ランディの落とし物-1


 金の髪の女王候補アンジェリークは、女王試験のために飛空都市に来てからというもの、すっかり体調を崩していた。常春の飛空都市は過ごしやすい場所ではあったが、アレルギー性鼻炎で花粉症の彼女にとって、ある意味ではとんでもない所でもあったのだ。四季を問わず咲き乱れる花々から放出される花粉、そして庭園や森に植栽された針葉樹から晴れた日に噴出される花粉は、彼女の敏感な鼻孔を容赦なく攻撃する。そのため彼女の鼻は常に詰まっている状態が続き、今では嗅覚さえもこの上なく鈍くなってしまったのであった。

 ある日のことである。もう一人の女王候補・ロザリアの勧める「逆療法」を実践するために、彼女は守護聖に育成を願い出に聖殿に向かう途中、公園に立ち寄った。出会ったばかりの頃はお互いに対抗意識のほうが強かったのだが、試験が進むに従い、二人は強い友情で結ばれつつあり、そのキツイ口調と裏腹に面倒見の良いロザリアは、何かとアンジェリークを気遣い、特に金の髪の女王候補を悩ませている花粉症の改善に心を砕いてくれている。ロザリアの優しい心遣いが嬉しくて、アンジェリークは彼女の勧める民間療法や化学療法の殆どを実践しているのであった。現在行っているのは、花粉に対する免疫を高めるため、自ら花粉を体内に取り入れるという民間療法であった。

 アンジェリークが噴水の前に来た時、一人の男が小さな紙袋を抱えて溜息をついていた。人なつっこいアンジェリークは、男に明るい声で挨拶をした。

「こんにちわ!! どうしたんですか?何だか元気がないみたい」

「あ、アンジェリークさん。実は今朝、公園の遊歩道で守護聖様の落とし物を拾ったのです。私は聖殿に入ることを許されてはいないので、どうしたものかと考えあぐねていたのです」

「あら、じゃあ私が守護聖様に届けてあげるわ」

男はアンジェリークの言葉を聞いて、大きな声をあげた。

「えーっ!! 女王候補のあなたに、そんなことをお願いしては……」

「いいのよ、私、これから守護聖様のところに育成をお願いに行くの。だから、ちっとも大変なんかじゃないわ。ね、落とし物はなぁに? それにしても、どうして守護聖様の落とし物だとわかったの?」

「はぁ……タオルなんです。上等のタオルですから守護聖様のものに違いないのですが、どなたのものかはわからないのですが……」

「大丈夫!守護聖様、お一人お一人にうかがえばいいんだもの」

男は申し訳なさそうにアンジェリークに紙袋を渡すと、念を押すように言った。

「アンジェリークさん、この紙袋は守護聖様の所に行くまで、決して開けないと約束してください」

「ええ、わかったわ。落とし物を大勢の人に見られたりしたら、守護聖様が恥ずかしい思いをされるものね」

「いえ、そういうわけでは……」

アンジェリークは男の話を最後まで聞かないうちに、小走りで聖殿に向かっていた。残された男は、次第に小さくなるアンジェリークの背中を心配そうに見送っていた。

◇◇◇

 アンジェリークが最初に訪れたのは、闇の守護聖の執務室であった。昼なお暗い部屋の主・クラヴィスに育成を願い出た後、彼女はクラヴィスに公園で預かった落とし物について尋ねた。

「……タオルだと……。私はタオルなど持ち歩かぬが……」

「そうですか。それではクラヴィス様、このタオルの持ち主をご存じありませんか」

彼女は紙袋からタオルを取り出し、クラヴィスに見せた。感情と表情を変えぬことで有名な闇の守護聖は、そのタオルを差し出された途端、端正な顔を大きくゆがめた。

「こ……これは……」

彼の苦悶の表情に気づかないアンジェリークに、クラヴィスが言った。

「……お前は……何ともないのか、この……」

クラヴィスの言葉の意味が理解できないアンジェリークは彼の言葉の続きを待ったが、それが発せられることはなかった。普段から口数の少ない彼から、落とし主の手がかりを得ることが不可能だと考えたアンジェリークはタオルをしまうと、クラヴィスに礼を言って彼の執務室を後にした。そして扉が閉められるやいなや、数年ぶりに闇の守護聖は執務室の全ての窓を開いた。部屋の中に入ってきた新鮮な空気を存分に吸い、ようやく平常心を取り戻したクラヴィスは、扉のほうを向いてぽつりとつぶやいた。

「……あの臭いに動じぬとは……あの娘、相当にたくましいようだ……」

 闇の守護聖の執務室の右隣は光の守護聖・ジュリアスの、そして左隣は風邪の守護聖・ランディの執務室である。

「あら、ランディ様はいらっしゃらないのね。残念だわ。そうだ、ジュリアス様の執務室に行こうっと。守護聖の長であるジュリアス様なら、きっと持ち主をご存じだわ」

◇◇◇

 謹厳実直を絵に描いたようなジュリアスは、女王候補として特別な教育を受けていないにもかかわらず、ロザリアに切迫するほどの成果を上げているアンジェリークに気に入っていた。最近ではアンジェリークの努力に対する誉め言葉さえ口にするようになっている。金の髪の女王候補が守護聖のものと思われる落とし物を預かり、持ち主を捜しているという話を聞き、彼は人の良いアンジェリークらしいと、微笑ましく思った。

「うむ。では、その落とし物とやらを見せてもらおうか」

アンジェリークは紙袋からタオルを取り出すと、ジュリアスの顔先にぶら下げた。その途端、誇り高い光の守護聖は、その強烈な異臭にむせ返りそうになったが、総動員した理性でこらえた。ジュリアスは守護聖の長としての責任感から、そのタオルをつぶさに観察しようとしたが、大量の汗が原因となっていると思われる臭いが邪魔をする。懸命に目を開こうとするのだが、もはや暴力とさえ言えるような強い臭いが美しい碧眼を刺激するため、落とし物の特徴を見つけることさえかなわなかた。

「アンジェリーク……。そなたは……この落とし物を目の前にして、何とも思わぬのか」

「早く落とし主の方にお届けしたいと思います」

「……いや、そうではなく……」

ジュリアスは無邪気な金の髪の女王候補の言葉に目眩を覚え、全力を絞ってようやく彼女に言い渡した。

「残念だが、私にはわからぬ。他の者に尋ねると良いだろう」

アンジェリークは光の守護聖に一礼すると、訪れた時と同じように軽い足どりで執務室を出て行った。彼女の足音が遠ざかるのを確かめたジュリアスは執務室の窓を全て開き、新鮮な空気を取り入れた。ようやく人心地ついた彼は一抹の不安が胸をよぎるのを抑えることができず、思わず独り言を口にしていた。

「あの異臭に動じないとは……鈍すぎる」


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