ランディの落とし物-2
聖殿の二階の廊下を歩いていたアンジェリークは、中庭の方向から聞こえる賑やかな声に気づき、バルコニーから中庭をのぞき込んだ。中庭のテーブルには地の守護聖・ルヴァ、水の守護聖・リュミエール、そして夢の守護聖・オリヴィエがお茶を飲んでいるところだった。
「ハーイ! アンジェリーク。お茶、飲んで行かなーい?」
金の髪の女王候補に気づいたオリヴィエが、彼女をお茶に誘った。
「こんにちは、アンジェリーク。えー、今日のお茶はリュミエールが持ってきてくださったハーブティーですよー。少しハチミツを入れましょうかー?」
のんびり屋の地の守護聖が、いつもの間延びした口調でアンジェリークに話しかける。
「さ、お菓子をどうぞ、アンジェリーク」
優しい微笑みを浮かべたリュミエールは、彼女のために菓子が盛られた皿を引き寄せてくれる。アンジェリークは三人の守護聖に礼を言い、ハーブティーと菓子を味わい、他愛のない話に花を咲かせた。ハーブの優しい香りと芳しい菓子の香りが運ぶ午後の優しい時間を、4人は心から楽しんでいた。
「おやぁ〜、アンジェ。アンタってばずいぶん大事そうに抱えてるじゃない。その紙袋」
夢の守護聖が彼女の膝に置かれた紙袋に気づいた。
「あ、そうだ。今朝、公園で守護聖様の落とし物を預かったんです。皆さん、どなたが持ち主か、ご存じありませんか」
そう言うと、彼女は紙袋にしまわれたタオルをテーブルの上に置き、袋の口を開いた。
「……!!」
強烈な異臭が鼻孔を激しく鼻孔を刺激した瞬間、三人の守護聖は言葉を失うどころか、身体の自由さえ奪われてしまった。ついさっきまで周囲にあふれていたハーブティーの芳香は消え失せ、菓子の香ばしい香りの片鱗さえ見つけることができない。ケホケホとせき込んでいるのは、最年長のルヴァ。リュミエールは表情を失い、焦点の合わない水色の瞳はあらぬ方向を見つめるばかり。不測の事態に、そしてダメージに比較的強い体質のオリヴィエでさえ、テーブルから顔を背けている。
「お名前が書いてないので、どなたのものかわからないんです。守護聖様、皆さんをお訪ねすればきっと、持ち主がわかると思ったんです。皆さんはお心当たりありませんか」
人の良さそうな笑顔を浮かべるアンジェリークに、オリヴィエが言った。
「アンタ、他の誰かにも聞いたの?」
「ええ。最初に育成をお願いにあがったクラヴィス様に。それからジュリアス様にもお聞きしたんですけど、お二人ともご存じないようでした」
その言葉を聞いたリュミエールは弾かれたように席を立ち、ルヴァも急いでその後を追った。
アンジェリークと二人きり残され、更に詳しい話をアンジェリークから聞き出したオリヴィエのもとに、リュミエールとルヴァが戻ってきた。二人はアンジェリークがいないことを認めると、安堵の表情を浮かべた。
「二人の様子はどうだった?」
「幸い、クラヴィス様は既に立ち直られていました。持ち主の見当はおつきのようでしたが……」
「あー、ジュリアスもおおよその予測はできたようですが、あの臭いのせいで話すこともままならなかったそうですよー」
戸外にいた自分たちでさえ正気を失いそうになった異臭を密室で嗅いだ二人に、三人は同情を禁じ得なかった。
「カビ……はえてましたねー」
「なんかさ、垢で薄汚れてたもんね、アレ」
「午後の陽射しに温められたせいでしょうね。全ては」
「あ〜、のんびりしている場合じゃありませんよ〜!!アンジェリークはこれからもあの危険物をあちこちに持ち歩くのは明白です。他の人たちに知らせなくてはなりません」
珍しく大きな声を出して慌てふためく地の守護聖の言葉を機に、リュミエールとオリヴィエは事態の収拾のために聖殿へ向かった。
◇◇◇ 年少の三人の守護聖を除く守護聖全員が聖殿内のサロンに集結していた。彼らは日頃の確執を越えて今、その力を合わせようとしていた。アンジェリークの好意を無にすることなく、そして彼女を傷つけることなく危険物を回収し、その持ち主に届けるために。それは極めて簡単なことのはずなのだが、人智を越えるほどの異臭を放つ物体を預かろうと言い出す者が誰一人なく、時間だけがいたずらに過ぎていく。風の守護聖の私邸で働く者に預けるという案も出たが、それではアンジェリークが納得しないであろうし、何よりも落とし物を押しつけられる使用人があまりにも気の毒すぎると言う理由で早々に却下されている。そこへ藍色の瞳のもう一人の女王候補、ロザリア・デ・カタルヘナがやって来た。
