彼らの隠れ家 7


 テーブルから転がり落ちるグラスさえ目に入らず、山瀬はただ呆然とするほかなく、その一方で川辺は慌てて流しに走り、台布巾を手に戻ってきた。

「センセ、何ぼさっとしてんねんな。はよ、拭かんと!」

川辺の言葉にようやく我に返った山瀬も大慌てでタオルを引っ張り出し、床に広がるビールの上に被せた。

 更に数枚のタオルをチェストから引っ張り出すと、率先して惨事の後始末をしてくれている川辺が手を差し出す。山瀬が躊躇なくタオルを渡すと、川辺はタオルではなく、山瀬の手首を取った。

「ビール零すくらい、びっくりしたんや」

明らかに川辺は、この状況を面白がっている。

「けど、俺の手を振り払わへんくらいやから、そこそこオッケーなんとちゃうん?」

「“そこそこオッケー”って、何ですか」

「びっくりはしたけど、寒イボ出る程、嫌とちゃういうこっちゃ」

床を拭いながらウインクする川辺に呆れながら、山瀬は小柄な体躯に不似合いな程に強い力を見せつける川辺の手を静かに解く。

「嫌も何も……だいたい、僕も川辺さんも男ですよ?」

「そんなん、わかってんがな」

あっけらかんとした調子にペースを崩され戸惑う山瀬に、川辺が話しかける。

「センセ、男はアカンの?」

「恋愛対象として考えたことがないですね、少なくとも」

「ほな、エエ機会やと思うて、俺と一緒に考えてみぃひん? 多分、センセー、両方イケルくちやと思うねんけどな」

「根拠は? どうして、そんな風に思うんですか? だいたいそんな話、今までしたことなかったし、それにどうして今、ここでそんな話を始めるんですか」

「今までしたことなかった話やったら、これからしていったらええやん。あと根拠はないこことない――というより、何となく……強いて言うなら勘やな。読んでる本の傾向とかジャンルからしたら、何事にも割かし先入観ないみたいやし、山ちゃんのお陰でせっかく二人っきりになれたんやし、こんな絶好のチャンス、逃すアホがどこにおんねんな」

「でも……」

「でも? 何がアカンねんな、センセは」

 何がと問う川辺を納得させられるだけの答えを持ち合わせていない山瀬が沈黙した。

「さっき、俺の手ぇ、振り払わへんかったやん。それ、俺のこと気持ち悪いとか、思てへんからとちゃうん」

 落ち着き場所を求めるように、川辺の手が、そっと山瀬の手に重ねられる。

「俺、山瀬センセーのこと、好きやで。マジ惚れてんねん」

 僅かに掠れた低い声が染み込んでくるみたいだと、山瀬は思った。自分の手とは明らかに異なる質感の、ゴツゴツとした掌は熱く、その熱に山瀬は戸惑いを感じるばかりで、気の利いた言葉の一つも出てこない。

「すぐに返事がほしいワケちゃうねん。男にコクられたん初めてやと思うし、ゆっくり考えてくれたら、そんでええねん」

「僕は……川辺さんに喜んでもらえる返事ができないと思いますけど……」

ようやく出すことができた情けない声が、滑稽に聞こえる。

「まぁ、惚れたはれたは時の運みたいなとこあるから、アカン時はしゃーない。けどな、俺はセンセーを落とす自信は、あんねん」

 そう言いながら川辺は、山瀬にとっては既に見慣れた自信に溢れたような、人を食ったような笑顔を浮かべた。

「俺みたいなエエ男、袖にするやて勿体ないやろ? な? 俺はお買い得やで。顔もエエし、頭もエエし、仕事もできる。センセとやったら共通の趣味もあるし、オマケに俺はアッチの方がなかなかのもんやっちゅうだけやのうて、ネコもタチもできるし。な? 俺にしとき。損も後悔もしんどい目ぇも、絶対にさせへんで」

