彼らの隠れ家 5


山瀬は理科室の後方の机に資料や試験問題の草稿を広げている。間もなく始まる1学期の中間テストの準備は終盤にさしかかっており、彼は先輩教師の藤原由比子と手分けして試験問題の原稿作成に没頭していた。プリントアウトされた三学年分の試験問題の文字校正を行い、次いで試験問題自体に混乱や誤解を招く記述がないかどうかをチェックし、更に配点の総確認を進めるのはそれなりに手間がかかる。山瀬が担当している1年と2年の問題であれば、問題となる文章を自分なりに読みこなしてもいれば解釈もしてあるのだが、3年生の1クラスの担任と進路指導役を兼任している藤原が手掛けた問題には馴染みが薄い。もちろん、国語科の教師として問題の主旨は充分に理解できるのだが、初見の文章であるため教科書や指導要綱と照らし合わせるのが思いの外大変だったのだ。

 山瀬が作業の手を一旦止めて全身を伸ばした時、

「せんせー、お茶どうです? ちょっと一服しません?」

と、教室の前半分を使い、やはり中間試験の問題を作成していた山田が言った。

「いいですね」

山瀬が答えると、山田は破願して理科準備室に向かい、その後に山瀬が続く。

「熱いのんで、かましません?」

「いいですよ。理科室はあまり日が当たらないせいか他の教室より冷えますから、温かいお茶のほうがありがたいです」

「ホンマにねぇ。まぁ、薬品とか標本とかのこともあるから、ちょっと日当たりが悪いくらいの方が温度変化が大きすぎんでエエっちゃぁエエんですけど、冬はたまらん寒いんですわ。特にこのへん、なんやかんや言うても山の中で、駅のほうと比べたら標高にして100mほど高なってるもんやから、その分標準になる気温も低いし、オマケに山が日照時間を短かするせいで底冷えしよって……」

山田から茶葉の沈んだビーカーを受け取った山瀬は笑いながら

「でも山田先生は寒いのなんて平気でしょう」

と、言ってみた。すると山田は頭を掻きながら

「いや、あきませんねん」

と、破願する。

「へぇ。しょっちゅう山に入ってるし、バイクにも乗ってるから寒いのが好きなんだと思ってました。それに体格がいい人は寒さなんてどうってことなさそうだし……」

「まさか!! 俺らみたいなウドの大木はムチャクチャ効率の悪い個体ですねんよ。まずでかい身体の体温を維持するためには同種の平均的な個体よりようさん食わんとあかんし、身体動かすのにも余計にカロリー食うし、だいたい基礎代謝がでかいから息するだけも人よりようけエネルギーを消費するさかい、その分熱源の炭水化物とか脂肪とかを大量に摂取せんならんし、おまけに必要な食糧を確保するためにはようけ動かなアカンねんけど、そのためにまた人より余計なエネルギーがいるっちゅう……だいたい、恐竜が氷河期に絶滅したんも、環境の変化に適応でけへんくらい巨大化したんが原因とかいう説もあるくらいで……」

「はぁ……」

「あと、筋肉質の身体はエネルギー燃焼率が高すぎるから補給もちょこちょこせんならんのです。せやからプロレスラーより体脂肪率の高い関取のほうが食糧難とか氷河期とかになったら生存率高い筈で……」

 暑さ寒さに強いか弱いかという、茶飲み話にふさわしいはずの軽い話題さえも何故か、山田にかかると専門用語らしきものがふんだんに盛り込まれた小難しい話になってしまう。

 押し掛けの親友関係が成立した直後はそれが、共通の言語を持たない人間同士の噛み合わない会話にしか思えなかった山瀬だったが、最近ではそんなことでいらついたり疲れたりすることもなくなった。それどころか山田の口から次々に生み出される聞き慣れない単語や独特の論文調の語り口も今では耳に心地よい。それはまるで異国の言葉で朗々と語られる物語のようであり、一種の叙事詩のように感じられもする。興味のあること、ふと生じた疑問があれば遠慮なく問えばよかった。山田はどんなことでも丁寧に――時には理系の思考を持ち合わせていない山瀬には理解できないほどに詳細な解説をしてくれるため、却って山瀬が恐縮してしまうことも少なくない。だが山田は山瀬などお構いなしに話し続けるのが常であり、この日も考えようによっては一方的な山田の話は続いている。

 不意にビーカーを持つ手に大きな手が添えられ、山瀬は驚いて視線を上げた。

「山瀬先生、居眠ってはったんで、茶ぁひっくり返さんうちにと思ったんですけど、スンマセン、起こしてしもて……」

「あ、こっちこそすみません。お話の途中で……」

「いえいえ、俺の話は面白ろないみたいなんで、しゃーないです。けど山瀬先生やったら怒られへんから割かし安心やし」

「怒られるんですか」

「お前の話は堅ぁて面白ろないとか退屈やとか……よう言われるんです」

「僕は退屈だとか面白くないと思ったんじゃないんですよ。山田先生のお話は時々専門的すぎるところがあるのは確かなんですけど、それが……上手く言えないんですけど……先生の声を聞いてるのが何となく……ははは……上手く言えないや。あの、でも、お話の内容を全く聞いていない訳ではないんです」

「それは、先生は時々質問してくれはるから、わかってますけど……」

「どう言えばいいのかな……」

山瀬は少々狼狽えた。遠い国言葉で綴られた詩のように聞こえるなんて気障なセリフは、とてもではないが口になどできない。おそらく山田であれば照れもせずに感じたままを言葉にするのだろうが、あまりにも面はゆくて山瀬には無理だ。

