彼らの隠れ家 4


熱々のお好み焼きを食べながら、よく冷えたビールを飲みながら、日々の取るに足りないような話題に二人が興じていた時、山田の部屋の電話が鳴った。

「なんや、べーやんか。今、お好みしてんねん。ビール持って、これからけーへんか? 山瀬先生もいてるさかい、他につまみも買うてきてくれ……イカとブタと、それからそばもあるさかい、ミックスモダン、食わしたるで」

応対している山田の言葉から、受話器の向こうにいるのが川辺良史だと知れた。

◇◇◇

 山瀬がこちらに赴任して間もなくの頃、学校の卒業生だと名乗る父親が本のぎっしり詰まった段ボール箱をいくつか職員室に持ち込み、図書室に寄贈すると言い出したことがある。その時、山瀬以外の国語科の教師全員が出払っていたため、山瀬は荒々しい、いかにも職人といった風情の壮年の男と段ボールを図書室に持ち込んだ。男が帰った後、段ボールを開いた山瀬は何度も読み込まれたことが一目瞭然の、けれど大切にされていたことが伝わる大量の本を、このまま引き取っていいものか思案したものだった。

 特に地質学や土木建築に関する専門書などは未だに新しい付箋が残され、中には頻繁に使っていたことから破れてしまった背表紙が、できるだけ似た質感と色の製本テープで丁寧に補修されているのを目にした時、山瀬はつい先刻まで貴重な蔵書を大切にしていた持ち主に強い共感さえ覚えてしまい、本の整理などそっちのけで山瀬が知る何人かの著者を通じて、顔も知らない、どこの誰ともつかない本の持ち主と時間を共有したような気分さえ覚えた。それ故、本の寄贈は断るべきであり、持ち込まれた本は本来の居場所に返そうと考えた時、憤りを全身に纏った川辺が図書室に飛び込んできたのだ。

 川辺は段ボールを前にした山瀬を見るなり、彼を盗人呼ばわりした。初対面の人間から罵詈雑言を浴びせられた山瀬は珍しく声を荒げて応戦し、二人の間には極めて険悪な空気が流れたのだが、大声を聞きつけてやってきた山田がその場の空気を和やかにしてくれたことは、かなり印象的に山瀬の記憶に残っている。川辺からよくよく話を聞けば、仕事が原因で始まったちょっとした言い争いが口論となり、終いには互いに引くに引けない親子喧嘩に発展したのだという。その時、電話で川辺が仕事の打ち合わせに呼び出されたのをこれ幸いといった具合に、川辺の父親が川辺が大切にしていた本を手当たり次第に段ボールに詰め込み、図書室に捨てに来たというのが、ことの顛末だった。

 本の補修跡を示しながら山瀬が、川辺が本を本当に大切にしているのが嬉しかったと言った時、川辺は一瞬目を大きく見開き、それから子供のように顔をくしゃくしゃにして笑った。そして川辺は自分にそんなことを言ったのは、山瀬が初めてだという。中学の頃から母校だけでなく、市内の中学や高校にさえ乱暴者として名の通っていた川辺は過去の経歴から、またその風貌から本など手にしたことがないと思われていることが多い。

