彼らの隠れ家 8


 己の恋愛観や、それに纏わる価値観といったものをじっくりと省みる暇もない程に、職場では慌ただしい時間が過ぎていく。幼少中合同運動会準備委員として、運動会の会場となる小学校での打ち合わせや下準備に奔走する山瀬と山田は、昼休みや放課後も雑用に追われ、小学校の準備委員たる田中や北川からの電話に対応し、必要があれば校内での作業の全てを終えてから夕食会を兼ねて――というよりも、遅めの夕食を摂りながら打ち合わせをするほかない状況に追い込まれている。

 北川と二人で会った日から数えて4日目の金曜日、山瀬をはじめとする準備委員会のメンバーは土曜日の午前中にPTAから借り受ける備品の最終チェックを、田中の友人の一人が勤める居酒屋の一角で進めていた。店主の計らいで通された座敷では、備品リストの最終確認をしながら、料理が大盛りにされた皿と格闘している。

「湯飲みにコップ、薬缶にお盆まで借りられるんですね」

山瀬が感心して言うと藤原が、

「合同の催しとちゃうんやったら、自分とこの備品でも賄えるんですけどね」

と、笑う。

「でもこれだけの量の食器なんか、一般の家庭で揃えるのは大変でしょう」

「この辺はまだ、納戸事(なんどごと)用の食器とかを割り当てを決めて保管してるから、こういう時に貸してもらえるんですよ」

「納戸事?」

初めて聞く言葉に山瀬が反応すると、山田が言った。

「納戸から色々物を出してこなアカンような――葬式とか法事とか結婚式とか祭りとか。そんなんを、この辺では『納戸事』ていうんですよ。そんな、人がようさん集まる時のための食器を、何十個単位で共同で買うてあって。あそこはコップ、こっちは湯飲みとか決めて、分けて置いといて、いる時に出してもらうっちゅーか、借りるっちゅーか」

「町内会の班とか隣組で一揃いにするんですけどね、どないかしたら町内会で同じのを大量に買い込むさかい、問屋も安うしてくれたりするんですよ」

「へぇ……そういうの、あるんですねぇ。知らなかった」

「今時は……特に街中はそんなん、しませんもんね。お葬式とか、どないかしたら法事も専用の会場を借りたりするっていうし」

「そないいうたら、法事とか仏事とか、葬式以外やったらホテルでもできるそうですよ。従兄弟がホテルで働いてるねんけど、この間のお盆の集まりの時、営業していったわ」

 そして田中はホテルで何かする時は、従兄弟の勤め先を使ってやってほしいと言い、その後、当然のようにお友達割引をさせるからと笑う。三人の女性陣は終始賑やかで、特に北川は肩の力が抜けたような、くつろいだような表情をしているように感じられ、山瀬は心の中でだけ安堵の息をつく。

 運動会が終わるまで、何かと顔を合わせる機会が多いだけに、山瀬自身の個人的なことで皆を煩わせることだけはしたくなかった。特に今回、八つ当たりの的にしてしまった山田に気を遣わせるのは気が引ける。それが杞憂に終わったことは、山瀬にとって幸いなことだったのだ。

 

◇◇◇

 

 週末に運動会を控えた水曜日の放課後、山田と山瀬は川辺興業に向かった。運動会で遣う資材を中学校と幼稚園から小学校へ運ぶトラックは、川辺興業の好意で提供されるのだと知り、山瀬はいかにも川辺らしい振る舞いだと思った。

 幼稚園から小学校までの距離は大したものではないが、園児達は体力的な面を補うために様々な飾りを使う競技の多い幼稚園の備品は軽くても嵩張り、園児達の手作りが故に強度も充分でない。そのため、トラックの荷台に積んで運ぶに越したことはないのだ。中学校の備品はテントをはじめとする重量物が主体となるため、また小学校と中学校の距離が数キロになるため、やはりトラックの出番となる。そこで川辺興業が普段の業務に使っている4トン車を、創業以来、毎年提供してくれるのだという。創業4周年を迎えたばかりの川辺興業がなかった頃はというと、PTAの中から車輛の提供者を募っていたらしく、その確保に骨を折る年もあったのだそうだ。