「アンジェリークったら、どこにもおりませんわ。きっと、あちこちをうろついているんだと思います。あの娘ったらお散歩が大好きなんですもの。ああ、こんなことをしている間に、取り返しのつかないことにでもなったら……」
常に冷静なロザリアが取り乱す様子を見て、守護聖たちは心を痛めた。そこへ鋼の守護聖・ゼフェルと緑の守護聖マルセルが、ランディの捜索から戻ってきた。
「駄目です。心当たりは全部探したんですけど、ランディってばどこにもいないんです」
「ったくよー、あの大馬鹿野郎、こっちはいい迷惑だぜ」
「アンタたちはまだ被害に遭ってない分マシよ」
「最悪の事態になる前に、警備兵を動員するか?」
オスカーの言葉に異を唱えたのはジュリアスであった。
「守護聖の恥を飛空都市にいる者全てに明らかにする訳にはいかぬ。我ら守護聖、そして女王候補が力を合わせて事態を収めるほかないのだ」
危険物と知らずに、それを持ち歩いているアンジェリーク、ランディの足どりを掴めない守護聖たちの表情には苛立ち色が見える。オスカーとオリヴィエ、リュミエールが二人を探すために部屋を出ようとした時、紙袋を大事そうに抱えたアンジェリークが現れた。
「こんにちは、皆さん。ロザリア、私に用ってなあに?」
その場に居合わせた、金の髪の女王候補以外の者が皆固唾を飲み、心なしか身体を後退させた。ロザリアが慎重にアンジェリークに言葉をかけた。
「アンジェリーク。その袋……」
「あのね、ロザリア。今朝……」
ロザリアの言葉を遮り、アンジェリークが袋の口を開けようとした。オスカーが素早くそれを阻止し、アンジェリークの手から紙袋を奪取するために動いた。炎の守護聖が袋を手にするより一瞬早く、再び扉を開く音がした。
「あっれー、どうしたんですか。みんなここにいるなんて」
そこには風の守護聖・ランディが爽やかな笑顔で立っていた。誰もが一目置くほど優れた運動神経を持つ彼は、脳細胞が筋肉でできているのではないかと囁かれるほど、メンタルな部分では鈍感だったため、他の者の表情が殺気を含んだものになったことに気がつかなかった。そして重度のアレルギー性鼻炎で嗅覚が麻痺しているアンジェリークも、周囲の状況の変化を全く意に介さず、ランディに明るく挨拶をした。
「こんにちわ、ランディ様。あ、ランディ様、今朝タオルを落とされませんでしたか? 私、公園でタオルを預かってるんです」
「そうなんだよ。今朝、遊歩道をジョギングした後、噴水で顔を洗っている時になくしちゃったんだ。俺の憧れのサッカー選手の引退試合の時に投げられたもので、手に入れてから一度も洗ったことがないんだよ。すごく大切にしてたんだ。アンジェリークが持っていてくれたのかい?」
「ええ。ランディ様」
オスカーが止めるよりも早く、アンジェリークはランディに袋から出したタオルを差し出した。
「ああ、これだ。ありがとう、アンジェリーク」
「いえ、どういたしまして」
「そうだ。このお礼にコーラをご馳走するよ」
トレードマークの無駄に爽やかな笑顔を浮かべ、ランディはアンジェリークを伴ってサロンを後にした。そして部屋の中には異臭に鼻孔の粘膜を破壊された8人の守護聖と、藍色の瞳の女王候補が取り残されたのであった。ある者は異臭を吸い込んだショックで意識を失い、ある者は朦朧とした意識の中で身体の力が抜けていくのを感じ、またある者はショック症状を起こしていた。
◇◇◇ 後日、風の守護聖の私邸と執務室が捜索され、ありとあらゆるものが洗浄・消毒処置を施されことになり、本人は光の守護聖から終日にわたる説教をいただくことになった。そして金の髪の女王候補のためにアレルギー性鼻炎と花粉症を専門とする優秀な医師が招かれ、彼女の症状の軽減と根治のために働くことになったのである。
アンジェリークデュエットの落とし物イベント。ランディの落とし物はタオルでした。
それを知った瞬間、「くっさー!!」汗まみれのタオル!!
と思った人はどれくらいいるのか少し気になります。
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