彼らの隠れ家 3


隠れ家は快適だった。

雨や風に煩わされることなく、静かな環境で本が読めることは山瀬にとって願ってもないことであったし、隠れ家の主人は第一印象とは異なり、放課後や空き時間に授業や実験の準備をしている時などは、殆ど無言で黙々と作業に没頭していることが多い。時折、何かの確認のためなのか、山瀬の耳に聞き慣れない単語や数量を数える声が聞こえたりする他は、いたって静かだった。

若い独身の居住者の多いワンルームマンションよりも静かな空間を、山瀬は殊の外気に入っており、その提供者である押し掛け親友の山田一郎には社交辞令的なものではない友情を感じるようになってもいる。そんなことを山田に直接伝えるのは躊躇われたため、感謝の印のつもりで山瀬は時折ティーバッグを差し入れるようになった。すぐ上と下の二人の姉妹の影響で、男性にしては菓子や紅茶に詳しくなってしまった山瀬は、山田が珍しがりそうな銘柄のハーブティーなども持参することがある。理科準備室の茶器がビーカーなのを考慮して買い込んだ色鮮やかなハーブティーを煎れてみせた時、山田は心から感心した声を零した後、

「なんか、血尿っぽい、けどずっときれいな色ですやん」

と真顔で言い、山瀬を為す術もなく脱力させるようなことも珍しくない。

しかし次第に山田は常に身近にある薬品や機材などを比喩に用いることが多いことに気づいた山瀬は、実際に山田に例えに使ったものを見せてもらい、口に入れるものに相応しい――少なくとも食事中の雰囲気を損ねない例え方をしてみせたりした。すると山田は山瀬をまるで『詩人』だと手放しで賞賛してみせるのだ。

ごく常識的な人間であれば、いきなり『詩人』だなどと言われようものなら決まりの悪い心地になる――場合によっては馬鹿にされたとさえ思うだろうに、相手が山田となると不思議なことに腹立たしくもなければ面映ゆく感じることもない。それはひたすらに国語表現における山田のボキャブラリーが貧相であることに起因している。

山田の表現力――特に形容詞をはじめとする修飾語の使い方が小学生並なのである。赤いと青い、白いと黒い、大きいと小さいなど、誰の目から見てもはっきりとわかる状態のものであれば問題はない。しかし茶褐色などのように多少曖昧なニュアンスを伴うものとなると○○試薬の変化後の色だとかの、かなり専門的な状態を引き合いに出したり、青緑色の場合は緑青と銅イオンの色を使い分けるといったこだわりを見せる。理系が得意な人間であれば問題はないが、一般にはあまり縁がない試薬だとか水溶液の色を、時には濃度のパーセンテージまで示して説明するのはどうかと山瀬も思いはするが、それはそれで山田らしいと言えた。

山田らしいと言えば休憩をとる前に、紅茶にスライスしたレモンを入れて茶の色の変化を見せたり、牛乳に液状のクエン酸を加えて乳化実験をしたりすることもある。そして、その原理を山瀬に説明してくれるのだが、山瀬にとっては初めて聞くような話ばかりだったので、山田が山瀬の言葉を『文学的表現』だと言う時と同じように、素直に感心と敬意を込めて感想を述べると、

「これ、中学とか高校で習うんですけど……」

と、複雑そうな表情を浮かべた。

「え……そうですか。でも、レモンティーの色が変わるのは珍しくないでしょう」

「レモンのクエン酸でアルカリ性物質を中和するから変色するんです。つまり、これは酸とアルカリの中和実験の日常版なんです。他にもあるんですよ。試薬とはちゃいますけど洗濯の時はアルカリ性の石鹸使うでしょ。アルカリ性溶液は繊維の中にある潤い成分を損なう傾向があるんで、すすぎの時にちょっとだけお酢を入れるんです。そしたら酸が残留アルカリ成分を中和して、乾き上がりがふっくらしっとりするとか、そんな生活の知恵とかねぇ、理科の基礎的な実験で検証したりできるんですよ」