「その……山田先生の声は僕の好きな声らしくて、言葉がだんだん純粋な音になっていくみたいで、決して悪い意味でも先生に対して何ら否定的になってるわけではないんですが、先生の声を聞いているだけで……」

 我ながら、何を言っているのだ。これではまるで三文詩人の愛の告白ではないか。そう意識した途端、山瀬の思考は混乱状態に陥ってしまった。

「面白ろないわけでなく、退屈でもない」

「それから居眠りしていたわけでもないんです。ただ先生の声を聞いてたような感じで……」

「ようわからんけど、センセーが気ぃ悪してへんのやったら、ええんですよ。俺一人で喋ってたから、先生が怒らはったんかと思っただけなんで」

「いえ、そんなんじゃないです、絶対に。すみません。山田先生のほうこそ、お気を悪くしたんじゃないですか」

「ん〜、俺は特に……もしかして先生、ムッチャ気にしてはります?」

そう言った山田はイタズラを思いついた子どものような笑みを浮かべる。

「山田先生、今、嫌なこと考えたでしょう」

「いややなぁ、俺がそんなこと考えるわけないやないですか。ただ、山瀬センセーが気にしてはるんやったら、その心の重荷を俺が軽くしてあげよかなぁ……って、ちょっとだけ思っただけです」

「一応、お話だけうかがいます」

「ホンマですか!!」

「聞くだけですよ、聞くだけ!!」

「あのですね、実は山瀬センセーに折り入ってお願いがあるんです」

ほら、きた、と山瀬は思った。

「後でええんですけど、問題用紙の誤字脱字のチェックしてもらいたんですよ。いっつも見直しはしてるんですけど、いっつもいっつもどっかに変なんが残ってるいうて生徒に笑われるし、たまに問題の意味がわからへんとか言われたりもして、けど国語専門の山瀬先生に見てもろたら間違いないと思って」

「はぁ……」

「いや、もちろんタダでやなんて厚かましいことは言いません。晩飯、奢ります」

「夕飯はあれですけど、かまいませんよ、それくらいなら。先生の都合さえよかったら、今晩やってしまいましょうか」

「え、けど、先生の仕事、いけますん?」

「残ってるのはチェック漏れがないかどうかの再確認くらいですから。それに国語科は僕と藤原先生の二人で作業を進めているし、最終的な照らし合わせなんかは一緒にやることになってるので、急いで終わらせなきゃならないところはもう殆どないんですよ」

「ほな、善は急げっちゅーことで、お願いしてもいいですか? あ、晩飯なんですけど、給料日前なんで俺の家でどうです? 先生の好きなん作りますから」

「え……でも、却って悪いですから……」

「何言うてはるんですか。俺ら運命の親友やねんから、変な遠慮はなしってことで、ねぇ、山瀬先生、そないしましょ、ね、決まり」

山瀬が口を挟む好きさえ与えずにこの後のスケジュールを決めた山田は山瀬の返事を待たずに理科室に行き、実験机にとっちらかしたままにしていた原稿や資料をかき集め始めたため、山瀬もそれに倣って机の上に広げていた細々としたものを片づけることにした。

◇◇◇

 山田は皿洗いをしている。山瀬は山田が急須で入れてくれた緑茶を飲みながら、理科の試験問題をチェックしていた。明らかなワープロの誤変換はかなり目立ったが、一般的な誤字脱字といったものは少ない理科の問題用紙に目を通していた山瀬に、山田が洗い上げた皿を拭きながら声をかける。

「せんせー、どんな調子です?」

「順調ですよ」

山瀬が手元に視線を落としたまま答えた。

「いくつか不思議な変換ミスが目立ちますけど、特に文章なんかでおかしなところはないと思います」

「ホンマですか?」

「ええ、あとはごく普通の誤字とかくらいですよ」

「そんなら、良かった。去年くらいまで生徒らに味噌糞に言われとったんで、今年こそ一矢報いてやろうと思ってて、山瀬センセーにそない言うてもらえたら、俺も安心ですわ」

と、山田も手を止めることなく言った。

 山田が後片づけを終えてから、山瀬は山田を額をつき合わせるようにして理科の試験問題をすっかり仕上げてしまう。山田は彼の仕事に終始協力的だった山瀬に感謝の言葉を述べると、日付も変わってしまったのだから今夜は山田の家に泊まるように言った。着替えを持っていないこと、翌日も出勤せねばならないことを理由に山瀬は山田の申し出を断った。すると山田は

「せやけど、もう終電も終わってるし……」

と、不満顔になる。

「タクシー使いますから」

「タクシー、高いですやん。明日ちょっと早めに起きて、俺がバイクで先生の家まで送りますから。んで、そのままバイクで同伴出勤しましょ。ね、かましませんでしょ、山瀬センセー」

「同伴出勤って……山田先生、それはちょっと違いますよ。それに僕のアパートに寄ったりしたら、遠回りになっちゃいますよ」

「それくらい、なんぼのモンでもないですって。ね、そうしましょ。そうやないと、あんまりにも申し訳のうて、俺がたまらんエライこってすから」

更に言い募る山田に山瀬も何度か抵抗を試みたのだが、結局は駄々っ子のような山田に根負けする形で山瀬は山田の厚意に甘えることにした。

 鼻腔をくすぐる味噌汁の匂いに山瀬は目を覚ました。普段とは異なる感覚に我に返れば、己の身体はチェックのブランケットとにくるまった状態で寝袋に収まっている。それに気づいて初めて山瀬は、そこが自分の部屋ではないことに思い至った。