「恋愛に損も後悔もないでしょう」

山瀬が呆れ、その傍で川辺が笑う。

「俺、こう見えても尽くすタイプやねん。せやから絶対、お買い得。言うたら何やけど、北川先生よりかずっとエエで」

 これでもかというくらいに歯の浮くような台詞を聞かされて不快に感じるどころか、同性に愛の告白をされ、甘い言葉で口説かれる状況をどこかで面白がっている。重ねられた手から逃れようとも、体温が伝わるほどに接近した距離を何とかしようとも思わないのは、やはり川辺が言うように、自分には同性愛に対する抵抗感や嫌悪感というものがない──自覚がなかっただけの同性愛者だからなのかもしれないとさえ考え始めている。それがただ、不思議だった。

「川辺さんは凄いですね。何となく、川辺さんの言うとおりにしたら、間違いはないんだって気になってしまう」

「マジ? ほな、この際、いっぺん俺で試してみぃひん?」

 言いながら川辺は山瀬の身体をフローリングに引き倒した。真上にある、軽い言動とは裏腹の、常になく真剣な川辺の眼差しを真っ直ぐに受け止めた山瀬は、川辺の空いている方の手で川辺の身体を押しとどめた。

「ダメですよ、川辺さん」

「ええやん、ちょっとくらい」

「よくないですよ、そういうのは。一応、僕はまだセックスに多少なりともロマンを持ってるんですから」

 川辺は大袈裟な溜息をつき、彼は山瀬を解放する。

「堅いな。難しいことなんか考えんでも、お互いに気持ち良うて、満足するだけのんでもエエような気ぃもするねんけどなぁ……けど、その堅物さ加減にも惚れてるし、今日はこれくらいで勘弁しといたるわ」

 それからは普段と変わりなく、二人は最近読んだ本や映画をはじめとする、ごくありふれた話をして大いに笑った。

 帰り際、山瀬の部屋のドアを閉める直前に川辺はまた山瀬に好きだ、本気で惚れているのだと囁いた。

 川辺から向けられた真っ直ぐな好意は素直に嬉しく感じられる。しかし、どこかで不満めいた気分があるような気がした。漠然としているとさえも言えない、山瀬自身にも見当がつかない、その感情とも呼べない心の揺れに釈然としないながらも彼は、明日に控えた山田との仲直りに備えるため、酒盛りの後片づけもそこそこにベッドに潜り込んだ。


 学生達の集団に混じって、バス停から学校に続く坂道を登る山瀬の背中に何度も声がかけられる。夏休みの直前とは異なる浮き浮きとした声の調子に、生徒達が幼少中合同運動会を楽しみにしていることが窺い知れた。思春期真っ只中という時期的なものもあり、生徒の大部分が運動会には無関心な、或いは今更と言いたげな態度をとっていたが、何だかんだ言いながらも真面目に練習には参加しているし、運動会の準備が始まってからの校内は、雰囲気が確かに和やかになっている。

「山瀬先生、おはようございます」

「センセー、今日は同伴出勤とちゃうん」

「おはようございまーす」

 生徒達はそれぞれ個性的な挨拶をして山瀬の傍らを駆けていったり、そのまま歩調を合わせて色々な話をしたり、友人を見つけたり、クラスメイトに見つけられたりして、通学路を行く。山瀬も同様に歩みを進めてはいたが、いつもよりも足が重く感じられた。

 正直なところ、足よりもずっと気分の方が重いのだ。だがそれも、山田に朝の挨拶をしさえすれば雲散霧消するであろうことは確かなのだから、覚悟をさっさと決めて歩いてしまえばいい。なのにまるで宿題を忘れた小学生のように足を引きずる自分が滑稽だった。山瀬自身には殆ど非がない筈なのに、土曜日の夜から二晩も抱えることになった罪悪感と自己嫌悪をどうにもできない。

 山田との人間関係の修復については川辺が言っていたように心配はないのだ。いつもと同じように挨拶をして、それから何か軽くつまめるスナック菓子か何かを買って理科準備室を訪ねれば、それだけで山田は山瀬の気持ちを察してくれる。だから今朝は少し早起きをしてコンビニで買い込んだ、山田が喜びそうなスナックやチョコレート、それに新発売のインスタントのフレーバーコーヒーも鞄に潜ませておいた。いい歳をしてコンビニ駄菓子で人を懐柔しようとするのはどうかとも考え直したりもしたが、でもきっとこれくらいが山田の負担にならないだけの気遣いだとも思いもするのだ。