『この俺様に面と向かってそんなこと言うのん、あんたが初めてや』

川辺は小柄な体躯には不似合いなほどにがっしりとした手で握手を求めてきた時、山瀬も悪びれることなく

『最初に本人を見たら、多分、他の人と同じだったと思いますよ』

と、答えてみた。すると川辺は山瀬の肩を好ましい力加減で叩き、

『キレーな顔して、よう言うてくれるな。あんた、気に入ったで。今日から俺とマブダチや』

と、心底愉快そうな口調で言った。

◇◇◇

 人の心を掴むのが上手い川辺は同性だけでなく、異性にも人気がある。何度か三人で呑みに出かけたことがあったが、居酒屋やスナックに向かう道すがら、殆ど絶え間なく川辺と川辺の同行者の二人に声がかかった。それは彼ら同様、仕事帰りの女性のグループだったり、華やかな化粧と衣装で武装した夜の仕事の女達だったりもしたが、誰もが川辺に親しげな言葉を投げかける。そして川辺も第三者が聞けば際どいものに感じるような遣り取りを、まるで楽しむような風情で続けていた。本気とも、冗談ともとれない誘い言葉を受け取る口上のいくつかに、山瀬は川辺の人並みを遙かに上回る読書量を思う。その中のいくつかは典雅な古典の中に描かれていた恋人達の遣り取りや、今では既に古典のように扱われている文学作品の一節から引用されていることがある。いつだったか、それを山瀬に指摘された川辺は不敵な微笑みを口元に浮かべた。その後はいつも山瀬と川辺が共有する物語の世界へと迷い込むのが常でもあった。そうなると山田は山瀬と川辺の話に全くついていけなくなり、山田らしい率直な言葉と態度で会話に割り込もうとする。それを無粋だと川辺は山田を責め、山田は子供じみた素振りで彼を仲間はずれにする川辺と山瀬にふてくされて見せ、山瀬は山田を宥めながら新しい話題を提供し、そんな川辺を山瀬は人が好いにも程があると溜め息をつく。

 笑い声の中で繰り返される、新しい友人達と過ごすひとときは思いの外楽しいもので、山瀬はこの夜も川辺の到着を心待ちにし、川辺の噂話に花を咲かせながらキャベツを刻む山田の手伝いなどをしていた。

 「よう、貧乏公務員。飽きもせんとまた、雁首揃えてんかいな」

インターホンも鳴らさずに川辺が部屋のドアを開けた。土産だと言いながらビールの入った白い袋を示し、まるで自分の家にいるかのような態度で山田の冷蔵庫を開け、ビールを放り込む姿に、山田と山瀬は苦笑を浮かべる。

「しかしホンマに、べーやんだけは社長に見えへんなぁ。色黒いし、頭マッキンキンやし、なんか最近、ますますガラが悪なってんで」

「しゃーないやろ、毎日現場に出てんねんから、焼けんな言うほうがムチャクチャや」

「土方焼けはしゃーないとしても、その頭。遠目から現場にいてんの見てたら、誰が社長やわからへんで」

「アホ、金髪は俺だけや。間違われへんように、他の連中は他の色にしとけて言うてる」

「ああ、それで川辺君の会社には緑色とかピンクに髪を染めてる人がいるんですか」

「いくら金髪ちゃう言うても、俺より派手な頭にしよって、どない思う? 山瀬せんせー」

「いいんじゃないですか、自由な社風で。若い人が多いから、あんまり窮屈だと可哀想ですよ」

「いや、そうやなくて。俺より派手な頭っちゅーとこが、ちょっと生意気やないかと……」

「あれのどこが生意気やねん。べーやん、あの時分には手ぇつけられへんクソガキで、このへんでブイブイ言わせてたクセに、よー言うわ。あちこちで武勇伝やら何やら、よう聞かされんで」

「ウドの大木は黙ってい。ああ、それより腹減った。はよ、食わしてくれ」

 川辺が有無を言わさぬ強引さで話の腰を折って卓袱台の前に腰を下ろすと、山田は呆れながらも見事な手際でミックスモダン焼きを作り始める。焼き上がるのが待ちきれない川辺は持参したもう一つのコンビニの袋からウインナーを出して、ホットプレートの上にざらざらとあけ、いくつかは冷たいまま口の中に放り込む。山田も負けじとウインナーを肴に冷たいビールを一気に飲み干した。