 山田が作成した中間試験の問題のチェックをして終電を逃したため、半ば押し切られるように山瀬は山田の部屋に泊まったのだ。そして以前、川辺と共にこの部屋で雑魚寝をした時に山田が使った寝袋が気になっていた山瀬は、チャンスとばかりに山田が押入から寝袋を引っ張り出した途端に奪い取った。山田は客人の山瀬にこそ布団をと言ったのだが、山瀬は寝袋を使った経験がないことを理由に強引に頼み込んだため、結局山田が譲歩を余儀なくされた。

 慣れないと窮屈に感じたり疲れが取れなかったりするのだと山田は山瀬を気遣っていたが、人一倍体格に恵まれている山田を包む寝袋は山瀬にとってはゆったりとしている。さすがに手足を思いのままに伸ばすことはできなかったが、身体を縮こませなければならないわけではない。むしろ適度な広さの空間にすっぽりと収まっている、思いがけないほどの快適さに驚いたほどだった。そして不思議な心地よさに包まれたまま、山瀬は深い眠りに誘われてしまったのだ。


   
 山瀬が寝袋から這い出ようと身体を動かすと同時に山田が振り向く。朝一番だというにもかかわらず明るい声と常と寸分違わぬ笑顔を向けられ、山瀬はまず驚き、次いで面映ゆい気分になった。

 こちらの意識はまだ完全に冷め切ってはいないというのに山田はすっかり普段のペースで、こともあろうに朝の食卓まで整えている。万事に対してこまめな山田が甲斐甲斐しく朝食を準備するのは不思議ではない。或いは山田が異性であれば朝の台所に立つエプロン姿も自然に感じられたろう。いや、それよりも今、まるでだらしのない男を絵に描いたような自分をどうにか取り繕うべきなのか、それとも山田に倣い、多少空々しくとも笑顔を浮かべるべきなのか――――。

 一瞬のうちに脳裏を駆け巡る様々な思惑を挨拶の言葉で押さえ込み、山瀬はのろのろと寝袋から這い出した。

「センセー、よう寝れました?」

「あ、はい。お陰様で」

「塩鮭、じきに焼けますから、先に歯ぁ磨いてきてください」

「あ、どうも」

「卵は生と卵焼きと目玉焼きのどれにします?」

「あ、先生と同じで……」

「ほな、卵ご飯ね」

「あ……はぁ……」

「タオルとお客さん用の歯ブラシ、洗面所に出してありますから」

「あ……どうも……」

専業主婦の自分の母親並みの細やかな気遣いを見せる山田に驚嘆の意を覚えながら台所を横切ろうとした山瀬に、山田が声をかける。

「いえいえ、ご遠慮なく。味噌汁はワカメとふーさんです」

「ふーさん?」

「あー。えーと、麩のことです、麩。小麦粉のグルテンを成型乾燥した……」

「ああ、わかりました。麩のことですね」

 無駄に詳しい説明が始まる前に軽く山田を制し、山瀬は複雑な気分で洗面所に向かう。

 まるで理科室の実験器具のように整頓された洗剤や洗浄料、整髪料に混ざって真新しいタオルと歯ブラシが置かれている様子は、どちらかというと大雑把な普段の山田のイメージにそぐわないような気がした。しかし食卓を整える楽しげな様子には整然とした水回りが似つかわしいようにも思えてしまい、山瀬は知らず微笑みを浮かべる。標準サイズの流し台に向かい、大きな背中を少しばかり丸めながら包丁を動かしている姿は板についているし、朝食の献立が味噌汁と塩鮭という素朴な和食である点も山田に似つかわしい。

 そんなことを思いながら身繕いを済ませた山瀬が部屋に戻ると、布団と寝袋はきちんとたたまれた状態で部屋の隅に重ねられ、その代わりに置かれた卓袱台では朝食が湯気を立てていた。

「うわ、朝から凄いご馳走ですね」

山瀬が感歎と共に言うと、

「久しぶりのお客さんやから、ちょっとだけ張り切ってみました」

と、山田が笑顔で応える。

 張り切ったという山田の言葉通り、用意された朝食はどれも美味しく感じられた。関東出身の山瀬にとっては薄味の料理は多少頼りなくはあったが、調味料が控えられている分だけ素材の味が強い。特にひじきの煮物は山瀬の母親が作ったものよりも、そしてコンビニやスーパーの総菜売場で買うものよりも舌に合うようで、ついつい箸が進む。

「ひじき、美味いですか」

「ええ。僕が食べた中で一番好きな味ですよ。もしかしなくても、先生が作ったんですか」

「そうです。いやぁ、そない言うてもろて、ムッチャ嬉しいです」

「朝から大変じゃなかったですか? こんな手の込んだものを……」

「いや、そんなことあらしません。ひじき炊く時はいっつも一袋丸ごと炊いてしまうんです。んで、1回分ずつに分けてラップして冷凍しといて、食べる時にラップごとチンするようにしてるんで、今日のんもチンしただけで……。鮭も冷凍してたんを焼いただけやし、朝からまともに作ったんは味噌汁だけで、センセーにそない言うてもらうほどの手間はかかってへんし、俺は朝飯食わんとアカン質やから飯はいっつも炊いてあるし……」