 ぼんやりと歩いている背中を強く叩かれ、驚いて振り向いた山瀬に朗らかな挨拶の声が投げかけられる。夏休みの名残を留める健康的な色の頬をほころばせた女生徒が、笑いながら山瀬のすぐ傍を駆け抜けていく。

「車道にはみ出さないで、歩道を歩きなさい。危ないから、ほら、向こうからダンプが……」

「はーい!!」

「あれ、べーやん先輩とこのダンプやもん。アタシら避けて通ってくれるし、心配ないって」

「そういう問題ではなくて、交通ルールは守ること!」

 山瀬が言うと襞スカートの裾を翻しながら、生徒達は歩道に駆け上がる。眩しいほどの心身の軽さに束の間羨んでから山瀬は、単なる惰性で動かしていた足に意識を向け、校内の三カ所に設置してある百葉箱をチェックするために、誰よりも早く登校する山田のいる場所へと急いだ。

 

◇◇◇
 

 逸る心を抑えながら職員室に入ると、そこには心細そうな顔の山田がいた。

 不自然にならないよう細心の注意を払いながら、何気ない振りで山瀬は山田に黙礼する。その途端、山田の面にはみるみる安堵の表情が広がり、『まるで画に描いたような』という言葉を具現化したような感情の変化を目の当たりにした山瀬は安堵の気持ちと、こみ上げる笑いを必死に堪えた。もしもまだ人が尻尾を持っていたとしたら、今の山田はその大きな身体に相応しい立派な尾を、ちぎれんばかりに振っていることだろう。それ程に山田は嬉しそうに見えた。

 山瀬は鞄の中のコンビニ袋を取り出しながら、山田の席へと向かう。

「おはようございます、山田先生」

「あ……おはようございます。あの……この間の……」

「感情的になってすみませんでした」

「や……そんな……俺かて気ぃ利かんで、申し訳なかったと思うてて……」

 不意に山瀬のポケットから電子音のメロディーが流れる。山田に頭を下げてから通話ボタンを押すと、北川がおそるおそるといった調子で放課後の予定を尋ねてきた。特に何もないと答えると、話したいことがあるのだと北川が言う。これ以上ないというくらいに緊張しているらしい声音に、そして土曜日の一件の後に直接連絡を取ろうとする、ひどく内気な筈の北川奮起したことに、その健気さに感じるところもあり、山瀬は北川と会うと約束した。

「北川先生ですか?」

「ええ。今日、話をします」

室内に自分達以外に誰もいないことを確認してから、山田が笑顔で問う。

「デートですね」

「そんなんじゃないですよ。お互いに思ってることを洗いざらい話して、それで終わりです。そうしたらスッキリして、運動会の準備なんかの仕事も進めやすくなって……」

「けど、北川先生は……!!」

山田が山瀬の言葉を遮る。北川を心配してばかりいる山田に、山瀬は心がささくれ立つのを感じた。

「北川先生はホンマに……」

「でも、僕は北川先生に恋愛感情を持てない。良い同僚になれても、それは無理です」

「けど……」

「北川先生に悪いと思わないわけではないですけど、でも多分ダメですよ」

「そんなん、付き合うてみらんとわからんかも……」

食い下がる山田を視線で制して、山瀬は静かに問うた。

「どうして、そんなに北川先生にこだわるんですか」

答に窮したのか、山田は黙って視線を足下に落とす。黙したままの山田に山瀬は、少し言葉がきつかったですねと言い置いてから、できるだけ明るい口調で話しかけた。

「正直に言えば、北川先生はタイプじゃないんですよ。ああいうおとなしすぎる人に慣れてなくて、どんな風に接したらいいかわからないし、申し訳ないけど気疲れしてしまって……9時から5時までの時間限定なら大丈夫なんですけどね」