「そうなんですか。知りませんでした」

学生時代から理科が不得手な山瀬としては教科書の内容を追うのが精一杯で、そこまで考える余裕はなかったのだと告げると、山田はポンと手を打ち

「はぁ、それって俺が日本語をよう知らんのと同じですかね」

と、山瀬に問う。

「そうですね、方向性は違いますけど、同じですね」

山瀬の言葉に山田は安心したように破顔し、

「そやのになんで、俺ばっかり皆に笑われるんですかね」

と、真顔で訊く。

「それは……多分世間では理数系の分野が苦手な人が多いからじゃないですか。僕の家族もどちらかというと文系の人間ばかりですし、校内で理科の専門家は山田先生だけでしょう。数学は米澤先生と墨田先生だけで、あとは国語に社会に英語……大雑把に数えただけでも、やっぱり理数系を専攻した方は少数派だと言えそうですからね」

「やっぱり、そうですよねぇ。生徒もなぁ……受験準備で勉強してるヤツは多いけど、理科が好きやて言うてくれるのはおらんもんなぁ……なんか俺、ムッチャ肩身狭い気ぃしますわ」

「ああ、でもほら、こんな実験を見せられたら理科に興味が出るかもしれませんよ。僕もけっこう新鮮でした」

「ホンマですか? 嬉しいなぁ。いやね、山瀬先生。俺ねぇ、前からオモロイ実験とかしたかってんけど、ホンマに面白いかどうか不安やったさかいに、まだ生徒らの前で見せたことなかったんですわ。せやけど先生がオモロイて言うてくれはるんやったら、なんか安心して実験できる気ぃします」

山田はそう言うと、僅かに複雑な心情を窺わせる笑顔を浮かべた。

「山田先生でも不安になるんですね」

意外でしたと山瀬が微笑うと、山田は困ったような顔で反論を始める。

「そら、ないですよ、せんせぇ。そんな言い方やったらまるで、俺が考えなしのアホみたいに聞こえますやんか」

「そういうんじゃないですよ。でも山田先生はいつも元気に見えるから、ついそういう後ろ向きな考えなんて持たないんじゃないかって思ってしまうだけで」

椅子に腰掛けて肩を落としている山田の姿が、山瀬の目には不思議なほどに小さく見えた。それでつい、山田を元気づけてやりたいと思ったのだ。

「僕はつい色々と考え込んでしまうほうなんです。一つのことをあれこれと考えてしまって、しかもどちらかというと前向きになるのが苦手で……かといって後ろ向きだってわけじゃないんですよ。ただ、色々なパターンを考えたりするので、山田先生のようにダイレクトに一番建設的な答になかなか辿り着けないっていうか……」

「ああ、俺、いろんなん考えるの、ムッチャ苦手ですねん」

山田は顔を上げると、照れくさそうに告白を始める。

「ガキの頃から読書感想文とか苦手で、オモロイもんはオモロイとしかよう書かんのです。で『面白かった』とだけ書いたら先生に『真面目にちゃんと書け』て怒られますやん。けど俺、それ以外にあんじょうよう書かんし、学年上がる分だけ要求がきつなるし……けど数学とか理科とかは公式とか原則とかが変わらへんし、白黒はっきりつくぶんだけ、俺には簡単やったんですよ。暗記もんの社会はともかく、英語と国語は全然アカンし、理科で点数稼いで高校と大学に行くしかなかって……」

「僕は公式に散りばめられている数字やアルファベットを覚えられませんでしたよ。運良く覚えていても、物理みたいに複雑な公式になると、変数の場所がわからなくなって……」