「マメだなぁ、山田先生は」

 寝起きが良いとは言えない山瀬は朝食を抜くことが多いため、一人暮らしの独身男という同じ境遇の山田が毎朝きちんと朝食を摂っていること自体が既に驚きだった。一人の時はもう少し簡単なものを食べていると山田は言うが、毎日朝食を欠かさないことが既に山瀬にとっては称賛に値する。それを聞いた山田は照れくさそうに笑いながら

「母親が看護婦やからか、朝飯食べらな病気になるて子供の時から言われてましてん。それが刷り込まれてるだけで、偉いこともなんもないですよ」

と言った。

「それじゃ、山田先生のお母さんが凄いんですね。ちゃんと言いつけを守ってる山田先生も偉いですよ。僕なんか寝起きが悪いせいで朝は何も食べずに家を出ることの方が多かったから……今にして思えば、母親不孝ですよね」

「けど、それが普通とちゃいますか? べーやんとかに言わせたら、俺の方がアカンみたいやし」

 それから山田は彼の母親が幼い頃の山田を躾るために使った手の内を披露してくれた。その殆どが悪い子供は妖怪に攫われて遠くに連れて行かれたり、頭からバリバリと食べられるといったもので、山田は素直にそれを信じ込んで母親の言葉に従ったのだという。大人になった今ではそれが真実ではないと知っているが朝食を抜くとどうにも落ち着かないと言い、一度骨身に染みこんだ習慣を改めることはできないのだと山田は笑った。その笑顔は恐らく彼の母親から語られる妖怪に怯えて頃から何一つ変わっていないのだろうと山瀬は思い、そして叶わないと知りながらも幼い山田に会ってみたかったとも思った。

 

◇◇◇

 

 山田の背中に貼り付くようにして出勤した山瀬は生徒達から随分とからかわれたが、誰かにからかわれる度に同伴出勤だと答える山田への対応に頭を抱えることになった。

 生徒だけでなく、職員室の中でまで同伴出勤したのだと言い放つ山田を諫める山瀬を労ってくれたのは、同じ国語科で教鞭を執る先輩教師の藤原由比子だけである。しかし彼女は

「山瀬先生、観念しはった方が賢いですよ。山田先生はいっつもあんなんやから」

と遠慮なく笑うばかりだったのだ。そのため山田と山瀬が同伴出勤をする仲であるという共通認識が校内に定着するにはさほどの時間は要さなかった。

 いくら冗談だとわかってはいても悪趣味だと、山瀬は山田に恨み言をぶつけてみた。しかし山田は常の鷹揚さを発揮して

「人の噂は75日。ムキになったら余計に面白がられますから、適当に受け流しといたらええんです」

と笑うばかりで埒があかない。終いには自分だけが空回りしているような気にもなり、結局山瀬は一方的な親友宣言に続き、今回も山田の大雑把且つ手の着けようのない勢いに流されることになったのだ。

 山瀬にとって、新しい学校で行われる初めての中間試験の結果はまずまずだった。

 試験の平均点は全学年共に藤原由比子と想定していた数値に限りなく近く、俗に『引っかけ問題』と呼ばれる問題にも程良い人数の生徒が躓き、けれど授業さえ真面目に聞いていれば楽に回答できる問題は大部分の生徒が正解しているため、極端に低い点数の者は数える程しかない。

「うん、いいんじゃないかな。山瀬先生の担当してる生徒3人と、私の担当の4人に補習か何かしましょうか。それで今回の間違いに気がつけたら、習熟度の遅れはある程度挽回できるやろし」
藤原は中間試験の結果を見ながら言った。

「プリントを作って、放課後に1時間くらい時間を割けばいいですか?」

「それで、ええと思います。問題点ははっきりしてるんやし、その分だけ効率も良さそうやし。生徒らも内容覚えてる、5月中にやるようにしましょか。三年生は6月に入ったらすぐに修学旅行に行くし、帰ったらじきに期末試験になって、その後は夏休みやし」
「あ、そうか。じゃぁ、急いで補習をやってしまいます」

と、山瀬が答えて、中間テストの反省会のような今後の指導方針の打ち合わせのようなものは終わった。

 

 補習用プリントの資料を探すため、山瀬が図書室に行くと、先客がいた。

 この中学の図書室は原則として生徒と教職員以外の関係者は立ち入り禁止となっている。しかし川辺だけはどういうわけか特例として出入りが黙認されていた。仕事が早々に終わった時などは、図書委員の学生よりも早く入室していることもあって、今や図書室の主のように扱われているのだという。

