彼らの隠れ家 2
山田の冗談とも本気ともつかない親友宣言を真に受ける者などないだろうと、山瀬は考えていた。しかし山田の言葉は気のいい同僚の口から口へと伝えられたばかりか、総数200名少々の全校生徒にまで伝わり、しまいにはその父母までに知れ渡ることとなった。山瀬は特に担任しているクラスはなかったが、それでも時折学校を訪れた父母たちから――その多くは噂の伝搬能力に長けた母親だった――山田の近況を尋ねられる他、喧嘩をしてはいないか、二人で悪さをしてるのではないか、ウジが湧くと言われる男やもめ二人の食生活はまともなのかといった、純粋な好奇心と親切心に満ちた質問を投げかけられるようになり、最初こそ山瀬も、失礼にならない程度の社交辞令をもって対応していたが、数ヶ月が過ぎる頃には適当にあしらうようになっていた。実際、彼女たちの興味本位の探求心は際限がなく、まともに接していては神経が参ってしまう。そんな時山瀬は、山田の『いや、ボチボチです』という言葉を偶然に耳にした。どっちつかずのその言葉に素直に納得する母親を見て驚くと同時に、納得した母親達の、『あんじょうしてんねんやったら、ええねんよ』という、やはり明確ではないいらえに腑に落ちない感情を覚えながらも、これがこの地域の流儀なのだと納得することにしたのだ。そして山田の使った答を自分なりにアレンジした『ええ、それなりに』を使うことにした。
標準語圏内の、高度経済成長期以後に形成された新興住宅地で生まれ育った山瀬にとって、赴任先の中学校での出来事の全てがカルチャーショックだった。
標準語と関西弁――しかも最も荒っぽいと言われる泉州弁を操る人々の言葉に山瀬は怯み、関西人徳有の言葉の遣り取りや有無を言わせぬパワーには疲労を感じる。薄味の料理も少々物足りない。人は環境によって変化するものだと頭ではわかっていても、すぐについていけない部分はある。これまでの山瀬であれば、慣れない環境に対してはゆっくりと身体や神経を慣らしながら親しんだものだ。
しかしお節介を絵に描いたような山田一郎の存在が、それを許さなかった。彼は持ち前の親切心を発揮して山瀬の世話を焼く。山瀬が迷惑そうな顔をしても気づかぬ素振りで強引に事を運ぶ。そんな山田の強引さに強い抵抗を感じていた山瀬も、次第に山田のお節介に慣れ、終いには山田と連むことが日常の一部となっていたのだ。
それに気づいた山瀬はひどく驚いた。
人付き合いが苦手で、親友と呼べるような友人を持ったことがない山瀬に、押し掛けとは言え親友と言われる存在ができたこと自体が衝撃だった。そして彼をもっと驚かせたのは、あれほど苦手だった他者との深い人間関係を厭うてはいない自分自身だった。
何かの折りに、山瀬は山田に、ふと若干厭世的な面があることを漏らしたことがある。すると山田は
「ほな、俺が営業担当になりましょか」
と、笑いながら言った。
「どういう意味ですか、それ」
山瀬が問いに山田は破顔して
「適材適所いうヤツですやん。俺はお母さんらと喋るのん好きやし、先生の分、喋らせてもらいますさかい、山瀬先生は隣で笑ろてはったらええですよ」
と答える。そして、この一言により山田一郎と山瀬一郎の、いわゆる『ボケとツッコミ』の関係が決定したのだった。
関西独特のノリに即反応できない山瀬は、しばしば生徒達から『電池切れ』と呼ばれる状態になる。そういう状態には気まずい思いをしてきた山瀬だったが、最近では山田一郎をはじめとする周囲の人々が、すかさず『ツッコミ』を入れるので、沈黙に困惑することもない。その点では助かってはいるのだが、例えば心待ちにしていた作家の新刊本を読もうとしている時にまで、一人きりになれない点は困りものだった。