冗談めかして笑ってみせると、山田は視線を上げた。

「山田先生や、この間のことは関係ないんです。この件については最初から、答は決まっていたんですよ」

 そうした方がいいような気がして、山瀬は下がったままの山田の肩に手を置いた。

「明日、晩飯どうですか? 俺、奢りますから」

不安半分、安心半分といった表情で山田が問う。

「じゃぁ、遠慮なく。お好み焼き、リクエストしていいですか。いつか先生が作ってくれた、具が色々入った」

山田が胸を叩いて万事任せてほしいと言い、山瀬が期待していると笑った。その後すぐに同僚達がやってきたため、山瀬は差し入れだと言ってコンビニの袋を山田に渡してから、授業の準備をするために自分の席に戻る。

 

◇◇◇

 

 隣の席の教師に挨拶をしながら山瀬は、山田の前では知らず知らずのうちに感情的になってしまう、自分らしくないことこの上ない己を考察してみた。

 昨夜、一歩間違えれば取り返しのつかない事態になりかねなかったほど危うい川辺との会話や、不意を突かれて押し倒されてしまった時でさえ冷静になれたというのに、山田と相対する時には完全に調子が狂ってしまう。そして土曜日のように、また今朝のように──幸い、職員室という場所がブレーキになり、感情を暴走させずにすんだのだが──むきになってしまって剥き出しの言葉や態度をぶつけてしまうのが、不思議で仕方がない。

 思えば初対面の時から山田には振り回されてばかりで、一緒にいると自分のペースを守れた試しがない。同じようなペースになっていると思っていても、山田の歩調に自分から、いつの間にか合わせていることも多く、それなのに気疲れした覚えがないというのも不思議だった。

 考えたところで山田と一緒にいる以上、何度も自分らしくない言動をしてしまうことは明らかだったので、山瀬は詮無い思考に耽るのをやめて、目の前にある現実を見詰めることに決めた。月曜日特有の諸々の雑用を要領よくこなして、就業時間になったらすぐに学校を出て、それから指定された駅前の喫茶店で北川を待つ。最後の課題が多少煩わしく感じられないこともないが、それさえクリアすれば平穏な生活が戻ってくる。そのためにも今はリアリストたるべきだ。そう自分に言い聞かせ、山瀬は山田よりも一回り頼りない自身の肩を軽く叩き、気合いを入れ直した。


 指定された喫茶店には、北川がいた。緊張した表情につられるように山瀬は思わず気を引き締め、話し合いをできるだけ速やかに終わらせるためにテーブルの間を進んだ。

 北川が鼻持ちならない嫌な女だったらよかったのにと、自分の姿を見つけた時に見せた華やいだ表情に曖昧な表情で応えながら、山瀬は思わずにいられなかった。例えば同僚の一人として接することも苦痛になるような、共通の認識や言語を持たない人間であれば多少の暴言や不遜で誠実さの欠片も感じられない対応をしたとしても、山瀬の身も心も痛まない。しかしテーブルを挟んだ向こうで、コーヒーカップの持ち手を持つ指先を忙しなく動かしながら緊張と不安を紛らわそうとしている北川は極端に内気な点を除けば、バカがつく程のお人好しで、それ故に山瀬も山田と同様に無碍にできないでいるのだ。

 運ばれたばかりのミルクティーを山瀬が一口飲み終えると、北川が躊躇いながら口を開いた。

「私……山瀬先生が好きです」

予想していなかったストレートな言葉に、山瀬は一瞬目を見張る。

「先生、好きな人、いてはるんですか?」

「いえ……今はいません」

「そしたら……」

「今の……同僚のままではいけませんか?」

「私のこと、嫌いですか?」

 複雑な人の心を好きと嫌いの二元論に軽々と持ち込んでしまう乱暴さもまた恋の病のなせる技なのかと、他人事のように思いながら、山瀬は北川の問いかけを否定した。

「嫌いではないんです、決して。けど……恋愛感情は持てないというか……同僚とか友人とか、そういう感じなら大丈夫だと思うんですが……」

「やっぱり……アカンねんや……」

山瀬の言葉に北川が呟く。

「やっぱり私みたいな女はアカンのですね。田中先生みたいにボケとツッコミ、両方こなせらへんし、どっちか片っぽだけでもできたらマシやのに、どっちも全然アカンし、こんなんやから私、未だに彼氏でけへんし、最悪、彼氏いない歴一生のままでお迎え待つんやわ」