「お、センセ。お疲れさん」

金色の髪の本の虫が、閲覧用の机に両足を乗せたまま振り返る。

「川辺さん、行儀悪いですよ。生徒が真似すると困りますから、きちんと座ってください」

「へぇ、へぇ。山瀬センセは俺に小言しか言わへんから、かなわんわ」

文句を言いながらも素直に座り直すと、川辺は人の悪い笑顔を浮かべた。

「そういうたら、あちこちで聞いてんけど。センセー、この間、山ちゃんと同伴出勤したんやて? いつの間に二人が出来上がったんやて、俺、質問攻めにおうてんで」

「川辺さんまで、勘弁してくださいよ。中間テストの準備を手伝って、遅くなって山田先生のアパートに泊めてもらって、それで一緒に登校しただけです」

「嘘、泊まったん? 山ちゃんのアパートに?」

大袈裟に驚いてみせる川辺を呆れた顔で眺めながら、山瀬は目的の書架に向かう。

「泊まったっていっても、男同士なんだから問題はないでしょう?」

「けど山ちゃんの布団はデカイから、男二人でもゆっくり寝られるで。間違いでもあったら……」

「何を、どう間違うんですか、僕と山田先生で。僕は寝袋を借りました。さすがにあれを二人で使うのは無理ですよ」

「そんなん、どないとでもなるやん」

「どうにもなりませんよ、男なんですから、二人とも」

「けど最近はそんなん流行ってるやん。バイセクシャルとかニューハーフとか」

 あからさまに同伴出勤の噂を面白がっている川辺に取り合わず、山瀬は目当ての本を求めて、整然と並んだ背表紙に視線を走らせた。

「何、探してんのん?」

「中間テストの補修用のテキストの資料ですよ。森鴎外の作品をいくつか使おうと思って……」

「試験に出たのは『高瀬舟』? やたら辛気くさい話で、中坊の時はようわからん話やったな」

「中学で一度読んで、大学に入ってからも一度。それから授業で扱うことになってもう一度読むことになったんですけど、読む度に印象が変わりますね」

「そら、歳とった証拠やな」

川辺が小さな声で笑った。

「あんなもん、中学生にわかる筈ないで。テーマがあんまり重たすぎるわ。せやのに読ませるんは、歳食ってからもっかい読めっちゅーことなんかな」

「かもしれません。でも、もう一度読む人は、教師や国文学者や作家以外では珍しいでしょうね……そう考えると、川辺さんはやっぱり変わり者みたいだ」

 やっぱりというのはどういう意味だと川辺は戯けた調子で憤慨してみせ、それから山瀬を夕食に誘った。山瀬は川辺の誘いを快諾し、いつものように理科準備室にこもったきりの山田に声をかけるために図書室を出た。

 

◇◇◇

 

 理科準備室では部屋の主が、積み上げられた資料と標本に埋もれるようにして椅子に落ち着いている。相当機嫌が良いらしい、こみ上げる笑いが止められないというような表情で迎えられた山瀬は、不覚にも驚いてしまった。

「どうしたんですか?」

「え、何? 俺、ヘンですか?」

「ニヤニヤ笑ってて、気持ち悪いですよ」

嬉しいことがあったのだから仕方がないと言ってから、山田は山瀬を手招きした。

「ほら、試験の平均点がほぼ50点。しかも用意した引っかけ問題に全員見事に引っかかってくれて、もう、ウハウハ」

「全員が?」

 山田が言うには毎年、試験には山田なりに趣向を凝らした引っかけ問題を混ぜているのだという。しかし、誰か一人くらいはトンチを利かせたり発想の転換をしたり、時には当てずっぽうで正解を出すので、ここ数年の試験問題はいかに完璧な引っかけ問題を出すかに全力を注いでいるのだと、その野望がようやく達成されたのだと誇らしげに山田は語った。

「悪趣味ですよ、山田先生」

つい、窘めるような口調で山瀬が言った。

「悪趣味ちゃいますよ、センセー。これは知的なゲームです。アイツらと俺と、どっちの知恵がよう回るかの真剣勝負。それにね、センセー。理系は暗記ものに思われがちやけど、暗記したものを自分の好きな方向に応用したり、ほんのちょびっとだけ違う方向から物事を捉えたりする柔軟な発想が必要で、そんなもんは実験とか授業とかで教えよう、身に着けようと思てもでけへんのです。試験の時だけ、点数がかかってる時だけ、自力で考えるようにしたらなアイツらマジにならへんので、しゃーなしにやってるんですよ、俺は」

「その主張、とりあえず信じておきます」

と、山瀬は熱弁を振るう山田に笑いかけた。そして川辺の来訪を告げて、二人は理科準備室を後にした。

 

◇◇◇

 

 川辺の昔馴染みが営んでいる居酒屋で、川辺は引っかけ問題作成に全力を注いでいる山田を情け容赦なく攻撃した。不良学生を絵に描いたような学校生活を送っていた川辺にとって教師は天敵以外の何ものでもなく、試験は宿命の敵に付け入る隙を与える格好の機会となるため、彼は試験全般に対して悪い印象しか持っていないのだ。教科書に沿った内容の出題であっても手も足も出ないというのに、その上に引っかけ問題まで出されてはかなわないと、川辺はまくし立てる。

「んなこと言うたかて、教科書通りの試験問題は作ってる方も飽きるねんて。こう、ちょっと目先の変わったことしやんと、毎年同じことの繰り返しで面白ろないんやよ、俺らも」

「そらわからんでもない。けどな、全員が答えられへん問題はアカンで」

「や、ちょっと考えたらわかんねん。普通の言い回しを変えただけやし、山瀬先生に添削してもろて、意味は通じるてお墨付きももうたんやし、問題ないて」

「山瀬センセーもグルやったんか!!」

「いえ、僕は善意の第三者です」

川辺と山田の応酬を笑いながら眺めていた山瀬が涼しい顔で答えると、山田は絶望的な表情を浮かべ、川辺は鬼の首を取ったかのような得意顔になる。

「てことは、やっぱりお前一人が悪者やんけ! 来い!! 正義の味方の川辺マンが成敗してくれるわ!!」

「うわ、マジ、やめれて」

 川辺が大袈裟な身振りで山田にヘッドロックをかけ、山田は笑いながら軽く応戦した。店主が山瀬に川辺を止めなくていいのかと問うたが、山瀬は中間試験が無事に終わったからいいのだと答えてみた。店主は山瀬の答えに納得したらしく、サービスだと言って小鉢を山瀬に手渡してくれる。それを見た山田は山瀬を薄情者と言い、店主を人でなしと言った。川辺は天誅だと笑って山田の左右のこめかみに拳をグリグリと押しつけている。

