憂いの理由(わけ)2
思いを巡らせるように目を閉じてから、エンジュは人差し指を唇に添えて言った。
「ナイショにしてください。誰にも……言わないでくださいますか?」
「ええ。勿論ですとも、レディ」
「約束、してくれますか?」
「貴女が、お望みなら……全てを沈黙の闇の中に沈めましょう……この身が司るサクリアにかけて……」
躊躇うように口元に添えられたままのエンジュの手を取り、その白い指に吐息だけで口づけると、フランシスは誓いの言葉を再び口にした。秘密を共有はしても、決して他者には聞かせることはないと。その言葉にエンジュは困ったように微笑みながら答えた。
「胸が苦しくなるんです……エルンスト様の執務室に伺うと……」
「エルンストの……?」
「エルンスト様は、王立研究員で長く宇宙生成学を研究をされていたせいか、宇宙の発展に凄く興味がおありみたいなんです。それで、陛下やレイチェル様へのご報告が済むと一番に伺って、アウローラ号で訪れた星でのお話をしにお邪魔していて……それで、最近は奥の間にお招きいただくようになって……」
エンジュの言葉に耳を傾けているフランシスの胸中に、どんどんと不快感が広がっていく。だいたい、いつの間にエンジュを私室に招き入れるなど、世慣れた真似ができるようになったものか。たかだか、エルンスト風情が……!!
「奥の間……そこで、何かあったのですか?」
負の感情を微笑みの下に押し隠し、フランシスが問う。
「いえ、何も。ただ……」
「ただ……?」
「不安になるんです、私」
「不安……に?」
「胸がドキドキして……それから、何だか手にも汗を……うっすらとだけなんですけど……そうしたら、次は咽がカラカラになって、途中で巧く話せなくなって……そうしたらエルンスト様も黙ってしまって……ううん、違いますよね。きっと、困ってしまったんですよね。私……嫌われてしまったかも……」
「レディ……!! どうか、哀しまないで……」
「フランシス様……」
縋るようにフランシスを見上げるエンジュの瞳は、涙に濡れている。瞳の奥の不安に揺れる心を敏感に悟ったフランシスは、溢れそうになっている涙をそっと指先で受け止めた。
「私が力になります。二人で考えましょう、エンジュ。何が……貴女を苛むのか……」
フランシスはできるだけ優しく、少女の心に沿うようにとの想いを込めて囁いた。しかし、その胸下三寸辺りでは、おどろおどろしい感情が渦巻いているのである。
エルンストの分際で、聖獣の宇宙のために汚れなき心で尽くす伝説のエトワールを哀しませるなど、言語同断。百万歩譲ったとしても、女性に涙を流させるだけで紳士の風上にも置けぬ。ましてやエンジュが、ことの次第によればエルンストに心を寄せているかも知れないのだ。よりにもよって、あのエルンストに。それは、いくら何でも看過できない話である。
「少し、質問をしますね。執務室では……いかがですか? 苦しくはありませんか?」
「えっと……いえ、執務室は平気みたいです」
「では……奥の間、だけが苦手なんですね? 他の場所はいかがですか? そう……例えば、謁見の間や他の守護聖の執務室は……」
フランシスの言葉にエンジュは瞳を見開いて、頭を振った。
「不思議なんですけど……エルンスト様の奥の間だけが、苦手みたいです」
「では、その部屋に、何かがあるのでしょうね」
微笑みかけると、エンジュは真剣な瞳でフランシスを見つめ、力強く頷く。
「例えば……互いの距離が普段よりも近すぎるだとか、少し遠いだけでも、不安になったりする人は、案外と多いものです。そういった心当たりは?」
心当たりはあるかと問うと、エンジュは真剣な表情で自身の裡に意識を向け始めた。
そしてフランシスは、彼女の言葉と最近のエルンストの様子から、一つの仮設を立てるに至る。
エルンストが一守護聖としての立場にふさわしくない好意をエンジュに向けているのは、薄々知っていた。彼女の姿を近くで見かけると一瞬にして赤面して狼狽え、その後、取り繕うかのような真面目腐った顔になる。かと思えば、遠くの物陰からエンジュを見つめていることもあった。時折、直接交わす言葉の中に、エンジュへの想いを窺わせるものを見つけたりもしたものだ。だいたい、あの四角四面を絵に描いたような男が私室に、自分以外の人間を招き入れること自体が、語るに落ちているとも言えよう。