 「まぁ、いうたら、幼少中合同運動会の影の主役は川辺興業っちゅーか、学校の運動会を福利厚生に利用してるとか、そんなとことちゃうかて笑う人らもいるくらいで」

そう言って山田は笑った。

「運転も、川辺興業の方がしてくれるんですか?」

「俺らでやります。山瀬先生、車の免許は持ってはるでしょ?」

「ええ、一応。でも、大丈夫なんですか? 大型免許は持ってないし……」

「4トン車までは普通免許で運転できますから、俺らはそいつを借りますねん。誰かが手空きやったら、手伝うてくれたりもしますけどね」

「トラック、運転したことないんです、実は」

「あ、そしたら俺が運転手っちゅーことで、山瀬先生は大船に乗った気分でおってください。学生自分から、お袋と住んでたアパートの大家んとこの酒屋のトラック転がして、配達手伝うてましたから」

「へぇ、ガテン系のバイト、してたんですか」

バイトの内容がいかにも山田らしくて、山瀬は思わず笑った。

「倉庫でフォークリフト動かしてトラックに積んで、それから配達に回ったりしてね。飲み屋とか食堂の卸売りの配達が俺の担当で、毎日、ビールの箱をぎょうさん運んだもんですよ。店に持っていく時は台車転がしますけど、荷物の上げ下ろしが結構きついんです。ビルの、エレベーターない店屋ったらビール箱下げて階段昇るんですけど、これがきっついのなんのて」

「もしかして、その時、身体、鍛えたんですか」

「ちゅーか、いつのまにやら筋肉ついたみたいな感じです。もともと筋肉がつきやすい体質みたいで、高校時分の大家さんの店の、車なしの配達しただけで、柔道部の連中よりごつなってしもて……俺はガタイばっかりでかいだけで、瞬発力とかは全然アレで、せやからダラダラ歩く登山とか持久走とか、そんなんしかでけへんのです」

「それでも羨ましいですよ。僕も酒屋さんとかでバイトしたらよかったな」

呟いた山瀬に山田は、筋肉がつきすぎたら力仕事ばかりさせられるから、普通の体型の山瀬の方が人生の何倍かは、山田よりも恵まれているはずだと言った。その言いようが、とても山瀬は妙に気に入ってしまった。

 中学校から歩いて10分ほどの川辺興業では、現場仕事を早めに切り上げた、色とりどりの頭の若い従業員達がトラックや仕事道具の後始末をしていた。彼らは山瀬達に気がつくとすぐに最敬礼をして、大きな声で挨拶をする。そのキビキビとした動作に驚く山瀬にかまわず、山田は彼らに声をかけた。

「運動会の資材運ぶトラック、貸してもらいにきましてんけど」

「社長から聞いてます。今、こっちに持ってきますよって、しばらく待っとってください」

そう答えるやいなや踵を返し、プレハブの事務所の裏に駆けていった若者の髪はショッキングピンクで、作業着もところどころピンクを配しているのが印象的だった。

「おう、うちのおベンツ、あんじょう使うたってや」

後ろから聞こえた川辺の声に振り向くと、逞しい体躯の、川辺や山瀬よりも10歳は年長に見える男を後ろに控えた川辺が、唇の片側だけを上げて笑っている。

「ベンツて、べーやん。ベンツのトラックなんか、あるかいな」

「なんや、知らんのか、山ちゃん。ダンプ、あるねんで、ベンツの。ムッチャカッコええやつ。カッコはええけど、その分、値段もべらぼーで」

「買ったんですか? そのベンツ」

山瀬が問うと、川辺の後ろに控える男が破顔した。

「いつか買うつもりで、中古の国産車にベンツのマーク、ペンキで描いただけですよ。わざわざ目立つような色にして、ホンマにちょけてばっかりで、良史……やのうて、社長は」

男は言いながら川辺の頭を軽く小突いてから山瀬に歩み寄り

「川辺興業の専務をさしてもろてます、飯坂勝利です。いつもうちの社長がお世話やらご迷惑やらおかけして、ホンマに申し訳ないやら助かるやら」

「はじめまして。中学校で国語を教えている山瀬一郎です」

「山瀬先生の噂は社長やら、うちの若い衆からよう聞かされてます。今、トラック取りに行ってるヤツは中学出てすぐにうちに入ってますねんけど、アイツの妹が三年生ですねん。その妹がよう、山瀬先生の話してるらしいですよ。先生の教え方はわかりやすいて、生徒の間でも評判らしいし」