 中学生か小学生ようにじゃれ合う二人を肴に、山瀬は居酒屋の店主と杯を重ねた。とても良い気分だった。


 中間テストの補習が終わってすぐに、三年生達は修学旅行に出かけた。

 理科担当の教師が山田一人だったことから、また新任教師の山瀬は周囲の配慮から、二人は揃って修学旅行の同行者から外された。山田はそれをひどく残念がっていたのだが、立ち寄り先の一つに選ばれていた鍾乳洞に行き損ねたのが理由だと知った山田は、あまりにも暢気すぎる山田に心底呆れた。そう言うと山田は鍾乳石がいかに貴重なものであるか、その生成や成長過程のすばらしさについて、専門用語をふんだんに使った解説を長々と山瀬にしてみせるのだが、理系分野に関してはごく一般的な知識しか持ち合わせていない山瀬には、その半分も理解できない。

 出会いからの数ヵ月を経て、既に山田に対する遠慮や社交辞令といったものを全て捨ててしまっている山瀬は、そう、山田に訴えたりもしたのだが、山田は一度掴んだペースと会話の主導権を決して離そうとせず、更に山瀬を呆れさせた。

 大阪に来たばかりの頃、山瀬は大阪の地域性とも言えるこの押しの強さに驚き、時に辟易したものだが、失礼にならない程度のやり過ごし方を覚えたこの頃では、さほど苦にならない。それに生徒達の保護者──学校に出入りする母親達に比べれば、山田のマシンガントークは実に可愛らしいと思える範疇に入るため、また山瀬が山田の言葉を聞き逃しても気まずい雰囲気にはならないため、気楽に話に付き合うことも、その言葉尻を捉えてからかってみたり、慌てさせたりできるようになってさえいる。

 そんなことに気づいた頃には既に期末試験や一学期の評価などに追われ、慌ただしい日々を送っているうちに夏休みになり、ごく一般的な学校では考えられない、全校生徒が約200名、職員が20数名の小さな規模だからこそできる日直と、夏休みだけ行われる宿直シフトのお陰で、既婚の同僚や先輩達よりも数日長い休暇を確保した山瀬と山田は、社会人としては比較的優雅な夏を過ごした言える。既婚者がどうしても休みたいと主張する盆を中心とした数日と、彼らが家庭サービスに努める何日かに宿直と日直を務めたご褒美にとプラスされた2〜3日の休暇は、山瀬にとってはゆっくりと読書にふけることのできる貴重な休養ともなった。

 7月の終わりには山田に付き合い、山瀬は初めてペルセウス座流星群を見た。郊外と呼ばれる地域からも遠い地域故、学校の周辺地域の夜は本当の闇に包まれるため、この学校では毎年、ペルセウス座流星群の観測を行っており、山田も先任の理科教師から引き継ぐ形で観測を続けているのだという。途中からは冷たいビールを下げた川辺が加わり、流星の観測こそきちんと行ったものの、普段の飲み会と変わらない賑やかな集まりになった。校舎の屋上で、古い毛布にくるまりながら迎えた山の朝は心地よい冷たさで山瀬の頬を包んだ。男三人で見た朝焼けはお世辞にもロマンティックだとは言えなかった。けれど夏の薄い霧で微かに霞む紅い太陽が昇る様を見たことは、山瀬の中でこの夏の印象的な出来事の一つとして残っている。

 

◇◇◇

 

 二学期の始業式を終え、夏休みの部活動をはじめとする各種報告会を兼ねた職員会議が始まった。議題は夏休みの報告が終わり、二学期の校内行事の基本的な確認が行われる。

「というように、二学期最初の校内行事は例年通り運動会となっています。幼稚園、小学校との調整・連絡係は山田先生、それから山瀬先生にお願いします」

「はい、わかりました」

教頭の言葉に、山田は元気よく答えた。

「山田先生は去年、一人でやってはったから、わからんことは山田先生に訊いてください」

と、教頭は山瀬に言う。幼稚園と小学校との調整・連絡係という役割の見当がつかない山瀬は、誰にともなく問うた。

「あの……幼稚園や小学校との調整・連絡っていうのは、何をするんですか? 中学校の運動会に関係があるとは思えないんですが……」

「ああ、山瀬先生はここの運動会、初めてでしたね。ここはね、幼稚園も小学校も中学校も一学年に2クラスしかないし、生徒数もしれてるし、父兄も8割方かぶってるさかいに、運動会は幼小中合同でやりますねん。その方が生徒も練習するモンが少なぁて楽やし、保護者も弁当の用意が一回で済むからねぇ」

「この辺一帯、祭りみたいな騒ぎになりますねんよ。会場になる小学校の門の辺りにはテキ屋が露店出しよるし」

「ちっこい幼稚園生やら小学生やら、クソ生意気な中学生までおるさかい、出し物にもバラエティーあって、なかなか賑やかでおもろいんですわ。園児から中学三年生までの子供やら生徒やらが出る町対抗リレーなんか、滅多に見られるもんとちゃいますよ」

