憂いの理由(わけ)1


 最後の書類に優雅な曲線を描き終えた羽ペンが、艶やかに磨かれた机上のペントレイに置かれる。ペンを操っていた長い指は流れるような導線を描きながら、乾ききらぬインクをそっと、吸い取り紙で押さえた。それから既に処理を終えた紙の束を一つ一つ確かめ、最後の一枚を添えた。

「私が、お届けいたしましょうか」

 午後の執務を終えた安堵感と開放感からか、小さな深呼吸をした闇の守護聖・フランシスに、闇の守護聖付の補佐官が問う。

「そう……ですね……」

僅かに伏せられた、長い睫毛が震える。

「いえ、私が行きましょう」

 書類を届けてから、少し中庭で気分転換をしてくると告げると、微かな衣擦れの音だけを残し、執務室を後にした。

◇◇◇

 首座の守護聖ではないが、いつの間にやら実務の総指揮を執っている地の守護星・ヴィクトールに書類を届けると、フランシスは早々に重厚感に少々過ぎる印象の執務室を出る。質実剛健を絵に描いたような人柄に敬意を払いはするものの、その内面には特に興味を抱けない人物との会見は、僅かな時間でも妙な疲れを感じてしまう。フランシスはドアを静かに閉めると、気持ちを切り替えるように瞑目しようとした時、隣の執務室のドアが閉まる音が聞こえた。

「レディ……!」

 音の方向に視線を向けると、そこには伝説のエトワール・エンジュが佇んでいた。

「これは……素敵な偶然ですね。思いがけない幸福な偶然は……いえ、徒に言葉を重ねるのは無粋というもの……それほどに私の心は、喜びに震えているのですよ……」

 突然の出会いに驚いたのか、エンジュの瞳は大きく見開かれている。そして、その瞳は僅かに濡れていた。

「レディ。何か……あったのですか? もしや、エルンストと誤解や行き違いが……? 私では、貴女の力になれませんか?」

 大丈夫だからと、エンジュはフランシスに明るい笑顔で答える。けれど少女の頬から微かな翳りは薄れはしても、消えることはない。その様子に、フランシスの心が痛む。

 二進法でしか物事を計れないに違いない、絵に描いたような堅物が、可憐な少女を傷つけることなどあっていい筈がない。常日頃から人に常識を強要する無粋な輩に、常識に外れているどころか非人間的に振る舞われては、正直なところ、不愉快だ。しかも相手がエンジュとなれば、感情の振り子は当然のごとく不穏な方向へと向かう。

 だが、しかし、である。今はフランシスが愛でてやまない少女に手を差し伸べる方が先だ。

「レディ……少しだけ……そう、少しだけ、貴女の貴重な時間を、私に分け与えてはくださいませんか?」

我が儘を許してほしいと囁きながら、小さな白い手を取ってやると、少女の頬が微かに染まる。

「実は先程、ようやく執務が一段落したのです。朝から少々根を詰めていたので、気分転換に散歩を……と考えていたのですが……レディ、よろしければ……お付き合いいただけませんか?」

「でも……お邪魔になりませんか?」

「どうか……哀しいことをおっしゃらないで……。貴女が傍にいてくださることが、私にとって、何よりも価値あることだというのに……」

「本当に、お邪魔にならないのなら……」

「勿論です、レディ……貴女は闇の守護聖たる私に、安らかな癒しのひとときを贈ってくださる、唯一の存在なのですから」

 エンジュの言葉に耳を傾けながら、鋼の守護聖に邪険に扱われたかも知れない少女の小さな胸の奥に刻み突いたであろう傷に、フランシスは心を痛めた。そして同時に、暗い感情が生まれるのを感じる。勿論、矛先を向けるべき相手は唯一人。言い尽くせない不快感を微笑みの下に押し込めながら、フランシスはエンジュの唇から零れる、他愛のない言葉に耳を傾けている。

 ゆっくりと宮殿の廊下を並んで歩く時には少し俯きがちだったエンジュだったが、やわらかな陽射しが溢れる中庭に着く頃には元気を取り戻し、満開の花の下に据えられたベンチに揃って座る頃には、見慣れた明るい笑顔を取り戻していた。フランシスは彼女に気取られぬように安堵の息を吐くと共に、エンジュの心に影を落とした出来事を引き出すため、さり気なく話題を選んでいく。

 腐っても“元サイコテラピスト”。誘導尋問には多少なりとも自信がある。社交界でご婦人方の相手をそつなくこなしてきた経験を生かせば、伝説のエトワールとして数々の活躍を見せるエンジュも、今はいとけない少女でしかない以上、必要なことを聞き出すのは容易い。

 「笑顔が……もどりましたね……」

まるで天気の話をする時のようにフランシスが言うと、エンジュは大きな瞳をいっそう開いてフランシスを見た。それから恥ずかしそうに目を伏せて、

「フランシス様には敵いませんね」

と、笑った。そしてフランシスは誠意を込めて、今、彼女を苦しめている何ものかを聞かせてほしいと請う。微笑みと、優しく甘い言葉を巧みに使い、それと知られぬように密やかな恫喝にも似た言葉を重ねながら、彼は静かにエンジュへと語りかける。


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