 穏やかな強さを感じさせる、飯坂が纏う空気は人を安心させるような何かがあった。それは川辺も同じようで、普段の人を食ったようなところなど微塵も見せない幼い笑顔浮かべていて、山田もいつもよりどこか嬉しそうに見える。それに川辺興業の他の従業員達も川辺とは違う意味で飯坂を慕っているのがわかった。それ故、飯坂から手放しで誉められるとひどく面はゆい。

「まぁ、中坊くらいの歳やと、憎まれ口きくくらいのことしかでけへんわな」

学校ではからかわれてばかりだろうと飯坂が言い、山瀬は何とも言いようがなくて微笑んだ。それだけで得心したのか飯坂は運動会で会うのを楽しみにしていると言いおいて、事務所へと去っていった。そして入れ替わりに磨き上げられた濃紺の小振りのトラックが山瀬達の前に止まる。

 荷台の後ろにさり気なく金色に輝くベンツのマークを指さしながら、川辺が言った。

「所帯は小さいけど、いつかうちの車は全部ホンモンのベンツやで。10年後は社用車はベンツ。職人は最高。カッコエエやろ」

「おう、カッコエエ。後は男前揃えたら、文句なしやな」

「アホ、それは俺の担当じゃ」

山田が笑うと川辺は片方の頬を歪めるだけの不敵な微笑みを浮かべた。

「ほな、借りていくわ」

「おう、あんじょう、大事に使うたってや」

「わかってる。まかしといて!」

「そいつは運動会の片づけ終わるまで、学校で預かってもろてええで。そのために河合が隅から隅までピカピカに洗てん。白いもん載したかて、泥も汚れもつかへんで」

 山瀬と山田で河合に礼を言うと、彼は照れくさそうに笑った。ショッキングピンクの髪の鮮やかさとは対照的な幼さの残る笑顔に、山瀬は快活で生意気なことばかり言うくせに、提出する文章の全てに豊かで細やかな感情を見せる女生徒の面影を見つけた。

 山田の隣のナビシートで、山瀬は初めて訪れた川辺の職場の空気を心地よく感じたことを話した。山田は破顔しながら、自分もあの会社は気に入っているのだと言う。

「うまく言えないんですけど、川辺さんも飯坂専務も、それから河合さんとか他の人達もいい感じですよね」

「男気ありますからね、全員。特に専務は男が惚れる男やし、べーやんもなんやかんやいうて人気者で、あの二人に惚れたヤツらが集まったみたいな、そんな会社ですよ」

なるほど、と、山瀬は納得した。あのあたたかな空気を知っているから、いつだったか、歩道からはみ出して歩いていた女生徒が疑いもなく、川辺興業の自動車は絶対に安全だと言い切ったのだとも思った。


 山瀬と山田が学校に帰り着くと、待ちかねた様子の女生徒達が二人を取り囲んだ。

「先生ら、どこ行ってたんよ。私ら、ずっと待っててんで」

「何でやねん。お前らと何か約束してたか?」

「山田先生、よう言うわ。もう言うてる間ぁに運動会やねんで。仮装行列の衣装合わせ、してしまわなあかんやん。約束せんでも心づもりくらいしてくれらな、かなんわ」

衣装作りのリーダーらしき女生徒は唇を尖らせながら、山田の腕を引っ張って家庭科教室に向かう。それを追うように山瀬も残りの生徒に背中を押されて、階段を昇った。

 

◇◇◇
 

 家庭科室には白組のクラスの女生徒の、ほぼ全員が集まっていた。壁際に並べられたミシンの半分以上が忙しなく動き、幾つかのテーブルでは数名の生徒達が懸命に針を動かし、キャスターのついたハンガースタンドには何着もの衣装がぶら下げられている。

「山田先生、上だけでええから脱いで。ほんで、コレ、着て」

言いながら一人が白い布の塊りを山田に差し出す。

「うわ、また大仰な服やなぁ」

山田は言われるままにシャツ一枚になり、純白の服に袖を通した。

「今年はウェディングドレスか。毎年毎年、よう作ってくれるけど、お前ら、ホンマにマメっちゅーか、俺のこと、オモチャかなんかと思てるんちゃうか」

憎まれ口をききながらも、山田は足下まですっぽり隠れるドレスを身に纏ってから、軽くポーズをつけて見せた。

「センセー。スンマセンけど、後ろ、チャック頼んでええですか」

「はい、わかりました」

突然のことに戸惑う山瀬がファスナーを引き上げてやると、山田は極上の笑顔を浮かべながら軽やかにターンしてみせる。ドレスの裾を摘み、芝居っ気たっぷりに膝を折ってみせる山田に半ば感心し、半ば呆れて山瀬が言った。