絶望的な表情で、指の関節が白くなる程に強くカップを持つ手を振るわせながら独り言めいた言葉を呟き続ける北川を、山瀬はなす術もなくただ見守っていた──というより、それしかできなかった。

「おまけに口下手やし、思うたこともよう言わへんし、頼まれたら断れへんし、文句言うタイミング、ミスって結局泣き寝入りばっかりして、それも人によう愚痴られへんで、厚かましい人らにつけ込まれて、貧乏くじ引きっぱなしの人生がお似合いやねん……」

一人でこれだけ喋り続けてどこが口下手なんだと思いながら、自分にはよくわからないのだがと前置きしてから山瀬が言った。

「北川先生は充分に面白い方だと思いますよ」

「そんな……慰めてくれはらんかって、ええんですよ」

「全然そうじゃなくて、今の先生の独り言は面白かったです」

北川は微かに濡れた瞳を山瀬に向ける。

「真剣だった先生には失礼かもしれませんが、でも今の独り言みたいな話は何とも言えない味がありました。例えるなら……そう、川辺さんが時々やる……えーと、一人でひとしきり喋ってから『誰か止めてくれ』って言う、そんな感じで」

「私……一人で延々ボケてたんですか……」

「最後にツッコミが入れられたら完璧ですね、きっと」

つい口を滑らせてしまった最後の一言は失言だったかと山瀬は思った。しかし自分自身を面白味のない人間だと思い込んでいる北川には朗報とも言えるものだったらしく、彼女の頬は生き生きとした色を急速に取り戻し、山瀬は安堵の息をつく。

「山瀬先生はボケとツッコミと、どっちが上手い人が好きですか?」

「え……そういうのが今ひとつよくわからないので……」

「強いて言うたら、どっちですか?」

ボケとツッコミという観念を持たない自分に、そんな難しいことを訊いてくれるなと胸の中で叫びながら、山瀬は当たり障りのない、けれど誠意ある姿勢で北川のツッコミに応えた。その対応には北川も納得してくれたようで、ようやく緊張や自己嫌悪といったマイナスの感情から解放された彼女の表情に山瀬も安心する。

 その後の北川の態度は清々しく、慎ましやかながらも凛として立つ姿こそが北川の本質なのかもしれないと思い、それを見出すことができずに苦手意識を持ってしまったことを、それでもおそらく彼女に対して友情以上の感情を持てないことが惜しまれた。例え北川と交際を始めたとしてもきっと、遠からず友人以上、恋人未満の微妙な関係になるであろうことも、これまでの経験から山瀬にはわかっていたのだ。

 

◇◇◇

 

 北川とはそのまま同じ店で軽い夕食を摂った。彼女は友人として、そして良き同僚としてこれから接してくれると言ってくれた。その微笑みは少し寂しげだったが、『まぁ、いいか』などといった軽い気持ちで誰かと深く関わることが不得手な山瀬は、一抹の罪悪感を抱えながら精一杯の友情を示すのみに終始する。それさえもきっと北川にとっては残酷なことだろうと思いはしたが、北川に向けられる恋慕の情を持ち得ない以上、それ以外の選択肢はない。おそらくそれを、聡い北川も感じているのだろう。食事の間も、その後にコーヒーを飲んだ時にも当たり障りのない話題を選ぶ優しさを見せてくれた。そして山瀬は彼女の人の良さに漬け込んでいるような落ち着かない気分で、時間が過ぎるをのを待つのだった。

 流行りの歌やこれまでに読んだ物語のような身を焦がすような恋をしたこともなく、何を置いても欲さずにいられない相手に巡り会ったことがない山瀬にとって、恋愛そのものがリアリティーに欠けている。川辺からの熱烈な告白さえどこか絵空事めいて感じられ、だから山瀬は川辺の唇が次々に紡ぐ熱い言葉に躊躇することなく応酬できたのだろう。北川の件に淡々とした対応が可能だったのも、北川から寄せられた想いさえどこか他人事のように感じていたからで、それ故に互いにとって最も無難な言葉で切迫した事態を切り抜けることができただけだ。

 一人でアパートまでの道を辿りながら、ここ数日に畳みかけるように自分のみに降りかかってきたさまざまなことに思いを巡らせてから、山瀬は自分の不誠実さに溜息をついた。


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