「なるほどねぇ……山瀬先生と話してたら、人には得手不得手があるっちゅーんがようわかりますわ」

「偶然ですね。僕も山田先生と同じです」

山瀬が笑うと、山田は顔を楽しそうにクシャクシャにしながら頭を掻いた。

◇◇◇

ゴールデンウィークを目前に控えた4月の放課後、山瀬は理科準備室で雑誌のページを繰っていた。明日の授業の準備を終えた山瀬は、関西で初めて迎える少しばかり長い休暇の過ごし方をあれこれ考えていたが、桜を楽しむには遅すぎるとは言え、何もかもが目新しい街での爛漫の春を満喫するのを楽しみにしていたのだ。

帰省の予定がないとの知らせを伝えた時、電話口の母親の声が少しばかり残念そうに感じられたため、山瀬は幾ばくかの罪悪感を覚えずにはいられなかった。しかし高校生の時に担任となった国語教師の言葉をきっかけとなり、長い間憧れ続けてきた古典文学の風景に思いを馳せれば、山瀬の胸を掠めた微かな罪の意識は瞬く間に雲散霧消となる。

山瀬が近畿地方の観光ガイドの中に慣れ親しんだ地名や言葉を探しながら、間もなく訪れる束の間の休暇の過ごし方にあれこれと思いを巡らせていた時、突然大きな音と共に理科準備室のドアが開いた。

「ひや〜、降られた、降られた。たまらん、びしょびしょや」

相変わらず賑やかな調子で部屋に入ってきた白衣の山田は服のまま水に飛び込んだようにびしょ濡れで、その様を見た山瀬は反射的に腰を上げる。

「大丈夫ですか、山田先生」

「いや、それはこれから確認しますよってに」

山田はそう言うと濡れ鼠になった犬猫のように頭を振り、大事そうに胸に抱えていた青いバケツを床に下ろし、蓋を慎重に外して中を覗き込む。

「ああ、よかった〜。濡れてへんかった〜」

安堵の息をつく山田に、山瀬が諦めと心配と僅かな怒りを含んだ声をかけた。

「山田先生。僕はバケツの中身より床に水たまりができてしまうことと、先生が風邪をひいてしまうことのほうが問題だと思いますよ」

日頃から物静かな山瀬らしくない強い口調に山田は刹那、驚きの表情を浮かべたが、次の瞬間には破顔しながら言い訳を口にする。

「いやぁ、心配さしてもうてスンマセン。山の上のほうでにわか雨にやられてしもて、慌てて下りてきたんですよ、これでも。今日は花弁のある草を採ってきたんですけど、水に濡れたら標本にした時の花の色がようなくなるんで、心配で心配で……けどお陰さんで大丈夫でよかったですよ。それにねぇ、この花が咲くんは今週いっぱいくらいで、この時期を逃したら来年に持ち越しになってまうんですわ。俺はアホやさかい、風邪なんか滅多にひかへんし、野草の花の色とは比べもんにならへんくらい頑丈にできてますし……」

などと立て板に水と言った調子で言葉を並べながら、山田は予備の暗幕や未使用の雑巾、ボロ布などが突っ込まれている箱から白衣を取り出した。それからずぶ濡れの衣服をすっかり脱いでしまい、素っ裸に白衣という珍妙な出で立ちで、鼻歌まじりに新聞紙を床に広げて採集してきた植物を広げ始める。

「山田先生、濡れた服を床に放り出したままにしてどうするんですか。その服を乾かすとかしなくちゃ、白衣一枚じゃ風邪をひきます。髪だけでも拭かないと本当に風邪をひいてしまいますよ。大体、その格好のまま帰るつもりですか」

「あー、さっきちょろっと見た時、職員室にまだ電気点いてたし、タオルとか着替えとは後にしますわ」

「着替え、あるんですか?」

「ええ、職員室にジャージ置いてるんですよ。けど、前にこのなりで取りに行ったら女の先生も男の先生もおって、オマケに生徒もおったんです。そんで速攻で変態扱いされてしもたんに懲りてですね、みんな帰って、誰もいーひんなったのを見計らってからと思てたんですけど……」