生徒数が200名強、教職員が20名弱という、口の悪い人々から分校呼ばわりされる学校では、各教科ごとに準備室が用意されているわけではない。理科と美術、それに家庭科教室には資料保管庫を兼ねた準備室があったが、その他の教科の担当者は職員室に机を置くほかなかった。頼みの綱の図書室は、休憩時間中には生徒や教職員の出入りがあり、放課後には演劇部が稽古場に使っているので使えない。そのため山瀬は仕方なく人をあまり見かけない校舎東側花壇の隅の木陰に行くことが多くなった。
その日も山瀬は、東側花壇で本を読んでいた。数年ぶりに発行された、彼が贔屓にしている作家の最新作は、山瀬をぐいぐいと物語の中へ引き込んでいき、終いには降り注ぐ春の陽射し以外の存在を忘れてしまっていたようで、この頃には耳慣れた声がかけられるま周囲のことを、そして東側花壇が理科室と理科準備室に面しているのを、すっかり失念していたのだった。
「山瀬先生、こんなとこで何してはるんですか」
「山田先生、どうして……」
「どうしてて、それはこっちの台詞ですやん。さっき、理科準備室から見えましてん」
山田はそう言って笑いながら、既に授業どころか、放課後のクラブ活動さえ終了する刻限だと言う。その言葉に山瀬が慌てると、
「本読まはるのはええんですけど、寒ないですか。風邪、ひいたらアレやし、やっぱり読書は部屋ン中がええんとちゃいます?」
と山田が言った。
「そうしたいのはやまやまなんですが、一人で落ち着いて本を読みたい時もありますし、国語科には準備室がないし、図書室は人の出入りがあるし、職員室はいつも誰かがいるので……」
山瀬がそう苦笑すると、
「ほな、理科準備室を提供さしてもらいます」
と、山田が答えた。
「え……でも、それじゃ先生が不自由されるんじゃないですか」
「俺はええんですよ。理科教師は俺だけやし、1日中、だいたい授業に回ってるから放課後くらいですから、使うのん。理科室は部活にも使わへんから放課後も静かやし、本を読むにはもってこいやと思いますよ」
山田の申し出は有り難いものだったが、それに甘えるのはあまりに厚かましいような気がして、山瀬は一旦、山田の提案を辞退した。しかし山田は親友同士で遠慮をするものではないと言ってきかない。夕日が山間に沈み、肌寒い風が吹いてきたのを機に彼らは理科準備室に場を移し、話を続ける。
今ではすっかり慣れてしまった茶葉が沈んだ温かなビーカーを受け取った山瀬は、
「山田先生だって、放課後にここを使われるでしょう」
と言った。
「使わんことはあらしませんけど、いっつも使うわけとちゃいますから。そや、こないしたらどうです? 俺が準備室を使う時、先生には理科室のほうに行ってもらうんです。そしたら、お互いに独立空間を占有できますやん」
山田は名案が浮かんだとばかりに手を打った。この提案まで頑なに拒むのも躊躇われたため、また静かな環境を得られる魅力には抗えず、山瀬は山田の言葉を受け入れる。
山田は本や資料が山積みになった机の引き出しを開け、中から銀色の鍵を取り出す。
「ほな、渡しときますね。これが理科準備室の合い鍵です。理科準備室から理科室にも出入りできますさかい、好きな場所で本読んでください」
山田は山瀬の掌に鍵を静かに落とすと火元責任者がどうのこうのと、外野がうるさくなると困るので、このことは二人だけの秘密にしようと悪戯っぽく笑う。その笑顔はあまりに幼く、山瀬もつられたように息をひそめた笑い声で答えた。
「それじゃぁ、まるでここが僕たちの隠れ家みたいはないですか」
「あ、ええですね。隠れ家。懐かしいなぁ……子供の時分、よう山とか原っぱに作りましたわ。そしたら、ここは俺らだけの隠れ家にしましょ。せやから山瀬先生、誰にも鍵持ってること、言わんといてくださいよ。約束ですからね」
山田の言葉に山瀬はうなずいた。そして彼らは二人だけの隠れ家を手に入れたのだった。
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