 二枚のお好み焼きをぺろりと平らげ、3枚目を半ば食べ終えた頃にようやく人心地ついたのか、川辺が思い出したような口調で

「そういや、今年の連休はどないすんの」

と、山瀬と山田に問う。

「俺らは暦通りやから、そんな遠出はでけへんなぁ」

山田が同意を求めるように山瀬を見る。

「日帰りか……一泊程度の小旅行がやっとってとこでしょうね」

その言葉を聞いた途端、川辺の瞳が子供のように輝いた。

「ほな、三人でキャンプ行かへんか。こないだ現場に行く途中で、ええとこ見つけてん」

「キャンプ場は混んでるし、今から予約しても一杯とちゃうん?」

「そこ、キャンプ場とちゃうねん。今は使こてない採石場の跡地でな、すぐ前が河原でロケーションはバッチグー」

「アホ言うな。川の端でテント張るのんはアカンで。上のほうで雨とか降って鉄砲水でも出たらどないすんねん」

「飯盒炊爨(はんごうすいさん)できるくらい川の水がキレイやから、飯だけそこで食うことにしてやな、テントを張るんは採石場の事務所の跡にしたらええやん」

「せやけど、そこ私有地やろ? そんなとこで寝てんの誰かに見つかったら、不法侵入で警察に捕まるで。俺ら公務員やから、後ろに手ぇ回ったらエライことになるしなぁ」

「この俺様が、そんなアホなことすると思てんのかいな。そこの採石場のおやっさんとは顔馴染みでな、話したらいつでも使えて言うてくれたで」

「それを早よう言うてくれや。ほな、話は決まりやな」

口を挟む余地もないほどの速さで進められる山田と川辺の会話についていけなかった山瀬だったが、二人が同意を求めるようにして彼を見た一瞬の間に

「あの、僕は今回、京都と奈良のほうを観光しようかと思ってるんで……」

とだけ言った。すると川辺は恨みがましそうに

「いっつも観光客のおる京都や奈良やで? 連休中はもっとようけ人が来んねんで? 寺や仏さん拝みに行くつもりが、人の頭拝むことになってまうのん決まってんのに……」

と言う。それでも楽しみにしていたのでと山瀬が断ろうとすると、

「べーやん、そこの採石場てどこにあんのんな」

と山田が川辺に訪ね、すかさず川辺から大阪と奈良の県境付近、国道を少し入ったところだという答が返る。

「ほな、そこを拠点にして京都と奈良に行ったらええやん。どっちも小一時間で行けるで」

少しばかり思案した後、山田が言った。

 そして山瀬の静かで優雅なはずの連休は、個性的な友人のために実に賑やかなものになったのであった。

◇◇◇

 すっかり遅くまで話し込んだ三人は結局、山田の部屋に泊まることになった。川辺と山瀬は山田が普段使っている布団に、山田は学生時代から愛用している寝袋で眠ることになったのだが、大柄な山田の布団は小柄な川辺と並んで寝ても余裕があり、山瀬は窮屈な思いをせずに済んだ。そして眠りと覚醒の狭間で山瀬は、理科準備室に漂う薬品や標本のものとは異なる、そして今日の放課後、山田のロッカーを開けた時に鼻腔を刺激した匂いを見つけた。


ゴールデンウィークが明けた校内は、休み明け特有の浮かれた気分に大部分が占められていた。しかし目前に控えた中間テストのため、ぎこちなさにも似た緊張感も感じられる。中でも進学を控えた三年生と、試験問題の作成に取りかかり始めた教師達は皆、どこか落ち着かない日々を送っていると言ってもいい。特に山瀬は赴任してから初めての定期試験ということもあってか、妙に浮き足立っている自分自身を感じていた。

足音が充分に遠ざかるのを確かめてから、山瀬は全身を思う存分に伸ばして深呼吸をした。1日の授業を終えてすぐ、山瀬は彼と同じ国語科の教師と共に中間試験の問題の最終的な打ち合わせを行っていたのだ。およそ2時間続いた緊張をゆっくりとほぐしながら、山瀬は間もなく始まる今年度初の定期試験に思いを馳せてみる。

以前、山瀬が働いていた学校には1学年に6つのクラスがあった。全学年を合わせると18クラス。当然、今いる中学の約3倍の教職員がいて、各教科ごとに専用の準備室が用意されているほか、教職員専用の更衣室も完備され、実習室や実験室なども充分に整えられていた。当時はそれが当然だと思っていた山瀬だったが、この地に移ってきてからは以前は随分と恵まれていたのではないかと思うようになっている。何しろこの中学は規模が小さいために家庭科と理科、音楽と美術以外の教科では専用教室どころか準備室さえなく、4つの教科以外を担当している教師達は、試験の準備や試験問題などの打ち合わせに図書室や職員室、応接室を交代で使っているような有様なのだ。しかも国語科の教師は山瀬の他に一人の女性教師がいるだけで、全学年の試験問題を全て二人で作成せねばならない。そして、それは予想していたよりも遙かに大変な作業だった。

山瀬がこれまでに経験してきた定期試験において、彼は常に先輩でもあるベテラン教師陣の補助的な役割を果たしてきた。もちろん、今回も職場でのパートナーであるベテラン国語教師――名を藤原由比子という――がリーダー的役割を果たしてくれてはいたが、作成する設問の分量や試験用紙の準備は同じで、中には試験結果を左右するほどの大きな設問を割り当てられたため、山瀬は常ならぬ緊張を覚えることになったわけだ。しかし赴任直後の試験で、責任ある仕事を任されるのは嬉しくもあった。以前のように若いから、経験が浅いからとベテラン勢から軽んじられるのは――それが例え事実であり、仕方がないことだとしてもやるせない。そんな経験が良い問題を作ろうという気負いにつながってしまっているのを感じながら、山瀬は小さくなる先輩教師の足音に耳を傾けていた。