山瀬は改めて山田を見た。白衣のボタンを全てとめてはいるが、確かにこの姿で人前に出るのは問題がある。これではまるで春先に出没すると言われる、コート姿の露出症そのものにしか見えない。部屋の隅に積み上げられた濡れた服の山に目を遣ると、その頂上にはご丁寧にもきちんと揃えられた靴下と畳まれたブリーフが並べられている。衣服はどれも繊維の芯まで濡れているようで、山田はそれらをそのまま持ち帰るつもりなのだろうと山瀬は察した。

「よかったら、僕が職員室に行ってきましょうか」

「え……でも、悪いですから……」

「その格好で部屋の中をうろうろされるほうが困りますよ。だいたい、まだ髪から滴がぽたぽた落ちて……ああ、もう、僕や本まで濡れるじゃありませんか」

妙な遠慮をする山田に、山瀬が笑いながら答えた。すると山田は恐縮至極といった様子でジャージの在処を告げ、山瀬はすぐに戻ると言い残して職員室に向かった。

◇◇◇

山瀬の隣にある山田のロッカーの扉を開けると、上の網棚に小ぶりの布製のカバンが置かれている。山田の言葉通りの特徴を持つカバンの口を開け、山瀬は念のために中を確認した。確かにジャージの予備が入っているのを確かめた山瀬は押し掛け親友のロッカーを閉め、次いで自身のロッカーからタオルを引っ張り出す。いつ洗ったものかは定かではない。山瀬はタオルをざっと検分して目立つ汚れや臭いがないことを確認してから、職員室から出た。廊下の向こうから歩いてきた、終業前の校内の点検から戻った当番教師が山瀬の顔を見るなり

「あれ、山瀬先生、まだおらはったんですか」

と、声をかけた。

「ええ、授業の準備をしていたら遅くなってしまって……入れ違いになったみたいですね」

「ホンマですな。職員室にも図書室にも誰もいてへんかったから、もう帰らはったと思てましたわ。俺、もう帰りますけど、先生はまだ?」

「できればキリのいいところまでやっつけてしまいたいんです。最後の戸締まりは責任を持ってやっておきますから、先生、お先にどうぞ」

「そうですか? したら、戸締まりとか頼もかな」

そう言うと、初老の社会科教師は急いで帰り支度を整え、職員室の鍵を山瀬に手渡す。恐縮した様子の社会科教師に見送った山瀬は、職員室の戸締まりを済ませてから理科準備室へと急ぐ。

「山田先生、お待たせしました」

「いえいえ、こっちこそお使いだてしてスンマセン」

困った時はお互い様だからと言いながら、山瀬が山田に着替えを渡す。

「あ、それからこれで頭、拭いてください」

着替えを受け取った山田に山瀬がタオルを手渡すと、山田は大袈裟なほどに恐縮してみせる。

「うわ、スンマセン、スンマセン。なんか、もう、俺、ムッチャ先生に世話とか迷惑とかかけまくりですやんか。ホンマ、申し訳ない」

「あ……いえ、まぁ……風邪でもひかれて、移されちゃたまりませんから」

その方がよほど迷惑だという山瀬の言葉に、山田は大きな身体を思い切り縮こめながらガシガシと髪を拭く。その姿はまるで母親に叱られた子供のようで、頼るべき誰かに窘められた子犬のようにも見えてしまい、山瀬は思いがけずにこみ上げる微笑みをこらえるのに骨を折った。そんなことなど露ほども知らぬ山田がすっかりしょげ返っていることは、彼が着替えている間に向けていた背からも感じられる。

少し言い過ぎただろうかと山瀬が考えた時、

「せんせー、まだ怒ってはります?」

と、山田の、僅かに躊躇うような声が聞こえた。

「もう怒ってませんよ。僕は山田先生が濡れたまま作業をしているのが気がかりだっただけで、怒っていたわけではないんです。お互いに一人暮らしなんですから、風邪をひいたりしたら大変でしょう?」