「よくお似合いで」

「ねー、先生もそう思う? うちらでデザインしてんで」

「生地はあーちゃんとこの工場の傷モンもろてきてんけど、エエ感じに傷も隠せたし」

「レースは虎屋の見切り品やけど、上等のんやねんで」

「山田センセー、アホみたいにデカイさかい、ぎょうさん生地いるし、縫うのんもムッチャしんどかってん」

「うん、凄いね。苦労の跡がわかるよ、凄く」

山瀬が生徒達を労うと、彼女らは頬を染めながら、ささやかな歓喜の声を上げた。

「よっしゃ、山瀬先生にも誉めてもろたし、本番はヘアメイクにも気合い入れるで! ほんで今年も仮装行列は白組が頂きや!!」

「おい、ちょー待ってて。もしかせんでも俺、今年も化粧とかされるん?」

「山田センセー、何寝ぼけたこと言うてんのん。お嫁さんやねんで? ウェディングドレスやで? 本番にはシーちゃんとこの姉ちゃんの店のお古のベールとかティアラとか、タダで貸してもらうねんで。あと造花のんやけど、ブーケも貸してもらうことに決まってるんやから、気合い入れてくれな、アカンねんよ」

「なんだか随分、本格的なんだね」

「そら、トリの紅白対抗リレーの次に点数高いんやもん。ここで頑張らな、勝負つけられへんねん、山瀬先生」

「アタシら3年生の女子は、仮装行列に命賭けてんねんもん」

「山田先生、キツイとことかない? あったら直すし」

衣装を着せられたまま放っておかれていた山田に声がかけられると、山田はひとしきり腕や肩を回してから

「うん、エエ感じやで。別にキツイとこもあらへんし」

「ほな、汚さんうちに、さっさと脱いで」

「あ、それから山瀬先生、こっちのタキシードに袖通してくれる? 先生はね、山田センセーのお婿さんの役してね」

「上着とズボンと。あっちの準備室で着替えてきて」

 山瀬に渡されたのは、きちんと仕立てられた式服一式だったが、それは流行遅れで商品としては使えなくなったものを、譲り受けたものだという。成る程と、タキシードに袖を通した山瀬は思った。当たり前のことなのだが、それは衣装というよりも正装という呼ぶにふさわしいもので、着心地も良い。初めて着たタキシードは気恥ずかしく感じられたが、ウェディングドレスを着せられた山田よりも遙かにマシでもあった。正直に言えば、ウェディングドレスを着なくてすんだことに、山瀬は心から感謝したのだ。

 山瀬が準備室を出ると、

「わ、センセー、ムッチャ男前!! 十年してもセンセーが独身やったら、私、お嫁にいったげるわ」

と、女生徒の一人が言った。その言葉に反応して、家庭科室に居合わせた女生徒達が次々に花嫁候補として名乗りを上げる。その様子に山田は苦笑しながら、山瀬の人気者ぶりにひどく感心してみせた。

「やー、人気者のセンセの嫁はんにしてもらえるやて、もしかせんでも俺、玉の輿?」

「何を馬鹿なこと言ってるんですか。それに僕はお金持ちなんかじゃないから、玉の輿って言葉は使えませんよ」

山瀬が言うと、女生徒の一人が

「センセー、果報モンていうんちゃうのん、それ」

と笑う。賑やかな笑い声に山田は照れ臭そうに頭を掻き、活気溢れる女生徒の集団はボキャブラリーに乏しい、一日だけの花嫁の逞しい身体を叩いて慰めた。それは何とも心温まる風景で、自然に山瀬の面(おもて)に微笑みが浮かぶ。しかし女子中学生の突拍子のない一言が、彼女達の興味を一瞬にして山瀬に集めた。

「センセー、山瀬センセー。なぁなぁ、山田センセーのこと、ちょとでエエからお姫様抱っこしてくれへん? 退場門に行進する前だけでええねん。ホンマにちょっとだけ。ね?」

