かに自制が利かなくなっている自覚はあった。だが、そんな自分を冷ややかに観察しているもう一人の自分を、山瀬は認めてもいる。
山田の言葉は、昨夜山瀬が出した答と同じなのに、これ程に腹立たしく感じられる理由を探りながら、山瀬は勢いのままに山田を責め続けた。
「結局、山田先生にとっての僕はその程度の、何をしても冗談で済ませてしまえる人間だったってことなんですよ。だから平気で、あんなことが言えるんだ」
山田が言葉を挟む暇さえ与えず、山瀬は言葉を続ける。
「そしてきっと、山田先生には恋愛やキスや、それからセックスなんかも全部、何もかもなかったことにしてしまえる程度の重みしか持たなくて、だから僕の気持ちを察しようともしないで、いつだったかは一方的に北川先生の片棒を担ごうとするし、今だって……」
自分の気持ち──それが一番わからない。
山瀬は確かに昨夜のAV観賞の果てに、自分が静的指向においてストレートである、少なくともゲイではないという答を得た筈なのに、それを山田に指摘されて腹を立てている。しかも告白めいた言葉さえぶつけ、山田を責めて追い詰める自分は何を望んでいるのだろう。考えてもわからない。ならば理性も自制も忍耐力も投げ捨てた状態で、己の欲求を晒す他ないのではないか。その結果がどうなろうと、知ったことではない。そんなものは後から考えればいいのだ。後悔は後からするものと決まっている。最終的に山田とは友人でいられなくなるかもしれないが、それは山瀬にとって至極残念なことではあるが、今の身勝手な自分の行いが招く結果なのだから受け入れるしかない。
山瀬は腹をくくった。
「これだけ言いたい放題言われて、山田先生は腹が立たないんですか?」
山田に反論する隙も与えなかったくせに、ぬけぬけとよく言えるものだと、山瀬は自嘲する。
「拒絶するなら、徹底的にお願いしますよ」
そう言って山田に歩み寄り、山瀬は山田に口づけた。
背の高い山田に合わせるために背伸びをして、胸ぐらを掴むように白衣の襟を握りしめる。山田は硬直し、息を詰めている。けれど何の反応も示さない。それが不満で、山瀬は舌先で山田の唇を割ってやった。
笑うと零れる白い歯を舌先でなぞると、山田の身体が一層緊張する。そんな山田に悪戯心を擽られ、山瀬は更に口づけを深くしていく。しかし山田は身体を固くするばかりで、何のリアクションも返さなかった。
いつだったか、川辺に押し倒された時には動じたりしなかった。多少は慌てたかもしれない。けれど混乱したり我を忘れたりはしなかった。
北川と相対した時もそうだ。彼女に対してほんの少しだけ悪いかなと思ったくらいで、それ以上の感情を持つことはなかった。
だが山田は違う。彼は何かにつけて山瀬の感情に波を立てるのだ。
初めて会った時、名前が似ているからと言って強引に親友宣言をされてからというもの、山田は常に山瀬の傍にいた。良くも悪くも、山田には調子を崩されっぱなしで、時には姉や母親のようなお節介を疎ましく感じたりもした。けれどそれ以上に、山田と共に過ごす時間は心地が良い。その快さは単なる友情だと何の疑いもなく信じていたし、他の感情に取って代わられるなどと考えたこともなかった。
だが山田に対する想いが恋情であると仮定したなら、北川と自分の仲を取り持とうとした山田に対してだけひどく腹を立てたことも、人付き合いがあまり得意でない筈なのに、何故か山田とだけは気楽に付き合うことができたとか、山田と一緒であれば運動会の仮装行列も苦にならなかったこと、山田のさり気ない心遣いにひどく安心できたことなど、山瀬が知っている自分自身にはおよそ考えられない言動や感情が生まれ出たのにも納得できる。
そしてあの日、山田の寝顔に魅入られるように口づけてしまったのもまた、知らずに恋心を抱いていたとしたならば当然のこと。惚れた相手に触れたいと願う、真っ当に育った成人男子としては当たり前の欲求だったのだ。
なるほど、自分はいつの間にやら山田に恋愛感情を抱いていた。その事実がストンと腑に落ちた。本人のあずかり知らぬ間に芽生えた恋心というものは、小説の中では珍しくはない。山瀬にしても、そんなことは実際にあるのだろう程度の認識は持っていた。けれど現実に目の前で起き、しかも自分が当事者になってしまったことが妙に感慨深く感じられる。また同時に自覚が生まれる前に、この恋が終わってしまったことも、山瀬は悟っていた。
理科準備室で、悪ふざけでは済まされない深い口づけを押しつけられたにもかかわらず、山田は何の反応も示さなかった。それどころか僅かな感情の揺れさえも見せず、微動だもせずに立ち続けていた。つまり、山田にとって山瀬はその程度の、取るに足りない存在でしかない。口では親友だと言ってはいるが、それは同僚よりもほんの少し親しいだけの、大勢いるであろう友人のことであって、例えば辞書に載っている言葉よりも遙かに軽い意味のものなのだ。
そう認識した途端、山瀬の胸に微かな痛みが走る。やがてそれは全身に広がるやるせなさとなり、気分をどんどんと沈み込ませていく。山田への想いを自覚する前に、自分の手で何もかも台無しにしてしまったことが悔やまれたが、同時にほっとしてもいた。本当の気持ちに気付いたところで川辺のように堂々と振る舞えないことは分かっていたし、絵に描いたようにごくごく真面目に不通の山田と、同性の自分とが両思いになれるなんてこともあり得ない。だったら、最初からなかったことに、自分でしてしまった方がいい。そう、山瀬は思うことにした。