「ホンマに、すんません」

山瀬が振り返ると、既に着替え終えた山田が照れくさそうな微笑みを浮かべている。

「一人の時に風邪ひいたら、しんどいですよね。身体はともかく、気ぃがえらいっちゅーか、しみじみと寂しいなぁとか思うてしもて、けど、そんなん言うてもしゃーないから、頭から布団被って寝てしまうんですよね」

独り言のように山田は言うと、山田は山瀬の目を見ながら破顔した。

「けど、風邪ひくて心配してもらうのん、ムッチャ久しぶりで嬉しかったです。山瀬先生、ありがとうございます」

「あ、いえ、そんなつもりではないんです。ところで、久しぶりっていうのは……」

相変わらずとんちんかんな答を返す山田の言葉を面はゆく感じた山瀬は、話題を変えるつもりで言葉をつなげたつもりだった。

「俺ンとこは母一人子一人で、看護婦のお袋はずっと忙しゅうて、病気してもずっと側におってもらえることの方が少なかったんですよ。あんまりひどい時は勤め先に連れて行かれて、その辺で寝かされてましてん。病院におったら看護婦さんとか先生とかお袋とかがちょくちょく様子見に来てくれるんで、寂しいことなんかあらしませんねんけど、家で一人で寝てんならんのは好きとちゃいました」

食べ物も飲み物も母親が用意してくれても、どこか物足りないのだと事も無げに語られた言葉自体が、山瀬には驚きだった。

専業主婦で世話好きの母は、山瀬が寝込んでいる間中付き添ってくれていたし、姉や妹も一人で寝ているのは寂しかろうと、枕元で物語を読んでくれたり学校での出来事を話してくれたりもした。普段は愛想が良いとは言えない父でさえ、幼い山瀬に土産の小さな包みを持ち帰ることが少なくない。だから病気で寝込んでしまうのは辛くはあったが、普段は見えない幸福や喜びが感じられた時間でもあった。それ故に同じ年頃の思い出を語る山田の言葉が、山瀬にはどこか切ない。

「山田先生、これから夕飯でも一緒にどうですか」

自分よりも遙かに体格に恵まれた山田が幼子に見えてしまったせいか、山瀬はつい、こんな言葉をかけていた。

「明日は土曜日で授業もないし、腰落ち着けて飯食うのもええですね。あ、そしたら俺、奢ります。ジャージ取ってきてもろたお礼。そうや、お好み焼き食いません? 俺の作ったん、美味いんです。帰りしなにビールとイカとか豚とか買うて、うっとこでお好み焼きしましょう」

「急にお邪魔したりして、いいんですか?」

「優雅な一人暮らしや言うたかて、週末一緒におる女の子もいーひんし、全然かましませんよ。ほな、決まり。とっとと片づけて帰りましょ」

山田は出会いの頃と寸分違わぬ人懐っこい笑顔と強引さを見せると、上機嫌で二人で過ごすことが多くなった理科準備室の片づけを始めた。

◇◇◇

閉店時間間際に滑り込んだスーパーで、5割引の値札のついた豚肉やイカなどを備え付けのカゴに放り込む山田の後ろ姿を眺めながら、そして山田一郎の住むアパートで、山田がキャベツを刻む軽快な音を聞きながら、山瀬は改めて何故自分がこんな時間、こんな場所にいる羽目になったのかを改めて考えてみた。元を辿れば雨具の用意もなしに山に植物採集に出かけた山田に、うっかりと情けをかけてしまった自分が迂闊だったわけだ。山田に代わって職員室から着替えを取ってきてやった時点で、山瀬は同僚としての役割を終えても何ら問題はなかった。なのについ、食事に誘ってしまったのは意気消沈した山田が雨の日に出会った捨て犬のように見えてしまったせいかもしれない。

