彼らの隠れ家 1


 理科準備室の机の上に積み上げられた原色植物図鑑の山を見るなり、山瀬一郎は大きな溜息をついた。古文の授業の資料にと、理科教師の山田一郎に植物図鑑を借り受けることにしたのは山瀬自身だったが、万葉集の有名な歌に詠まれている植物が掲載されいるものだけでも結構な冊数になってしまい、この全てを運ばねばならないのかと思うと、絶望的な気分になる。

「どうしたんですか、山瀬先生」

壁に作りつけられた書棚にはりついている山田が、脚立の上から声をかけた。

「いえ……随分たくさんになってしまったので、運ぶのが大変だと……」

山瀬が答えると、床に降り立った山田が破顔して言う。

「俺が運ぶのん、手伝いますよ」

「そんな……悪いですから」

「何言うてはるんですか。山瀬先生の細腕で、こんだけの本を運ぶんはたいそうですやんか」

「山田先生だって痩せてらっしゃるじゃないですか」

痩せている体躯を気にしている山瀬がムッとして反論すると、山田は白衣の袖を肘までまくり上げた。痩せているとばかり思い込んでいた山田の腕の程良い肉付きに、山瀬は思わず目を見開く。

「専門の地質学はフィールドワークが基本ですさかい、けっこう筋肉がつくんです。びっくりしはりました? あと、体質なんか、俺はすぐに筋肉ついてしまうんですよ」

『脱いだら、スゴイんです』と、悪戯っぽい笑みを浮かべる山田の問いに、山瀬は感心したように答える。

「てっきり、僕と同じくらい痩せていると思ってたから……」

「山瀬先生は俺みたいに、無闇にごっつないですもんね。俺やったら先生みたいなタートルネックの服は着られへん。首んとこがきついんですよ。せやから登山用のセーター、わざと首のとこ伸ばして着らなあかんし、先生みたいに普通にとっくりセーター着てはるのん、羨ましいんですわ」

山田はそう言いながら植物図鑑を両脇に軽々と抱え、ドアへと向かう。山瀬の前を山田が横切った瞬間、微かな消毒薬の臭いが 山瀬の鼻腔をくすぐった。


 とりあえず使い終えた原色植物図鑑を抱え、山瀬は理科準備室の扉を行儀が悪いのを承知の上で、足で小突く。

 中から聞こえた山田の声に訪問の理由を告げると、慌てた様子で引き戸が開けられた。

「スンマセン、重たいのに」

山田が山瀬の手から本を奪うようにして引き取る。

「いえ、まだ写し終えていないのがあるので、半分だけしかお返しできないんですが……」

「ああ、ええんですよ。あんなん、誰も見ぃひんねんし、原色植物図鑑全巻みたいなもんは、お役所仕事が生み出した予算消化の典型的な産物です わ」

図鑑よりも火力の強いガスバーナーのほうがよほど実用的だと唇を尖らせる山田一郎は、 図鑑を机の上に置くと山瀬を振り返り、茶を煎れるからと椅子を勧める。

 特に断る理由もなく、世間話をしながら茶を待っていた山瀬の目の前に出されたのは、底に茶葉らしきものが沈んだ、小振りのビーカーだった。山瀬が目を丸くして山田を見ると、

「ああ、これは湯飲み専用におろした新品ですから、汚いことないですよ」

と、着た切り雀の白衣を纏った部屋の主が笑った。

「まぁ、慣れへんうちはアレかもしれへんけど、これでも結構、気ぃ遣ってるんですよ」

「どの辺が……ですか」

「前は緑茶やったんです。けど、緑茶を入れてたら、まんま検尿みたいやから今はほうじ茶にしてるんです。これやったら、嫌な気ぃしませんでしょ?」

 山田の答えに山瀬は脱力した。それを見た山田は茶葉を取り除こうかと漏斗と濾紙を引っ張り出す。 山瀬はとんちんかんな気遣いを見せる山田を留め、できるだけ自然な作り笑顔を浮かべてビーカーからほうじ茶を啜った。そして理科準備室にはラーメンを煮る水槽と、それを小分けにするための乳鉢もあるのだと聞き、 典型的な文系人間の自分と、絵に描いたような理系人間に山田の間には、 深くて暗い川があるのだと思い知ったのであった。


 希望していた奈良市と京都市の教員試験にはことごとく落ち、保険のつもりで受けた大阪の片田舎の市の教員試験にしか受からなかったため、山瀬は仕方なくこの中学校に赴任してきた。始業式が始まる前、新しい同僚と初めて顔を合わせた時から、山田一郎はひどく馴れ馴れしい――好意的に解釈すれば親しみやすい笑顔を浮かべながら、強引に握手を求めてきたのだ。人付き合いが得意とは言えない山瀬は、山田ほどの、無防備とも言える人懐っこい人間が苦手で、意識的に避けてきたきらいがある。従って山田との接触も初回のみで終わらせるつもりだったし、実際、山瀬は山田が彼を相手に取るに足りない世間話を始めるたびに、遠回しにではあったが山田の存在を迷惑に感じていることを伝えてはいた。しかし山瀬の婉曲な言い回しは何の効果もなく、山田は何かと理由を見つけては山瀬に話しかけ、時には食事に誘ったりする。いつだったか山瀬は彼にしては珍しいほどの率直な言葉で、しつこいほどに山田が自分を誘う理由を問うたことがあった。すると山田は元々細い目がなくなるほどに破顔して

「それは、運命やからですよ」

と答えた。

「どういう意味ですか」

山瀬が不愉快であることを隠そうともしないで訊くと、山田は当月の行事予定が印刷された藁半紙の裏に8つの文字を書き付ける。

「山瀬一郎と山田一郎。ね、山瀬先生と俺の名前は一字しか違わへんでしょう。同姓同名とかって、滅多にあらへんわけやし、氏名の四文字のうち三文字も一緒で職場もおんなしで、歳もだいたい同じってスゴイことやと思いません? 俺はスゴイと思うんですよ。せやから山瀬先生と俺は親友同士になる運命やと、そう思ったんです」

自信にあふれた山田の言葉に覚えた軽い目眩を堪えながら、山瀬は反論を試みた。

「そんなつまらない偶然なんか……」

「何言うてはるんですか、山瀬先生。全ては偶然から始まるんです。偉大な科学者ニュートンは、木からリンゴが落ちるのを偶然見かけて万有引力の法則を発見し、偶然発見されたガラパゴス諸島の生物群からダーウィンの進化論の正しさが証明され、遺伝子の二重螺旋配列が発見されたのは、X線写真に偶然映し出された影がきっかけとなり……」

「ああ、もうわかりました!」

山瀬は永遠に続くかと思われた山田の言葉を遮るつもりで、険しい言葉を投げつけた。しかし山田を傷つけるつもりの小さな叫びは山田の脳内で極めて好意的な形に変換されたようで、

「そしたら今、この瞬間から山瀬先生は俺の親友ね」

と山田は明るく言い、直視するのが躊躇われるほどに明るい笑みを浮かべた。


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