◇◇◇
翌日、山瀬は学校を休んだ。
そんなことをしたら、もっと気まずくなる。特に山田には嫌な思いをさせてしまうだろう。分かり切ったことだった。けれど少し気まずくなってもらいたい、自分をその程度は気にかけていてもらいたいとも考えている。それくらいの意地悪は多分、許される筈だ。
自習になってしまう生徒達には罪悪感を覚えたけれど、それ以上に社会人になって初めてのずる休みに心は躍っている。大学時代には人並みに自主休講もしていたが、教職に就いてからは休んだことがなかった。教師になった以上、生徒達の手前があるというか、生徒を叱ることができるくらいにはきちんとしようと、自分なりにルールを作っていたのだ。そのルールを破るのは不本意ではあるが、ほんの少しだがワクワクもしていた。
不自然にならない程度に抑えた声で、体調不良による欠勤を伝えた山瀬は、静かに受話器を置く。再びベッドに潜り込み、瞼を閉じた。
取り敢えず、今は眠ってしまおう。明日のことは、明日考えればいい。山田とのことも、山田に会ってから何とかすればいいのだ。どうせ明日になれば、嫌でも前向きな生活を送らなければならないのだから、一日くらい、失恋した馬鹿な男らしく、自堕落に過ごすくらいの我が儘は許される──そう胸の中で呟きながら、山瀬は眠りの底に落ちていった。
読みかけの本のページを繰り、小腹が空いたら適当なものを口にする。気が向けばテレビのスイッチを入れたりもしたが、番組の内容は頭に入ってはこない。ただ漫然と画面が切り替わるのを眺めているだけだった。
夕食の算段を始めた頃に、インターホンが鳴った。覗き窓の向こう側で、川辺が笑っている。
「風邪ひいたて聞いたけど、元気そうやん」
言いながら、川辺は山瀬に温かな包みを差し出す。
「病気してたら飯、アレやと思て、いつか一緒に行った、後輩の店で弁当作ってもろてん。一緒に食お」
「ありがとうございます。それから、すみません。気を遣わせてしまって……」
「この間借りた本、返すつもりで図書館に行ったら、藤原センセーいはって、山瀬センセー休みやて聞いて来ただけやから、本とかのついでやし。けど……」
言葉尻をあやふやにして、川辺が人の悪い微笑みを浮かべる。
「山瀬センセーでも、ずる休みすんねんな。ちょっと意外やったわ」
「あれ? もう、ばれてる」
「そんな元気そうな顔して、何がばれてるやねんな、何が。バレバレやで、バレバレ」
屈託なく笑う川辺は、ずる休みの理由を訊こうとはしない。その優しさが嬉しく感じられたが、だからと言って甘えてはならないことはわかっている。山瀬は食後の紅茶を煎れながら、いつかの答を伝えるのは今しかないと思った。
「いつかのお話なんですけど……」
マグカップを差し出す山瀬を、川辺が見詰める。
「僕は川辺さんが好きです。でも掛け替えのない大切な友人としであって……川辺さんと同じ気持ちにはなれないんです」
山瀬は川辺の目を見た。
「だから……僕は川辺さんの気持ちには応えられません」
「取り敢えず、付き合うてみて、様子みるっちゅー選択肢もない?」
紅茶を一口飲んでから、川辺が問う。
「すいません」
「しゃーないな、これっばかりは」
あまり気に病んでくれるなと言って、川辺は微笑った。
「そんな気ぃは、なんとはなしにしててん、俺」
「川辺さん……」
「俺も男や。すっぱり、諦めるわ。けど、センセ、友達は友達やろ?」
「できれば……ていうより絶対、これからも良い友達ではいたいです。川辺さんさえ許してくれるなら」
「許すとか、許さへんとか、そんなん、なしにしようや。ちゅーか、関係あらへんやん。俺も、センセも、何も悪いことしてへんねん。今度のことは、タイミングが合わんかっただけやし、お互い、あっさりいこ」
「そうしてもらえると、嬉しいです。とても……」
山瀬に言えたのは、それだけだった。けれど川辺にはそれで充分だったようで、それからはいつもの調子で本や映画や、山瀬は学生時代に何度か見たことがある昼前の料理番組がまだ続いていることに驚いた話を、川辺は今日仕上げた現場での出来事で笑った。
帰りがけ、ほんの一瞬だけ、川辺の目に寂しげな色が浮かんだ。けれどすぐに、普段の陽気な表情にかき消された。山瀬は川辺の、普段は見せない顔を見なかったことにして、今日の夕食のお礼を、絶対にするからとだけ言った。川辺は嬉しそうに笑い、楽しみにしていると答え、帰っていった。
◇◇◇
日がな一日、存分にだらけたお陰か、山瀬の腹は、おかしい程に据わっていた。朝礼の前に、山田に一昨日のことを謝ろうかとも思ったが、その前に気付いたばかりの自分の気持ちを伝えることに決めた。自分の非礼を詫びるのは、それからでも遅くない。この機会を逃してしまえば、きっと何も言えないままに終わってしまうだろう。
山瀬は一度、ゆっくりと深呼吸をしてから自宅を出た。
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