チャイムが下校時間を報せたのを機に、山瀬はテーブルに広げたままの資料を集めると、図書室の隅にある、誰からも忘れられているような書架に向かう。そこにはまだ山瀬が読書の楽しみを知らなかった頃に出版された本が並んでいる。背表紙に添付された図書カードの記録で知った、誰の手にも取られたことのない本の一群を見つけて以来、この一角にある図書を読むのが彼の楽しみの一つになっていた。山瀬の年齢から考えれば子どもっぽい内容のものが多い上、ジャンルが一定しておらず、中にはどうにも退屈な本もある。普段の山瀬であればきっと、退屈だと感じた物語を最後まで読むことはなかっただろう。実際、つまらないとしか思えない本を読了するのは時間の無駄だと以前の山瀬は考えていたし、そんな時には物語のほんの序盤だろうが躊躇なく、違う本を手にしていた。しかし何故か、今はその退屈ささえ楽しんでいる自分がいる。そんな自身の思いがけない変化が山瀬には不思議に感じられると共に、興味深く思えたのだ。

山瀬は色褪せた背表紙をしばらく眺めた後、1冊の本を手に取った。

とうの昔に鬼籍に入った作家の短編集。学生時代、退屈極まりなかった国語の授業に精彩を与えてくれた老教師が好んでいた作家の作品の一つとして読んだことがあったが、当時まだ十代だった山瀬には何の面白味も感じられず、漫然と活字を追うだけに終始するばかりで、その内容を追求しようと考えたことさえなかった。しかし今なら、文字と文字の隙間やそこここの行間に潜む、インク以外の何かで記されたものを感じ取れるのではないかと思い立ち、再び読んでみることにしたのだ。実際、中学時代に授業や課題図書など、必要に迫られて目にした物語を今、国語の授業を通じ、かつての自分と同じ年頃の生徒達と共に再読する時には、数えきれないほどの発見がある。それを知ってから彼は学生時代に教科書や教本などで読んだことのある物語を見つけると進んで読むようになっていた。

「こんな時間までお仕事とは、ご苦労さんなこって」

開け放していた窓からかけられた声に振り返ると、川辺が窓の桟から室内に入ろうとしていた。

「川辺さん、生徒にそんな真似されちゃ困るんですけど……」

呆れた山瀬が言ったが、

「こんなんするアホ、俺の他に誰がいてんねん」

と、川辺は笑って取り合わない。

「飯、食いに行かへん? 理科準備室の電気が点いてたから、でっかいほうの山ちゃんもいてんねんろ? 晩飯食いに行こう思て誘いに来たんや」

「僕はもう帰るつもりだったからいいんですけど、山田先生はどうかな……ちょっと呼んできましょうか」

「そないしてもらえると、助かるわ。ところでセンセー、何、持ってんの?」

「『夏の葬列』って知ってます? 中学生の時、国語の教科書に載ってたんですよ。懐かしくてもう一度読もうかと思って」

「俺は中学ン時から学校に出たり出ーへんかったりやからなぁ……だいたい、教科書学校に置きっぱなしやったし、昔は本なんか読んだこともなかったからなぁ」

そう言いながら川辺は山瀬の手から本を取り、興味津々といった具合にページを繰り始める。山瀬はそんな川辺を咎めようとはせず、理科準備室に行ってくると声をかけ、図書室を後にした。

◇◇◇

理科準備室では山田が机に向かっていた。

「試験問題ですか」

山瀬が声をかけると、山田は満面に笑みを浮かべて顔を上げる。

「一人で3学年全部の試験問題を作るのは、大変ですね」

「そうでもないですよ。俺、試験問題考えるのん好きやし」

山瀬は改めて山田を見た。山田は椅子に腰掛けたまま、まるでイタズラを思いついた子供のような笑顔で山瀬を見上げている。ベテラン教師の先輩と仕事を分け合っても尚、妙に肩に力が入ってしまう自分とは異なり、常に自然体で物事に臨んでしまえる山田を心底羨ましく思う山瀬だったが、そんなことを気に病んでる余裕などある筈もなく、残された日数の中で最善を尽くすほかないと承知しているからこそ、今は目の前の押し掛け親友の余裕を感じさせる姿など見たこともない風を決め込みむことにして