山瀬は子供の頃、飼い主の身勝手で捨てられた小さな命を見過ごすことができず、子犬や子猫を連れて帰っては家族を呆れさせたものだった。犬と猫をそれぞれ2匹ずつ買うことまでは許されたが、住宅事情からそれ以上の動物を飼うことはできないにもかかわらず、腹を空かせた小さな命を連れ帰るたびに叱られた。家族総出で里親が見つかるまで面倒をみたことは数えきれないほどあったし、今では良い思い出として残っている。中学生になる頃にはさすがに見境なく犬猫を拾うことはなくなったが、それでも動物を見ると今でもつい、撫でたり抱いたりしてしまう。しかし山瀬よりも遙かに体格に恵まれた山田に対して、似たような感情を抱いてしまったのかが、どうにも解せずにいた。

「せんせー、そこ、テーブルの上のもん、どっかにやってもらえますか」

ぼんやりと、そこいらに投げ出されたままの雑誌のページを繰っていた山瀬が、山田の声に現実に戻る。言われたままに雑誌や新聞を畳の上に下ろすと、山田がホットプレートを食卓の上に置いた。中央のテフロン加工が僅かに剥げたそれは使い込まれていることが一目瞭然で、山田の料理の腕をうかがわせる。

「手慣れてますね」

山瀬の言葉に山田は破願し、

「そら、もう。ホットプレートを使う料理は小学校時分からやってますからね。期待してもろてええですよ」

「お好み焼きが得意なんですか」

「お好み焼きは基本で、ハンバーグもホットケーキも目玉焼きも炒めもんも、どんとこいです。ホットプレートは火力がもひとつですけど、均一に加熱できるさかいに、これ一つで色んなもんが作れるんですよ。もうちょっと鍋の深いのんやったらすき焼きから水炊きまでできるし、パエリヤもええ塩梅にできるんですわ。替えの鉄板のない安物でも、アルミ箔とかで材料くるんだら蒸し焼き作れるし」

「へえ……それは知りませんでした」

「先生、料理はせぇへんのですか」

「母が専業主婦でしたし、姉と妹がいるので台所に入る隙がなかったんです。お茶を入れるくらいはしましたけど、僕や父が台所に入ると邪魔だからと追い出されてしまうんですよ。お陰で一人暮らしをするようになってから、料理ができないのが不便だということに気がつきました。山田先生はいつ頃から料理に興味を持つようになったんですか」

「ホットプレートをあてがわれたのは10歳になってからですね。それまでは電子レンジで料理してましてん。俺は大丈夫やて言うんですけど、あんまり小さい子供にガスを使わすのはアレやからってお袋が言うんで……」

「じゃ、働いていらしたお母さんの代わりに、小学生の頃から食事の用意をしていたんですか」

「しゃーないですからね。最初はチンするだけでええようにしてくれてて、そのうちに自分で材料を切るようになって……小学校の高学年になってから習った家庭科の時間は、俺の独壇場でしたよ。他の同級生とはキャリアが全然違うから、何でもできるスターって感じやったんです。中学・高校・大学と、進級進学するごとにレパートリーも増えて、大学の時は地学専攻してたんですけど、ゼミの授業とかでキャンプとかビバーグとかやるんですけど、理系は女の子殆どいてないから俺が食事当番でしてん。俺の作るお好み焼きは、学校時分から皆に好評ですねんよ」

「コツなんか、あるんですか」

「キャベツは細からず太からず千切りに刻んで、メリケン粉を溶く時に昆布茶とかダシの素を隠し味に入れるんです。これでムッチャ風味が良うなりますねん。あと山芋のおろしたんを、心持ち多めに入れたらええかな」

「山芋?」

「そう。生地がふんわり焼き上がるし、ほのかな甘みが出て美味いんです。先生の家のほうでは、お好み焼きを家で作ったりせーへんのですか」

「うちでは作りませんね。そういうのは買ってくるか、食べに行くかですよ」

「大阪ではよう作りますよ。あとたこ焼きね。最新型のホットプレートにはオプションでたこ焼き専用の鉄板がついてますねん」

今使っているホットプレートが駄目になったら、絶対にたこ焼きプレートのついたものを買うのだと力を込めて語る山田の言葉に笑い、山瀬は関西の人々の聞きしに勝る粉もの好きに好意的な驚きを示しながら言う。

