掌(たなごころ)―世界Side―


 飛葉が『ボン』に顔を出さなかった。遊びにでも出かけたのだろうと思っていたのだが、この間の任務が終わった夜、飛葉が乾いた咳をしていたのを思い出し、念のために翌朝、飛葉の下宿に顔を出してみることにした。

 階段の下の自転車置き場にバイクはあったが、部屋のドアには鍵がかかっている。妙な胸騒覚えたため、アパートの管理人に部屋を開けさせた。中に入ると奥の四畳半の中、煎餅布団に飛葉がくるまっていた。

 声をかけてみたが、飛葉は身じろぎもしない。頬を軽く叩くと、ゆっくりと瞼を上げるのだが、その焦点は合わず、額は燃えるように熱い。俺の肩越しに飛葉の様子をうかがっていた管理人の老人に医者を呼んでもらいたいと頼んだ。

◇◇◇

 ひどく高い熱を出した飛葉は、インフルエンザに罹っているようだと医者が言った。冷え切った部屋にいたため、肺炎を起こしかけているとまで言われ、苦々しい感情が湧き上がる。ガスストーブで部屋をあたため、乾燥した空気が病気によくないという助言に従い、電気コンロに薬缶をかける。6時間おきに抗生物質を飲ませるように、できれば薬を飲む前に、少しでも何かを食べさせるようにと言われたので、管理人にしばらくの間留守を頼み、買い物に出かけた。

 果物屋でリンゴとミカンを買い、自分の食事を兼ねてパンと野菜ジュース、飛葉にオレンジジュースを買う。これだけの食糧があれば、二、三日の篭城くらいはできるだろう。買い物の途中、公衆電話から『ボン』に連絡を入れた。電話口に出たオヤブンに状況を手短に話し、電話を切る。これで一日一度は誰かが顔を出すだろう。足りないものが出たら、奴等に頼めばいい。さしあたって必要なことを済ませ、飛葉のアパートに急いで戻った。

◇◇◇

 台所でリンゴを四分の一だけすりおろし、飛葉の枕元に座る。俺の声が聞こえてはいるようで、飛葉は少しだけ目を開いた。声をかけてみるが、何か口の中で呟くばかりで、その意味はわからない。荒い呼吸のために開き加減になった唇にリンゴを乗せたスプーンで触れると、ゆっくりとリンゴを飲み下す。半ば意識がないとはいえ、何かを食べようとする体力が残っていることに少し安堵する。リンゴを食べ終えた飛葉の口の中に錠剤を二錠放り込み、水を飲ませる。触れた唇に伝わってくる熱はひどく高い。もう一口、水を飲ませると、飛葉が力無く笑った。こんな状態になってまで、心配をかけまいとする飛葉が不憫に感じられる。飛葉の額に乗せたタオルを絞り直してやると、飛葉は微かな声で

「ありがとう」

と言った。そして飛葉は、その日は殆ど眠ったままだった。

◇◇◇

 翌日の昼を回った頃、八百とオヤブンが顔を出した。眠っている飛葉の顔をのぞき込んだオヤブンが

「インフルエンザかぁ。ありゃ、きついんだ」

と言いながら、懐から白桃の缶詰を取り出した。

「ガキの頃はよ、風邪ひくたんびにお袋が買ってくれんだよ。寝てる時、結構楽しみだったんだよな」

と、笑う。すると八百が

「飛葉には、ちょうどいいさ」

と言う。

「こうして寝てると、まるで子どもだな」

「仕方ねぇさ、八百。こいつ、まだ17だぜ」

オヤブンが飛葉の頬をつつくが、飛葉は身動き一つせず、荒い呼吸を繰り返すだけだった。

 明日、誰かをよこすと言って、二人は帰った。

◇◇◇

 夜の11時を回ろうとする頃、飛葉に声をかけてみた。目を覚ました飛葉の視線が少しずつ定まるのがわかる。少しだけでも正気を取り戻したことに僅かばかり安心した。薬の時間だと言うと、

「……世界……あんただったのか……」

と、弱々しい、掠れた声で、飛葉が言った。インフルエンザに罹っていること、高い熱が出ていること、おそらく丸二日、眠ってばかりだったことを告げる。

「……ずっと……いてくれたろ?」

昨日の朝からと言うと、飛葉が少し笑った。俺は飛葉の胸元を軽く叩き、台所に移った。リンゴを半分だけすり下ろす。飛葉に薬を飲まなければならないこと、そのために少し腹の中に入れたほうがいいと言い、飛葉の口にリンゴを乗せたスプーンを近づける。飛葉はそれをゆっくりと飲み込むと、