「うわ、それ、ナイスアイデア!!」

「ホンマや、ムッチャ、エエやん、それ」

「センセー、やって! それ。お姫様抱っこ、して、して」

「ちょっと、待って!!」

当事者を抜きにして勝手に盛り上がる女生徒達を、山瀬は大慌てで止めた。

「無理!! 絶対に無理! ウェイトに差があり過ぎだって。それに情けないけど、僕は人並みの力しかないし、鍛えてもないから、山田先生を抱き上げるなんて、絶対に無理だから!!」

 山瀬の悲鳴にも似た必死の訴えさえも、女生徒達は何だかんだと言って理由をこじつけて退け、山田を抱き上げろと迫る。できないと反論しても、火事場の馬鹿力で何とかなるなどといい加減なことを言い、終いにはできる、できない、やってみないとわからないの水掛け論になってしまい、どちらも一歩も譲らないが故に収拾がつかない。

 混乱した膠着状態に一石を投じたのは、山田だった。

「お前らなぁ、山瀬センセーと俺と、どんだけ体重に差ぁあるかわかってへんやろ。センセーに無茶言うなて。その代わり俺が山瀬センセーのこと、抱っこするさかい」

 ニコニコと、人の良い笑顔でサラリととんでもないことを言ってのけた山田と、驚きのあまり目が点になってしまった山瀬を囲む女生徒達は歓声を上げた。

「やった! やっぱり結婚式にはお姫様抱っこやんな。さっすが山田センセー、よう分かってる!!」

「やろ? 俺、ムッチャ頭ええやん?」

「伊達にセンセーやってんちゃうねんなー。見直したわ」

「おお、無駄に大学出てへんやろ? お前らもな、そこそこ勉強して大学行けよ。行ったら俺みたいになれるしな」

 冗談にしか聞こえない山田の口調に、陽気な笑い声で女生徒たちが応じたのを機に、山瀬は無事、とんでもない要求から放免されのであった。

 

◇◇◇

 

 職員室に向かう途中で、山瀬はさりげなさを装いながら、おそるおそる訊いた。

「先生、さっきのアレ、冗談ですよね?」

「アレ……? アレて、どれです?」

「あの……先生が僕を抱き上げるっていう……」

「え? 本気ですけど……ちゅーか、アイツら楽しみにしてるみたいやし、付き合うてくださいよ」

「でも……花嫁役は山田先生でしょう? それ、おかしくありませんか?」

「や、ごつい嫁さんが先生みたいに男前の婿さん担ぐ方が、絶対受けますから」

そんな屈託のない山田の笑顔に、山瀬は泣きたくなった。

 どうも最近、山田に振り回されるついでに、そこここでも思いがけない騒ぎに巻き込まれているような気がする山瀬は、何とか山田を押しとどめようと、説得を試みる。しかしその全てが無駄に終わった。

「ほんだらセンセー、究極の選択してもらいますよ? 俺に抱っこされんのとチューされんのと、どっちにします?」

唐突な山田の問に、山瀬は言葉を失う。

「彼奴ら、アレで結構タチが悪いっちゅーか、場ぁ、盛り上げるためやったら何でもしよるさかい、抱っこで妥協した方がええと思いますよ」

「“チュー”って、まさか……」

「口と口やないと、勘弁してくれへんような気ぃしますわ、アイツらとか、アイツらのオカンらとか、面白かったら何でもええとか考えてるような感じやし……」

そう言った山田の生真面目な目に、山瀬は早々に白旗を揚げた。

「いいです、抱っこで。当日は、落っことさないでください。お願いします」

「任せてください。こう見えても腕力には自信がありますよって」

山田はがっくりと落ちた山瀬の肩を叩いて力づけてくれたようだが、そんなものは山瀬にとって何の慰めにもならなかった。


 木曜日、山瀬と山田の二人は他の職員の手を借り、空き時間を見つけては運動会で使う資材を小学校の校庭に運び込む。長机などは小学校の備品から順に使い、足りない分だけを中学校から持ち込む手筈になっていたが、最終的に、日よけ用のテントはあるだけを運んだ。手持ちの拡声器、競技で使うCDやMDなどの細々したものを、休憩時間を利用してトラックに積み、ある程度の量になると小学校へ向かう。小学校に着くと必ず誰かが待ちかまえているか、どこかから飛んでくるかとなって、二人は幼稚園の荷物を運ぶように頼まれ、軽い割には嵩張る張り子の動物やら、お遊戯で園児が身に着けるであろう小物や衣装を運ぶ。

