掌(たなごころ)―飛葉Side―


 ひどい頭痛を薬で抑え、何とか任務を完了した。下宿へ帰る頃には、乾いた咳が出るようになったが、その時には風邪でもひいたくらいにしか考えていなかった。途中まで一緒だった世界に風邪薬を飲むように言われたので、いつ買ったのかも忘れた薬を飲み、布団に潜り込む。妙な寒気を感じたが、一晩眠ればたいていは治るはずだった。

 翌朝、窓から射し込む陽射しに目が覚めが、身体が重くて頭さえ上げられない。久しぶりに、本格的な風邪をひいたらしい。寝汗をかいていることに気付いたが、起き上がるのも面倒だったので、そのまま寝ることにした。

◇◇◇

 焦点の定まらない視野の中に、誰かの顔があった。何か話しかけられているみたいだったが、よくわからない。身体は熱かった。額に触れた手の感触が冷んやりとして、妙に気持ちがいい。うつらうつらとした意識のまま、俺はいつの間にか眠ってしまったのだろう。

 お袋が心配そうに俺の顔をのぞき込んで、何か話しかけてくれた。少し眠れば大丈夫だと言ったつもりだったが、お袋には聞こえただろうか。冷たく、甘酸っぱい何かを食べさせられたような気がした。俺はお袋を安心させるために笑おうとしたが、うまくできたかどうかはわからない。

◇◇◇

 目を覚ました時、最初に見たのは世界の顔だった。

「やっと正気に戻ったか」

世界はそう言うと、俺の額に手を当てた。少し冷たいその感触に、朦朧としていた俺の側にいたのがお袋ではなく、世界だったことを知る。世界はこの二日の間、ずっと俺についていてくれたのだという。

「この間、妙な咳をしていたのが気になってな。一昨日、『ボン』に来なかっただろう。昨日の朝、来てみたらバイクは下にあるのにドアに鍵がかかってたから、寝込んでるんじゃないかと思ってな。管理人の爺さんに鍵を借りて入ってみたら、お前は真っ赤な顔して寝てるし……」

一通りの状況を話し終えた世界が台所へ行く。戻ってきた時には、小さな鉢を手にしていた。

「薬の時間だ。少し、食べてから飲んだほうがいい」

そう言って世界は、俺に何かを食べさせた。口の中に広がる冷んやりとした感触と甘酸っぱい味がして、それがすりおろしたリンゴだとわかった。

「昨日から、これしか食ってない」

世界が言う。そして俺にリンゴを食べさせてくれる。

「もう少し、食べるか?」

世界の問いに頷くと、ヤツは台所へ行った。

 台所から物音が聞こえる。俺以外の誰も立つはずのない場所から聞こえるその音は、不思議な感じがする。

「待たせたな」

世界が俺の枕元に腰を下ろし、リンゴを口に入れてくれる。それは普段食べるリンゴとは違う味がした。そう言うと、世界は笑う。そして俺に薬を飲ませると

「もう大丈夫だな」

と、嬉しそうだった。

 「昼過ぎ、八百とオヤブンが見舞いに来た」

世界が絞ったタオルを額に乗せてくれる。冷たくて、とても気持ちがいい。冷んやりとした指先が頬に触れる。

 お袋の夢を見ていたと、ヤツに話した。それから、病気の時に、誰かがいてくれるのが初めてだということも。黙って俺の話を聞いていた世界が

「悪かったな、飛葉……。早く気付いていればよかったんだが……」

と言った。今、こうしていてくれるだけでいいと俺が言うと、世界は俺の瞼を掌でそっと覆って、

「もう寝ろ」

と言う。俺は看病の礼を言ってから目を瞑った。

◇◇◇

 翌朝、目を覚ました時にも、世界がいた。昨夜よりも随分、気分がいいと告げると、

「そうか」

と世界が言う。それから台所から食い物を持ってきて、食べさせてくれる。八百とオヤブンからの見舞いだというそれは、白桃の缶詰だった。うまい。久しぶりに何かを食ったような気分になった。

 「替えの寝間着だとかは、どこにあるんだ?」

と世界が訊く。俺はシャツだとかを仕舞ってある場所を答え、汗ばんだ服を脱いだ。シャツを着ようとした俺の手を世界が止めて、身体を拭いてくれた。気持ちが良かった。

「熱を出してぶっ倒れた人間が、そんなに嬉しそうな顔をするな」

と、世界が苦笑いをしながら言ったので、身体を拭いてもらってることが気持ちいいだけじゃなく、嬉しいんだと気がついた。こんな風に誰かに甘えるのは初めてだったから、甘えるのが嬉しいことだとは知らなかった。病気になるのは嫌なものだけど、こんな風に世話を焼かれるのは悪い気分じゃないと言うと、世界は俺の髪の毛をくしゃくしゃとかき回して

「バカなヤツだ」

と笑った。

◇◇◇

 布団に横になって、少しの間話をした。薬のせいで、ずいぶん眠ってしまったようで、目を覚ました時に見える筈の世界の顔はなかった。便所にでも行ったのかとしばらく待ってみたけど、世界は戻ってこない。火の消えたガスストーブは冷たくなっていた。布団から抜け出して三和土を覗くと、俺の靴しかなかった。世界がいない。それだけで胸に不安のような感情が広がる。俺は急いで上着を取りに奥の部屋に戻った。そして世界を探しに行こうと靴に足を突っ込んだ時、目の前でドアが開いた。