「リンゴだ」

と、言った。昨日から、すりおろしたリンゴばかり食べていると言うと、

「そっか……」

と、呟いた。

 リンゴがなくなった。腹具合を尋ねると、もう少し食べると言うので、残ったもう半分のリンゴをおろして飛葉の枕元に戻った。リンゴを飲み込んだ後、

「うまいな……このリンゴ」

と、飛葉が言う。こんなもので喜ぶ飛葉の顔は、まるで幼子のようだ。少しずつではあったが食欲も戻ってきたようで、また一つ、心配の種がなくなった。

 絞り直したばかりのタオルを額に乗せると、飛葉は気持ちよさそうに目を閉じる。頬に触れてみた。まだ熱は高いままだった。昼過ぎに八百とオヤブンが見舞いに来たと言うと、

「アイツらにも心配かけてんな……」

などとしおらしいことを言う。

 「お袋が来てくれたのかって……でも、夢だったんだな……。そんなこと、あるわけないのにな……」

と、飛葉が言った。

「ガキの頃から、身体だけは丈夫だったから……風邪で学校とか休んでも一人でよ……。初めてだ……病気の時に、誰かがずっといてくれるの……」

そう言うと、飛葉は照れたような表情で俺を見上げる。ここに来るのが一日遅れたことを詫びると、

「今、いてくれるじゃねーか……それで、十分だって……」

と、答えた。飛葉の瞼に手を置き、眠るように言う。すると飛葉は

「世界……世話かけて、悪いな……」

と言った。

 少々荒くはあるが、呼吸が規則正しいリズムを刻み始めたのを確かめ、飛葉の瞼の上に置いた手を戻した。

 先刻の飛葉の言葉が、少し苦い。それぞれに家庭の事情というものがあるのは承知しているつもりだし、病気で寝ている子どもを一人残して出かけなければならない理由があるということも、わからないではない。けれど、意識が朦朧としている時でさえ誰かに頼ろうとしない、頼ることを知らない飛葉が哀れに感じられる。

 いつだったか、父親がいないと言っていたのを、不意に思い出した。飛葉の母親はおそらく、男親の分も働かなければならなかったのだろう。そのせいでいつの間にか、自分のことは、できる限り自分でやろうとする癖がついたのかも知れない。それは一人で生きていくために必要なことに違いない。しかし、こんな時にも何もかも一人で抱え込もうとすることはないだろう。

 俺に世話をかけたことを、仲間を心配させていることに引け目など感じる必要がないのに、こいつは詫びの言葉を口にする。俺にしたって、他の連中だって同じだ。誰かに頼まれたわけでもなく、仲間だからという意識や義務感だとかというものじゃなく、ただそうしたいから飛葉の看病をしたり、様子を見に来たり、見舞いを持って来ているだけだ。俺たちが勝手にしているだけだっていうのに、迷惑をかけていると思い込んでしまう。

 飛葉の子供時代はひどく孤独だったのではないかと思うと、やりきれない気分になった。

◇◇◇

 翌朝、目を覚ました飛葉に気分を訊くと、

「だいぶ、いい」

という答えが返ってきた。昨日に比べて顔色も良かったので、オヤブンが持ってきた白桃を開けた。我ながら過保護だと思いつつ、一口で食べられるほどの大きさにちぎった桃を口元に運んでやると、

「うまいな、これ」

と、上機嫌で言う。すりおろしたリンゴよりも歯ごたえのある白桃が気に入ったのか、飛葉はあっという間に、それを平らげた。薬を飲ませる。順調に熱が下がっていることが、飛葉の唇が伝える。

 着替えのある場所を尋ね、肌着や寝間着の替えを引っぱり出す。それから飛葉の身体を拭いてやった。素直に身体を預けていた飛葉が、小さな笑い声を漏らす。病人の癖に嬉しそうな顔をするのも、おかしな話だ。

「病気ってのは、嫌なもんだけどよ……あんたに世話、焼いてもらえるんだったら、たまにはいいかってな」

と、笑う。あまり嬉しそうな顔をするので、飛葉の髪をくしゃくしゃにしてやった。バカなことを言うと思いはするが、確かに、たまになら悪くはないかもしれない。

◇◇◇

 身体を拭いたことがよかったのか、眠っている飛葉の呼吸はずいぶんと楽になったようだった。食糧の蓄えがそろそろ尽き始める頃でもあり、体力を補うために飛葉にもそろそろまともなものを食べさせたほうがいいだろうと考え、買い物に出ることにする。飛葉に何度か声をかけてみたが、よく眠っているため返事はない。ストーブを消し、電気コンロのコンセントを抜く。そして飛葉を起こさないように、そっと部屋を出た。