教師らの言葉を聞いても、山瀬にはその様子が今ひとつ掴めず困惑する。すると山田が人の良さを絵に描いたような笑顔を浮かべ、

「俺に任せてくださいて。悪いようには絶対しませんから、山瀬センセは大船に乗った気持ちで楽にしてくれはったらええんです」

と言う。山瀬はそうですねと答え、当たり障りのない笑顔で山田に応えた。けれど山瀬が乗る筈の船の船頭が、おそらくは今ひとつ頼りにならないであろうことを経験から学んでいた山瀬の心に不安がよぎる。そして山瀬の沈黙と笑顔を快諾の証拠だと捉えた職員達は、山瀬の思惑など全く知らないで、職員会議を続けたのだった。

 

◇◇◇

 

 二学期が始まって初めての土曜日の放課後、山田と山瀬は幼少中合同運動会の打ち合わせのため、小学校に向かった。

 山田の方に手をかけたままバイクから降りた山瀬は、素朴な造りの木造校舎を見上げた。何かの写真やニュースなどで見かけたことしかない木造の建物が珍しく、山瀬は校舎につい見入ってしまっていたようだった。

「センセ、気に入りはりましたん?」

「珍しいですよね、今時」

呼びかける山田に答えて山瀬は、校舎の中央にある時計を指さす。

「あの時計もレトロな雰囲気で、いいですよね」

「レトロっちゅーより、マジで古いんですよ、ここの校舎。戦前の建物らしいです。田舎やから空襲もなかって焼け残って、だいぶ前にいっぺん、鉄筋校舎に建て直すとかいう話も持ち上がったらしいねんけど、市内に残ってる戦前の最後の木造校舎やとか何とかで、結局補修して残すことになったとか、べーやんが……」

「川辺さんが?」

「基礎の補強を、川辺興業でやったらしいですよ。入札資格にここの卒業生やとか何とかで、ここらの工務店やら左官屋やら建具屋やらが総出で補修したとかで、まぁ、母校の手入れするっちゅうんと、ガキの頃から知ってるヤツらに負けてたまるかとか思たりして、結局、入札価格の割にはええ仕事になったとか言うて、アイツ、自慢してよった」

「へぇ、いいお話ですねぇ」

新興住宅地の出身の自分には考えられないことだと山瀬が言うと、山田はおおらかな笑顔を浮かべた。

「田舎には田舎の邪魔くさいこともあるさかい、どっちがどっちとかは言えらへんのやろけど、こういうのはある程度の歳になったらええようになるんかもしれませんねぇ」

 どこか独り言めいたことを言う山田の表情はどこか寂しげに感じられ、それが妙な違和感として山瀬の胸に残る。そんな山瀬の気持ちを知ってか知らずか、山田が山瀬の方を見た時には既に先刻の、普段の山田らしからぬ表情の気配さえない。

「さ、行きましょか。先生ら待たせたら、申し訳ないし」

山田は笑いながら言い、先に立って正面玄関へと歩いていく。


 山瀬はほんの一瞬だけ垣間見た山田の表情をその背中に探してみたが無駄だった。バカみたいに明るいだけではない、迷い子のような瞳の山田はどこにもいない。けれどどこかに、必ず幼い山田がいる。そんな根拠など全くない確信を胸に、山瀬は山田の後に続く。とりあえず、今果たすべき責任を全うするために。

 何もかもが中学校よりも一回り小さく造られている正面玄関を抜け、来客用のスリッパを突っかけて職員室に入った山瀬と山田を迎えたのは、三人の女性達だった。快活そうな表情が印象的なショートカットの田中由紀は幼稚園の保育士代表。いかにも教師といった風情の藤原紀子は小振りの眼鏡が知的な雰囲気を強めていて、二人の後ろに隠れるように佇んでいる北川美由紀はおそらく、人見知りする傾向が強いのだろう。一瞬だけ山瀬と視線を合わせたきり俯いている。少しずつ打ち解けるタイプなのだろうけれど、攻撃的な保護者を相手にしたならきっと泣き出してしまうように感じられ、それでは教師としての苦労も多いだろうと、山瀬は北川にやや同情的な印象を持った。他の二人は出しゃばりには感じない程度に積極的で、そのあたりの雰囲気は山瀬の姉妹とさほど変わらないように思われ、一緒に雑用をこなす分には問題はないだろうとの判断を下す。そうして山瀬は世間話に適宜、相づちを打ちながら、山瀬を覗く経験者のリードに大部分を任せながら幼少中合同運動会の打ち合わせに参加した。

 真鍮色に光る薬缶から注いだ冷たい麦茶を勧めながら

「今年、幼稚園では組体操をするんですよ」

と、田中が言った。

「コンビネーションとか、ピラミッドとか、中学の男子がやる、アレですか?」

「さすがに、中学生ほどの大業はでけへんのですけど」

感心してみせた山田に、田中が笑いながら答える。すぐ後で藤原が横合いから口を出し

「あの年頃は何やかんやいうて、お兄ちゃん、お姉ちゃんのマネをしたがるさかいに。一年生達が幼稚園の話を聞いてやりたいって言い出して。けど男女混合の組体操とダンスのコンビネーションを3・4年生がやるのは大分前に決まってたから、一年生は遠慮してほしいって話になったんです。そしたら一年生がエライ拗ねてしもて、皆を宥めるのに、担任の先生らが無茶苦茶苦労してはりましたよ」