「川辺さんが夕食を食べようって、来てますよ」

と、図書室に残してきた共通の友人の名を口にした。

「べーやん、最近よう来んなぁ。仕事がヒマなんか、彼女にフラレたんかしたんやろなぁ」

などと楽しげに言いながら席を立つと、山田はすぐに帰ろうと言い出す。山瀬が散らかったままの机を指摘すると山田は悪びれることなく、

「仕事の途中やし、明日また本出すのん邪魔くさいから」

と、笑った。

◇◇◇

「お気楽な学生も、たまにはエライ目ぇにおうたらええねん」

一学期の中間試験の準備が始まったと山瀬が告げると、川辺は人の悪い笑顔でケラケラと笑う。

「俺らが毎日毎日汗水垂らして働いてる時に楽してんねんから、試験の時くらいは世間の厳しさとか人生の試練っちゅーもんを味わってもらわんと、俺ら大人はやってられへんっちゅーもんや」

「何言うてんねん。学生の本分は勉強やで? 試験なんかなんぼのもんやねんな。あって当たり前のもんやん」

「そんなん言えんのは歳とった証拠やで。中坊時分は誰かて、せんでええもんやったら勉強なんかしたないやんけ。まぁ、あんたらみたいに卒業してからも学校に残ろうとか考えるような物好きには、わからんと思うけど」

言いながら川辺はジョッキに半分以上残っていたビールを一気に空けた。山瀬は肉じゃがをつつきながら

「物好きなんて、ひどいなぁ」

と応え、山田はイカの塩焼きを腹に収めながら

「学校におるからゆーても、俺らも仕事やからなぁ」

と、殊更勉強が好きなわけではないと主張した。

「山ちゃん、イカの耳くれ、耳」

山田の返事を待たずに川辺がこんがりと焼かれたイカを一切れ摘むのを眺めながら、

「べーやん、耳とちゃうで、コレ。『えんぺら』や」

と、川辺の言葉の誤用を指摘する。

「耳でええんや、耳で。そのほうがわかりやすいし」

「生体部分の名称を変に覚えたらアカンて。第一、気持ち悪いやろ」

「そんなん、お前だけや。普通に言うたらええもんも、科学用語使こうてわけわからんように言うて煙に巻いてまうヤツが偉そうに……。山瀬センセー知ってます? コイツ、お好みのタネ混ぜる時にわざわざ『撹拌』て言いよんねん、撹拌て。『混ぜる』ですむとこをカッコつけて、わざわざ『撹拌』やて、どう思わはります?」

「しゃーないやろ、クセになってんねん。授業とかでも使うし……」

「けっ、ええ歳してどん臭いやっちゃ」

「山瀬センセー、笑ろてばっかりおらんで、俺のこと助けてくださいよ。俺ら親友ちゃいますん」

首都圏で生まれ育った山瀬には免疫のない、山田と川辺の関西訛りの遣り取りはまるで漫才のように感じられるため、三人でいるとどうしても山瀬は聞き役・笑い役になってしまう。しかし大抵、饒舌な川辺に責められ、旗色が悪くなってしまった山田が助けを求めてくるため、笑ってばかりもいられない。山瀬は笑いながら肉じゃがを平らげてしまうと

「あんまり苛めないでくださいね、川辺さん。山田先生はこれから一人で、全学年分の理科の試験問題を作らなきゃならないんですから」

と、山田に助け船を出してみる。川辺はニヤリと笑い、

「ほな、試験が終わったら好き放題・やりたい放題にしても、かまへんってワケや」

と言う。

「そうですね、僕のほうはそれで問題ありません」

頼りの山瀬がサラリと川辺の台詞を受け流してしまったので、山田は心底がっかりしたと言わんばかりの溜め息をつき、

「山瀬センセー、あんまりや〜。俺、センセーのこと信じてたのに……」

などと言ってテーブルに突っ伏してしまう。無防備になった山田の後頭部には川辺の容赦のない拳が入ったのを皮切りに、二人は無邪気な小競り合いを始めた。


HOME オリジナル創作 彼らの隠れ家 NEXT