 授業の準備時間を見越して小学校を後にして、中学校に帰り着くとすぐに授業をこなすのは楽ではない。けれど運動会という晴れの日を目前に控えているという高揚感のせいか、山瀬が疲れを感じることはなかった。

 放課後、正面玄関の前に停めたトラックの荷台には、既にいくらかの荷物が積んである。山瀬や山田がいなくても、明日に控えた予行演習までに持ち込まなくてはならないものは、いつの間にやら誰かが運んで揃えているようで、山瀬や山田はある意味、安心して自分の仕事をしていられるのだが、山瀬は運ばなくてはならないだろうと考えていたものが見当たらないことに、疑問を感じた。

「山瀬センセ、何、ぼーっとしてはりますん?」

いつの間にやら隣に立っている山田の声に、

「仮装行列の衣装、まだ仕上がってないのか、少し気になって……」

と、山瀬は答えた。

「あれは、当日の朝、生徒らが運ぶんやそうです」

「結構な量になるのにですか?」

「本番まで、相手方に手の内を見せたぁないらしいですよ。べーやんがここに通うてた時分から、そんなんやったとか聞きましたけど」

「本当に、力入ってるんですね」

「三年生にしたら、最後の学校行事ですからね。これが終わったら、春まで受験準備ばっかりやし、それがわかってんのと、この辺の保護者とかにここの卒業生が多いせいで、ホンマにお祭り騒ぎになるんですよ。当日は露店も出るし……」

「露店?」

「さすがに校内には入ってけーへんけど、校門のとこと、それから向かいの家の軒下と、あと橋のとこ。毎年、たこ焼きとか来ますよ。そこのテキ屋に、たまに卒業生がいてたりするんですけど……」

何ともアットホームな地域の在り方に山瀬が感心してみせると、山田も破顔してみせる。

「まぁ、引っ越しとかの人の出入りが殆どないですからね、この辺。前も言うたかもしれへんけど、戦前まで遡ったら殆ど縁戚関係になるとか、そんな感じで。何やいうたら大がかりっちゅーか、お祭り騒ぎになってまうんです。せやからか、秋祭りも賑やかですよ。岸和田のだんじりより1ヵ月ほど後に、この辺でもだんじり曳き廻すんですけどね、まぁ、岸和田のんに比べたら小さいけど、ほんでも結構エエ感じで。学校も半ドンになるし」

「先生も曳かれるんですか?」

「俺は、ここの在やないから……それに俺ら、見回りありますから、曳きたぁても曳かれへんのですよ」

「見回り? それに今、“ら”って、言いましたよね?」

「祭りと休みは所帯持ちが優先されますから、独り身の俺らは生徒が悪させぇへんように校区内の町内会を回るんです。二人とも、こっちの人間ちゃうから、自然とそうなりますねん」

 去年までの見回りは一人で物足りなかったのだと言ってから、移動はバイクの二人乗りでと笑う山田を眺めて、何かというと二人一組で行動することが当たり前のようになりつつある今日この頃に、山瀬は胸奥深くでこっそりと溜息をついた。

 

◇◇◇

 

 冴え渡る青さを引き立てるように、空には鰯雲が浮かんでいる。陽射しは多少目に眩しく、立っているだけで軽く汗ばんでしまう。だが肌に当たる風には秋の気配が感じられた。

 特に問題もトラブルもなく、午前中のプログラムは着々と進行していく。まだ頼りない身振りで懸命にお遊戯をする幼稚園の子供達、学年の数字の分だけの成長を見せつける小学校の児童達、そして思春期真っ只中の中学生達が繰り広げる演技はバラエティーに富み、山瀬を飽きさせることもない。最大10歳の年齢差があるものの、誰もが幼馴染み状態であるためか、年長者が自然に小さな子供達の世話を焼いていて、生意気盛りニキビの盛りの男子中学生も、慕ってくる園児達にはそれなりに友好的に接している。無理をしているようには思えない、ごく自然なその表情に山瀬は、市内で最も小さな学校だからこそ可能な家庭的な雰囲気の良さを感じていた。