 まず医者に行き、薬をもらった。それから果物屋と和菓子屋、そしてパン屋で飛葉の好みそうなものを買い込み、うどん屋に向かう。昼飯の頃に持ってきてほしいと、鍋焼きうどんを二人前、少し迷ったが、念のために握り飯も二人前頼んだ。

 飛葉の下宿のドアを開けると、病み上がりでフラフラしているクセに出かけようとしている飛葉がいた。思わず飛葉を叱りつけた。その拍子に手も出た。ひどく驚いた様子で、目を見開いたまま俺を見ている飛葉の襟首を掴み、奥の部屋に連れ戻し、上着を取りあげる。そして無理矢理布団の中に押し込んだ。

 まだ熱が下がりきっていない身体で外に出ようとする考えのなさに呆れるやら、情けないやら、腹が立つやらで、ついつい小言がきつくなってしまう。

「起きた時……あんた、いつもいるのに、いねぇじゃねか……便所にもいねぇし……。しばらく待ってたけど……帰ってこねーから……もう、帰ってこねーんじゃないかって思って……。戻ってこなかったら、どうしようとか思って……」

飛葉はまるで捨てられた子犬のような顔をしている。

「あんた、探しに行こうとしただけで……あんた、ずっといてくれたのに、いねぇし……。一人で寝てるの嫌で……それで……。何か、わけわからなくなって、でも、あんたは外にいると思っただけなんだ。だから……」

それ以上何か言うと、飛葉が泣いてしまうのではないかと思い、飛葉の唇をふさぐ。飛葉が上半身を起こして、子どものように首にしがみついてきた。飛葉の背中にまわした腕に力を入れる。飛葉の唇を解放し、首にまわされていた腕を、飛葉を怯えさせないように静かに背中に持っていき、飛葉の頬が胸に当たるように姿勢を変えてやると、飛葉は鼻先をすり付けるてくる。何も言わずに出かけたことを詫び、それから、その理由を話した。飛葉は頭を振って

「あんた、悪くねぇ。俺が悪りぃんだ。あんた、怒ってもしょーがねぇよ」

と言う。涙声だった。飛葉の気持ちを落ちつけようと、その背を何度も撫でてやる。しゃくりあげる時のような、そうなるのを堪えるような不自然な呼吸が少しずつ静かになる。

「ごめん」

そう言った飛葉の声は、随分と落ち着いている。飛葉に昼飯にうどんの出前を取ったことを教えてやった。するとまた、

「迷惑かけてんのに……あんたに世話ばっかかけてんのに……ごめんな、世界」

などと、自分を責めるようなことを言う。人を気遣うところは、飛葉の長所だとは思うが、こんな具合にすっかり萎れてしまった様子を見るのは忍びないので、飛葉の言葉の間違いを指摘してやる。すると飛葉はようやく笑みを浮かべて

「ありがとうな」

と言った。

 飛葉を寝かしつけ、玄関先へ紙袋を取りに戻った。飛葉の枕元に和菓子や果物を並べてやると、嬉しそうな顔をして

「なんだよ、これ。ガキの遠足のおやつじゃねーか」

と言った。それから少し間を置いて、

「けどよ……俺の好物ばっかだ」

と、笑った。

◇◇◇

 鍋焼きうどんと、予備のつもりで頼んだはずの握り飯を、飛葉はすっかりたいらげてしまった。薬を飲んでから、それでも足りないのか、饅頭にまで手をつける。予想以上の健啖ぶりに呆れた。病み上がりのクセに、よく食べるられるもんだ。