そしてエンジュは……彼女はおそらく、彼女自身も知らぬうちにエルンストに心惹かれているのだろうとも、フランシスは思った。私室に二人きりという距離に戸惑い、胸が高鳴っていることに気づきもしない、汚れを知らないその心の裡を思うだけでフランシスの心に優しい感情が生まれる。ただ、彼女が想う相手が自分でないことが、寂しい。けれど、エンジュが幸福になるのであれば──かつて彼女がフランシスの背中を優しく押してくれたように、自分も振る舞うべきなのだろうけれど、自分にとって運命の天使に等しい少女はにはまだ、できれば誰のものにもならないでほしいと願わずにいられないのだ。けれど、エンジュが恋をしているのであれば、力になりたいと思うのもまた、フランシスの真実である。
相反する願いを前に、フランシスの胸は懊悩するばかりだった。
「あ、わかった!! わかりました、フランシス様。というか、思い出しました、今!!!」
溌剌とした声に我に返ると、エンジュが瞳を輝かせてフランシスを覗き込んでいる。
「レディ……答が、見つかったようですね」
「はい、フランシス様のお陰です」
「私は、何も……。真実を見出したのは、レディ。貴女自身です」
見出した答を聞かせてもらえるだろうかと、フランシスが言った。エンジュは満面の笑顔で応えると、
「子供の時の、かかりつけのお医者様を思い出してたんですよ。だから、ドキドキしたんです、私」
「お医者……様、ですか」
「はい! そのお医者様、腕も面倒見も凄く良い方なんですけど、子供があんまり泣いてると、お尻に注射するんですよ、凄く大きくて痛いのを。だから病気になって、連れて行かれるのが恐くて……きっと、その時のこと、思い出したんです、自分でもわからないうちに」
「子供の頃の出来事が、無意識下に影響するのは珍しくはありません。けれど、レディ……何か、きっかけはありましたか?」
「奥の間が、病院の待合室そっくりなんです」
とっておきの秘密を打ち明ける子供のような瞳で、エンジュがフランシスを見つめる。
「待合室……」
「それにエルンスト様のお召し物って、白っぽいでしょう? それが白衣のイメージに重なって、何だかわからないうちに恐くなったのかなって」
「では……エンジュ。貴女は、子供の頃の、あまり良くない思い出のせいで、エルンストの……奥の間が苦手だったと……?」
「それしか、考えられません!! だって、注射は誰だって苦手でしょう? 本当に痛かったんですよ、あの時の注射!」
熱心に語る少女に微笑みで応えながら、フランシスは先刻まで抱えていた懊悩が杞憂に終わったことを、素直に喜んだ。エルンストの想いはエンジュには全く届いていない。ならば、敵に塩を送るような真似を、例えエンジュのためであったとしても、する必要はないのだ。
「ねぇ、フランシス様はどう思いますか?」
不意に名前を呼ばれ、フランシスはエンジュを見つめた。
「お花をお届けしたら、待合室っぽくならないかなって、そう思うんです」
「そう……ですね。良い考えかも知れませんが……」
わざと言葉尻を濁してみると、その先を楽しげに、エンジュは待っている。
「しかし、それでは病室のようにはなりませんか? 私は伺ったことはありませんが、貴女のお話から想像したエルンストの部屋だと……」
なるほど、と、呟きながらエンジュは大真面目な思案顔を浮かべ、何か部屋が賑やかになるものを探してみると言った。フランシスは薄紅色の頬に戻った笑顔に心をときめかせながら、けれど、自分の狡さに気づかないふりで言葉を継ぐ。
「レディ……よろしければ、貴女がエルンストを訪れた後、私の部屋を訪ねてはくださいませんか? 私にも……どうぞ、貴女の旅のお話を聞かせてください。それから……エルンストへの贈り物のお話も……楽しみにしては、いけないでしょうか」
フランシスの願いを、エンジュは笑顔で快諾した。
◇◇◇
その後、エルンストの部屋には伝説のエトワールから贈り物として、ぬいぐるみだの絵本だの、およそ鋼の守護聖の部屋には似つかわしくないものが届けられ、部屋の主は喜びと困惑の入り交じる、複雑な表情で埃を払っているのだという噂が、まことしやかに聖地に流れたのである。
「エルンストの奥の間は、病院の待合室」
という『床下の煩悩』の管理人・真木さんの言葉にインスパイアされてみました。
だから、真木さんに捧げられるようにとネタをくったんですが、
フランシスが気色悪いだけの話になってしまいましたよ。
てか、エルンスト出てけーへんし(笑)。フランシスは一見優雅ですが、ナチュラルに性格が悪いところがステキですね。
多分、新勢力の守護聖の中で一番ツラの皮が厚いですよ。
更に、根っこでは俗人でしょう、きっと。
ゲームでも結構、同僚に対して辛辣な物言いをするフランシスの物事の判断基準は
善悪とか良い悪いではなく、好きか嫌いか、気持ちいいか悪いかではないかと、
常々思っているワケなんですよ(笑)。
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