「いっそのこと、1年生から4年生までが一緒にやったらええのに」

「1年生と4年生の体格が違いすぎてバランスがとれへんから、あきませんよ。バランスとって4学年混合にしたとして、今度は練習時間の調整に手間暇かかるし、練習にかかる時間とかも1年生と4年生やったら差があり過ぎるでしょう。それに小学生は生まれ月とか個人差が大きいから、3年生と4年生でもどうかと思う時があるくらいで」

「特に低学年は早生まれの子ぉとか、しんどいですよね。中学生でも成長に差はあるけど、小学生ほどとちゃうし、3年生よりデカイ1年生もいてるし」

「1年生の保護者から苦情とか、抗議はなかったんですか?」

田中と山田、藤原の会話に山瀬が乗り出すと、三人は申し合わせたように笑った。

「この辺の保護者は物わかりがええさかい、授業の進行とか普段の安全とか、そんなん以外にクチ出すことは、まぁ、あらしませんね」

「え……」

「ここらは良ぉも悪ぅも田舎で、家族意識とか仲間意識とか強いんですよ。学校と地域のつながりも市内の他の学校やら学区らとは比べもんにならへんくらい強いし、それがええ感じで続いてて、せやからムチャなことを言う人が何人かおったとしても、誰かがどっかで釘刺したりしてくれるんで、運動会の出し物がどうこう言う、1年生のワガママが無理から通るようなことは、まぁ通用せぇへんし。けど、保護者が結託したらどないもならへんくらい頑丈な一枚岩になるから、手も足も出ぇへんことになるんです」

「おまけにこの辺は元気な年寄りが多いから、若いお母さんらがムチャ言うても暴走するようなことはないし、オバチャン世代がものすごいからねぇ」

道理さえ通っている話であれば、まず心配はないのだと山田と田中と藤原が笑い、その隣でひっそりと北川が微笑んだ。そして山瀬は日本で二番目に大きな都市と言われる大阪も、都心から離れると随分牧歌的になるものなのだと改めて感心し、取り敢えずは賑やかであることは間違いなさそうな、運動会に思いを馳せた。

 

◇◇◇

 

 運動会の連絡係の初会合はこともなく進められ、その後、懇親会を兼ねた早い夕食を摂りに彼らは駅前の居酒屋へと繰り出した。バイクに乗るからと山田がアルコールを一滴も口にしなかったため、山瀬がバスと電車で通勤している女性三人の酒の相手をしたのだが、第一印象を裏切るほどに田中は酒に弱く、チューハイを半分ほど飲んだあたりで既に顔を真っ赤にしている。藤原と北川はマイペースを守っているが、二人とも結構いける口らしく、決して酒には弱くない山瀬と同じほど飲んでも崩れることがない。その堂々とした飲みっぷりを山田が褒めると、藤原は陽気に、北川は“楚々とした”という言葉が相応しい様子で笑っていた。

 姉と妹に囲まれた家庭環境が磨いた人畜無害な人当たりの良さを発揮した山瀬は女性陣から概ね歓迎されたようで、山田はというと駅前の駐輪場で山瀬のそつのない態度に、しきりに感心してみせた。山瀬にしてみれば、初対面の人間にさえ臆することなくうち解けられる山田の方が、よほど良好な人間関係の構築には長けていると感じている。しかし山田は自分は単なるお節介でしかないと笑う。

「べーやんにも、そない言われるし」

「川辺さんは仕事柄、人と接するのが得意そうですね」

「べーやんは族を仕切ってたくらいやし、今も自分の会社で若い衆仕切って、エエ歳した余所の社長と渡り合うてるくらいやから、人付き合いにソツはないやろとっちゅーか、ソツがあったら社長なんかやってられへんかもしれへんですね」

「そうか、川辺さん、社長さんだったんですよね。いつもラフな感じだから、つい忘れてしまって……」

「そう、マッキンキンの頭でも社長」

山田の戯けた口調に、二人でひとしきり笑ってから、思い出したように山田が言った。

「べーやん、今年も運動会に飛び入り参加するかもしれへんな」

「え……卒業生も参加できるんですか?」

「べーやんトコの若い衆の子供が一人一年坊主で、確か今年もう一人、幼稚園生になったとか、前に言うてたから」

「川辺さんの会社の社員の子供達が運動会に参加したからって、川辺さん本人には関係ないでしょう?」

「あのお祭り騒ぎ大好き男が、こんなチャンス逃す筈があらしませんて。去年は紋付袴と高下駄、長いはちまき巻いて両手に扇子持って私設応援団で目立ちまくってたんです。ほんで社員全員で、どこぞの応援団顔負けの応援を一日中やらかして皆様の好評を博した揚げ句、急遽でっちあげられた教員特別賞を引っさらっていったという……」

「それ、副賞あるんですか?」

「ノート1冊と鉛筆2本のセットを、社員全員でもろてました。ノートとかは皆が会社で使う業務日誌にしてましたよ。それから小学校の生徒らが後から表彰状を届けてくれたとかで、あそこの事務所の一番目立つ場所に、子供らが作った賞状が揚げてあるんです」

去年の盛り上がりを考えれば、社員の子供達が全員、義務教育を終えるまで川辺興業の応援は続くだろうと山田は断言した。その言葉に同意した山瀬は是非とも、校長から表彰状を受け取る川辺の畏まった顔を見てみたいと山田に告げる。すると山田は子供のような表情で一つの賭を持ち出した。山瀬はあまりにも他愛ないその賭に一も二もなく乗ったのである。


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