「そう言えば、お好み焼き定食を初めて知った時は、カルチャーショックだったなぁ」

山瀬の言葉に山田は目を見開き、

「えっ!! 関東にはないんですか?」

と問うた。

「どう考えてもおかずにはならないでしょう、お好み焼きは」

山瀬が笑うと、山田は心底不思議そうな顔で

「俺はお好み焼きで飯、食えますよ。へー、美味いし、安うて腹一杯になるし、飯時にはもってこいやのになぁ。野菜も結構入ってるから、栄養のバランスもええですののに」

「まさか、今からお好み焼き定食にするんですか?」

「今日は観察園で採れた新キャベツがようさんあるから、飯炊かんでも足りると思いますけど、山瀬先生が食べたいて言わはるんやったら冷凍してある握り飯に醤油とみりん塗って焼きおにぎり作りますけど」

まるで主婦のような山田の台詞に、思わず山瀬は驚きの声を上げる。

「まめですね」

「生活の知恵っちゅーやつです。山芋も一回では使い切れへんから、皮剥いたままラップに包んで冷凍しとくんです。そんで、いる時におろすんです。味は変わらへんのに、芋持った手が痒うならんですむんです。知ってはりました?」

それから山田は山芋に含まれる成分のうち、手にか痒みを覚えるものについて極めて専門的な単語を駆使して解説してくれたが、正直なところ山瀬には5割方も理解できなかった。山田の言葉の日本語の成り立ちには問題はない。運脈や文法にも乱れも見当たらないのだが、山瀬のボキャブラリーにはない単語と、おそらく化学の分野だと思われるいくつかの基礎概念らしきものと化学変化の法則がちんぷんかんぷんな人間にはどうにもならないのだ。これがつまり、共通の言語を持たないということなのだろうかなどと思いながら、山瀬は相手に失礼にならない程度の相槌と微笑みを駆使し続ける。

しかし自他共に認める読書家の彼にも限界はあった。そろそろ相槌のバリエーションが尽き始め、確かに学生時代に習った覚えはあるものの、既に忘却の彼方に追いやられて久しい元素記号が頻繁に飛び出した頃から受け答えが怪しくなっている。しかしお好み焼き作りと話に熱中している山田は山瀬の困惑に気づくはずもなく、キャベツと小麦粉と山芋をリズミカルに混ぜ合わながらお婆ちゃんの知恵袋的な話の科学的な解説は続く。人の話を聞くのが苦手というわけではないが、それが興味を殆ど持てない分野となると苦痛にも感じる。大阪に来て間もない自分に親切にしてくれる山田を疎ましく思うことに自己嫌悪を覚えている事実も、山瀬にとっては耐え難い。

そんな気持ちを察してほしいと考えるのは不遜でしかないと思うものの、この状況は山瀬に既視感(デジャブ)を与えるに充分だ。

そう、これはまるで実家にいた頃、口が達者な姉や妹のマシンガントークと呼ぶにふさわしい話を聞かされた時と殆ど変わりがない。アイドルや同級生の男子や食べ物や服やアクセサリー……男の山瀬には全く関係がなければ役にも立たないものについての噂話やあれこれを延々と聞かされるたび、山瀬は二人の姉妹の口をガムテープで塞いでやりたい衝動に駆られたりもした。同じような状況にありながら、山瀬は姉妹に抱いたものと同じ感情を山田に覚えることはない。

というよりも、彼の話に適切な対応ができないことが申し訳ないとさえ思ってしまう。知古が全くない土地で始めた新しい生活は新鮮だったが、漠然とした心細さを消してしまうことはできず、かといって故郷の家族を恋しがる年齢でもない。自身のテリトリー内に入ってくる恋人の存在はまだ重く感じられた。それ故、多少強引な部分があるものの、つかず離れずの心地よい距離感を保てる山田の存在は、押し掛けられ親友という関係が長くなるにつれ、かけがえのないものへと変化してゆくのだった。


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