 世界と目が合った途端、奴の拳が頭に飛んできた。

「バカ野郎。何のつもりだ」

そう言うと世界は、俺の襟首を掴んで奥の部屋に入る。乱暴に上着をひったくられて、布団の中に押し込まれた。

「熱で足下がフラフラしてるくせに、どこへ行くつもりだったんだ」

世界は本気で怒っていた。不機嫌そうな顔で睨まれ、俺は目が覚めたら世界がいなくて、便所にもいなくて、もう帰ってこないような気がしたから探しに行こうとしたことを、正直に言った。そうしたら世界は、心底呆れたような顔になって溜息をついた。

 怒らせるつもりじゃなかった。ただ、わけもわからなくなって、それから一人でいるのが嫌で、世界の顔が見たくて、何をしていいかわからなくって、外に行けば世界がいるような気がした……。そんなことを脈絡もなしに言った。熱のせいで冷静じゃなくなっているのがわかる。言い訳にもならないことを、混乱した思考と言葉でどんなに言い連ねたところで、俺のしてしまったバカなことが消えてなくなるわけでもないのに……。それでも何かを伝えたかった。それが何かは俺にもわからない。世界がいないと知った時に感じた不安のようなものを伝えられたらいいのにと、気持ちはバカみたいに焦るのに、うまく言えなくて情けなくなる。

 不意に世界の唇に言葉を遮られた。俺は目を閉じて、それから世界の首に腕をまわしてしがみつく。世界が強く抱いてくれた。

「悪かった。よく寝てたから、起こさないほうがいいかと思ってな」

世界が耳元で言う。世界は悪くない。俺の早とちりが悪い。何度も謝って、世界の身体に顔をこすりつけると、世界は背中を撫でてくれた。

 世界の手は不思議だ。ただ背中を撫でられるだけで、落ち着いてくる。それから、少しずつあたたかな気持ちになってきて、俺はようやく冷静になれた。そうだ。世界は理由もなしに、黙ってどこかへ行くようなヤツじゃない。それを知っていたはずなのに、どうしてさっきは忘れてしまっていたのだろう。仏頂面だけど面倒見が良くて、妙に責任感の強いこの男が、病人を放ったらかしにするわけがないのに。

 世界に悪いことをしたような気持ちが強くなって、もう一度謝った。

「薬をもらってきた。もう大丈夫だとは思うが、40度を越える熱を出した後だけに、大事をとったほうがいいだろう。それから……そろそろマシな飯も食える頃だろうから、うどんの出前を頼んできた」

と、世界が言った。それを聞いた俺は、自分のバカさ加減が嫌になった。それから、もう一度謝った。

「お前、本当にバカだな。こういう時は謝るんじゃなくて、礼を言うもんだ」

世界は笑って言う。もう怒ってはいなかった。

 それから世界は玄関先に置いたままにしていた紙袋の中身を、俺の枕元に並べて見せてくれた。羊羹、最中、饅頭、懐中汁粉、みつ豆の缶詰、ミカン。リンゴは食べ飽きたと思って買ってこなかったらしい。チョコレート、菓子パン、それに煎餅。まるで遠足のおやつみたいだと言ってやった。それから、俺の好物ばかりだってことも。

◇◇◇

 昼飯は鍋焼きうどんと握り飯だった。うまかった。熱はまだあったけど、腹は減っていた。全部平らげて薬を飲む。それから、世界が買ってきてくれた饅頭を食う。

「病み上がりのクセに、よく食えるな」

と、世界が呆れたように、でも嬉しそうに笑う。俺も笑った。話をしているうちに眠くなった。

 話し声が聞こえた。目を開けるとヘボピーと両国とチャーシューがいた。身体を起こすと、両国が半纏を肩にかけてくれる。

「鬼の霍乱だな」

と、ヘボピーが笑う。

「よかったなぁ、飛葉よ。おめぇ、風邪ひくくらいは利口だったんだな」

と、チャーシューが言う。

「あんまり丈夫なもんだからよ、バカじゃねーかって心配してたんだぜ」

ヘボピーに背中を小突かれた。それを見た世界が

「おい、まだ本調子じゃねぇんだ。本気で叩いて、壊すなよ」

と言った。そうしたら両国が

「これくらいのほうが、静かでいいやね」

と笑う。俺が悪態をつくと、他の連中が笑った。

 夕飯は、チャーシューの店から届いたラーメンとチャーハン、それからニラレバ炒めだった。全部食った。うまかった。薬を飲んで、ミカンを食べる。

 この二日間、世界はどうしていたのかと尋ねた。

「6時間おきにお前にすったリンゴ食わせて、薬を飲ませてた。あと、そのへんの本を読んで、押入から引っぱり出した毛布にくるまって寝てたな」

熱が出て何もわからなくなっていた間に、ひどく世話をかけてしまったことがわかって、申し訳ないような気持ちになった。世界が病気になった時は、俺が看病してやることにした。そうしたら

「お前……俺を病気にしたいのか?」

と、世界が言う。それもいいかもしれないと思う。俺はお粥だって作れるから、看病役には打ってつけだ。

「そうだな……その時は、遠慮なく世話になろう」

世界がそう言ってくれたので、俺は嬉しくなった。

◇◇◇

 寝る前の薬を飲んだ。熱もだいたい下がったので、世界と一つ布団で寝た。

 こんな風にくっついて眠ると安心する。煙草の臭いとヘアトニックの臭い。世界の臭い。世界の体温を感じながら眠るのが好きだ。だから俺は、できるだけ世界にくっついた。キスされた。

「続きは、お前が元気になってからだな」

と世界が言うので、俺はちょっとだけ悪態をついて、それから目を閉じた。

 背中を撫でてくれる世界の掌のあたたかさに安心する。


同じ出来事を、違う視点で見るとどうなるかな……と、
思って書いてみたんですがね。
ちょっと季節外れですが、インフルエンザの季節は3月頃までらしいので
滑り込みセーフということで……(苦笑)。


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