「しょーがねぇだろ? 腹減ってんだからよ」

と飛葉が笑う。微熱が少しあるようだが、もう心配はいらないだろう。薬が効いてきたのか、飛葉はまた眠った。

 しばらくして、ヘボピーと両国、チャーシューが来た。

「ああ、ああ、ガキみたいな顔で寝てんなぁ」

と、チャーシューが笑った。

「こんなガキに始末されてんだってばれたらよ、悪党どもが悔しがるぜぇ」

「草場の陰から出てくるかもしんねーな」

「よせやい。俺はバケモンを相手にするのは、ご免だぜ」

「世界、飛葉はもう、だいぶいいのか?」

と、両国が訊く。今朝から熱がどんどん下がっていること、昼にうどんと握り飯食った上に、饅頭まで食べたと言うと、三人は半ば呆れたように、けれど安心したように笑った。

 「あれ、来てくれたのか」

目を覚ました飛葉が、そう言いながら身を起こすと、両国が飛葉の方に半纏をかけてやる。

「鬼の霍乱だな」

と、ヘボピーが笑う。

「よかったなぁ、飛葉よ。おめぇ、風邪ひくくらいは利口だったんだな」

と、チャーシューが言う。

「あんまり丈夫なもんだからよ、バカじゃねーかって心配してたんだぜ」

ヘボピーに背中を小突かれた飛葉が、手にしていたミカンを落とした。病人相手の時くらい、手加減しろと言ってみる。すると両国が

「これくらいのほうが、静かでいいやね」

と笑う。

「おめぇら、覚えとけよ」

と、飛葉が悪態をつくとヘボピーが、

「病人なら、もう少しし、らしくしてろ」

と、また飛葉を小突く。飛葉が笑う。そして俺たちも笑った。

 夕飯はチャーシューの店から届けてくれることになった。おか持ちの中から出てきたのラーメンとチャーハン、それにニラレバ炒めだった。ラーメンにはチャーシューがたっぷり乗せてある。ニラレバ炒めの盛りも、心なしか多い。いくらスタミナがつくと言っても、さすがにこれは食べ切れやしないだろうという予想は、あっけないほど簡単に裏切られた。飛葉は病み上がりとは思えない旺盛な食欲で、うまそうに料理を全部平らげ、薬を飲んだ。それからデザートだと言ってミカンに手を伸ばす。今度ばかりは、俺も心底呆れた。

 「世界……あんた、俺が寝てた間、何してた?」

と、飛葉が訊いてきた。医者に言われた通り、六時間おきにおろしたリンゴを食べさせて、薬を飲ませて、時々タオルを絞り直したりしてたと答えると、

「寝てなかったのか?」

と、心配そうに俺の顔をのぞき込んだ。

押入から毛布を引っぱり出して眠ったこと。退屈しのぎにそのへんの本を読んでいたと言うと、飛葉はすまなそうな表情を浮かべる。それから黙ったまま何かを考えているようだった。

「よし、あんたが病気になった時は、俺が看病してやるよ。約束だ。な?」

と言う。病気になるのは遠慮したいところだ。

「俺、お粥、作ってやるよ。覚えとけよ」

などと言い始める。断ったとしても、こいつはきっと、無理矢理にでも押し掛けてくるに違いない。ガキのクセに、大人顔負けの悪さを散々してきたクセに、やたらと面倒見の良い飛葉は、仲間の役に立つと嬉しそうな顔をする。そんなことをしなくてもいいのだが。ただ機嫌良く、側にいるだけで、それだけで充分なのに、飛葉は何かにつけて人の世話を焼きたがる。

 病気になった時は、遠慮しないと言うと、飛葉は嬉しそうに笑った。病気になるのは気が進まないが、こいつの嬉しそうな顔を見られるのなら、それもいいかも知れないと思う。そんな風に考えてしまう自分の甘さに、我ながら呆れた。

◇◇◇

 「いいじゃねーか。ちょっとしか熱ないんだからよー」

飛葉がわがままを言い始めた。今夜くらいは、ゆっくり手足を伸ばして寝るように言うのだが、聞き入れようとしない。

「あんたが毛布にくるまって寝てたら、気になって寝れやしねーだろ? そしたら、また熱が上がるぞ」

などと脅迫めいたことまで言い出すので、仕方なく一つ布団で寝ることにした。

 飛葉が身体を寄せてくる。それから首の辺りに鼻先をくっつける。これは飛葉のクセだ。いつも、こんな風に寝る。飛葉が小刻みに肩を振るわせて小さな笑い声を立てているのに気がついた。顔を上げさせると、

「へへへ」

と笑う。その笑顔に引き寄せられるように、唇に触れる。それ以上は、さすがにまずい。続きは、今度にしようと言うと、飛葉は見る間に顔を赤らめて

「スケベオヤジ」

と言う。

 飛葉の背中をゆっくりと撫でる。しばらくそうしていると、飛葉はまた、鼻先を俺の首にすり寄せて静かな寝息を立て始めた。


【飛葉Side】


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