 「センセー、ぼちぼち準備しましょかー」

背後から聞こえる暢気な声に、山瀬が振り向く。

「昼の休憩が終わってすぐの出番やさかい、控え室で早めに飯にして、そんでから着替える段取りやて言うてましたよ」

女装が全く苦にならないのか、山田は相変わらず人の好い顔で笑っている。

「余裕……あるんですね……」

溜息混じりに山瀬が言うと、

「俺も最初は気ぃ重たかったんですけど、一回やったら慣れますよ? 慣れるっちゅーより、開き直るしかしゃーないっちゃぁ、しゃーないんやけど」

と、山田が最高の笑顔で励ましてくれた。女装しなくて済む分だけ運がいいと自分で自分を慰めながら、山瀬は控え室に向かった。


 控え室では既に三年生達が弁当を使っていて、山瀬も山田と共に空いている机をテーブル代わりに、少し早めの昼食を摂った……のだが、情けないことに殆ど喉を通らない。

「口に合いませんでした?」

心配そうな山田に作り笑いで応えながら、そういうわけではないのだと、山瀬が言った。

「柄にもなく、緊張してるみたいです」

「山瀬センセーは、繊細ですねぇ」

心底感心しているような山田は普段と変わらぬ健啖ぶりで、自作の弁当をかき込んでいく。

 同じおかずが同じ配列で並ぶ弁当箱を、殆ど箸を付けていないままに残すのは、特に作った本人の前ではさすがに気が引ける。しかし、昼休みが終わった直後に晒し者になる身としては、食欲がなくなっても仕方がないと思うのだが――しかも山瀬とは違い、山田は純白のウェディングドレスを身に纏うのだ。それに比べれば、タキシードで許された自分は山田よりも遙かに幸運だと、山瀬は朝から何度も呪文のように心の中で繰り返していた。

 その呪文は効かなかったわけではなく、午前中は平静を保ってもいられたのだ。しかしプログラムが進むに連れて落ち着かなくなり、終いには気が重くなってしまい、情けないことに食欲まで失ってしまっている。それなりに図太いつもりだった山瀬だが、自分で思っていた以上によく言えば繊細で、悪く言えば根性なしということで、その発見が更に気分を滅入らせてしまう。

 準備に時間がかかる山田は早々に席を立ったのを機に、山瀬はのろのろと動かしていた箸を急いで動かし、山田の手作り弁当を無理矢理平らげた。せっかく作ってもらったものを残しては申し訳ないという気持ちと、それを上回る負けん気のお陰で失せた食欲を取り戻せたことには、ちょっとした勝利者の気分を味わえもしたが、気持ちが軽くなったりはしない。

 支度に時間がかかる生徒達が着替え始めるのをぼんやり眺めている山瀬の手を、強い手で誰かが引いた。いきなりのことに驚いた山瀬が見ると、手の主は山田。山田は白いドレス姿で、レースで仕立てられた可憐なふくらみを持つ短い袖からは、太い腕がにょっきりと生えている。よく陽に焼けた肌の下には、明らかに発達している筋肉が見て取れた。

「花嫁からの大サービス!!」

おおらかに山田は笑うと、山瀬の両手を胸に置く。

「うわあぁぁぁっっっ!!!!!!」

左右の掌に感じた妙に柔らかい感触に不意をつかれ、山瀬は情けない悲鳴を上げた。

「そんな感激してくれるやて、花嫁冥利に尽きるわぁ!」

満面の笑みを浮かべてしなを作る山田に、

「な……一体、ナニなんですか、それ?!」

と、山瀬は問う。

「今年は可憐なBカップ」

山田に代わって、女生徒の一人が答えた。

「今年は……って?」

「去年はチアリーダーやったから、迫力のFカップ。その前はナースでCカップ」

「今年は可憐な花嫁さんやから、ちょっと控えめにしてん」

「あ、もしかして山瀬先生、巨乳ちゃんの方がタイプ? せめてDくらいやないと、萌えへん?」

「や……そういうわけではないけど……アレ、何なの?」

「何って……おっぱい。中にクッション用の細かいビーズとぬいぐるみ用の綿、詰めてあんねん」

「ブラジャーは、べーやん先輩の友達のニューハーフの人から分けてもろてんよ」

「川辺さん……?」

「べーやん先輩は、顔広いから。山田先生、胸囲ベラボーやから、普通の店で合うのん売ってないし、ほんで、べーやん先輩に相談したら、先輩の友達のニューハーフちゃんからゲットしてきてくれてん」

「お代は山田先生の女装写真。今年は山瀬先生とのツーショットがええて、言うてはんねんて」

「お姫様抱っこの写真、撮ってな、先生。せやないと、来年から色々貸してもらわれへんようになるし。写真屋のおっちゃんも張り切ってくれてんで」

「他にも借りてるの?」

「山田センセーのハイヒールとかアクセサリーとか、他の着物とか、家族とかのつてで借りられへんもんとか、割かし借りてるねん、ウチら」

 山田の胸元にはネックレスが、短い髪を覆うベールには揃いのティアラが輝いている。

 そう言えば衣装合わせの時、毎年、あちらこちらからの協力を取り付けるため、仮装行列は本格的なのだと自慢げに語っていたなと、今更思い出しても仕方のない記憶が山瀬の脳裏を駆け巡った。つまり、逃げ道はないのだ。だから開き直るか諦めるか、或いは山田のようにこの状況を楽しむかの他に選択肢はない。

「先生もぼちぼち用意して?」

 女生徒の一人に背中を押されながら、山瀬は部屋の隅で着替えている男子生徒に混ざってタキシードに着替えた。男子の中には山田と一緒に化粧をしてもらう者も何人かいたし、気が進まないような顔はしていても、それが単なるポーズでしかないことは浮かれ気味の態度から知れる。山瀬は先刻脳裏に浮かべた選択肢から“諦める”と“開き直る”を選んだ。

 

◇◇◇

 

 入場門の裏には出番待ちの生徒や、山瀬や山田と同じように仮装行列に駆り出された職員達がひしめいている。当然のように山田はからかわれ、山瀬は三国一の果報者だと肩を叩かれた。軽快な音楽に合わせて入場門裏にいる人間は一人減り、二人減り、観覧席の父兄のものらしい、拍手と歓声が聞こえる。

「緊張してはります?」

「少し」

山瀬が答えると、山田は初めて会った時に見せた、人懐っこい笑みを浮かべた。

「手ぇに“人”の字を書いて飲み込んでみます?」

と、言い終わらないうちに山瀬の口が、大きな掌で覆われる。驚いて手の持ち主の顔を見ると、すっかり慣れ親しんでしまっている笑顔があった。

 考えが浅いのか、人としての奥が深いのか、今ひとつわからない、同僚にして押し掛け親友の手はあたたかい。この芝居じみた思いやりは実に山田らしく、幼少中合同運動会の初心者として何もかも任せても大丈夫だと信じられた。

 山田の掌に自分の手を重ね、山瀬は短い礼を述べた。それから

「途中までですけど、エスコートさせていただきます」

と、山瀬は腕を差し出す。山田は明るい顔で笑いながら山瀬の腕を取り、

「お姫様抱っこは任してください。絶対、落としませんよってに」

と笑った。

 その言葉の通り、山田は見物人の前で見事に抱き上げた。父兄達のリクエストに応え、山瀬を抱きかかえたままで観覧席の間近まで歩いた山田の腕の中で、山瀬も向けられたカメラに笑顔を振りまく。

 どうせ開き直るのであれば、とことんやる。そう腹を決めた山瀬は山田のノリに便乗させてもらっただけなのだが、それが見事に功を奏し、山瀬と山田の奇妙にも初々しい新郎新婦は一番の人気者となり、仮装行列は白組の圧勝に終わった。

 退場門の裏では生徒達との記念写真や、学校のアルバムを担当して手いる写真館の主が、まるで本物の結婚式のようなポーズの写真を撮ってくれた。それから、しばらくの間、山瀬と山田は幼稚園児や小学生、中学生達に揉みくちゃにされたが、二人が解放されるのを待っていた合同運動会実行委員の三人に救出されはした。けれど彼女らも蚤の夫婦を演じた山瀬と山田を囲んでの記念写真を撮り、三人揃って今年の仮装行列は伝説になると太鼓判を押してくれる。

 山田との仮装が予想以上に喜ばれたことに複雑なものを感じた山瀬だったが、午後のプログラムもつつがなく進み、無事に閉会式を迎えられたことを真実、嬉しく思った。そして少なくとも来年の秋までは、衆目の前で柄にあわないことをしなくてすむことが、何よりも嬉しかったのだ。


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