また・いつか・どこかで


筑波大学大学院農学研究科3年
建元 喜寿


時がたつのは早いもので、筑波にきて8年がたちました。この間、本当にいろいろなことがありました。いいことも、悪いことも。そしていろいろ考えて導き出した教師への道(有機農業新聞26号、29号〜31号)。おかげさまで、今年度の採用試験に合格し、今春より岡山県内の農業高校に赴任することになりました。
3月末の中退を控え、筑波大学生として有機農業新聞に関わるのは今号で最後になります。そこで今回はわずか25年ですが、生まれてから今日までを振りかえりつつ、今考えていることと、そして4月からのことを書いてみたいと思います。


生まれてみると、そこは山の中だった
私は1973年に、岡山県の最北端の小さな農山村の次男として誕生しました。曾祖父さんの葬式の最中に母親の陣痛がはじまり、小さいときはよくじいさんの生まれ変わりだといわれました。僕の生まれた村は、筋金入りの山の中。本当に山の中なんです。そして田舎です。去年、家を改築するまで、お風呂も薪で焚いていました。村の95%が森林で、人も1800人しかいません。そんな村で僕は生まれました。


小学校時代
幼稚園の時から、背の順ではきっちりと前から2番目をキープしていた僕は、小柄でまた体も元気な方ではありませんでした。しかし小学校入学ということでうきうきしていました。しかし、その小学校1年生の時に、その後の僕の性格に暗い蔭を与えることがおこります。それは、担任の先生でした。先生はとてもヒステリックで、僕たち(同級生わずか10人、全校でも60人に満たない小規模校でした)が問題に答えられないとすぐ怒って職員室に帰ってしまいました。希望に燃えて入学した僕らは早くも、心を傷つけられます。分からないから勉強するのに、先生がこれでは根性が曲がってきます。理科の実験でアサガオを栽培するときも、教材を投げつけられ、残念でなりませんでした。そんなことがあり、まだ先生にいろいろ意見などできない小学1年生の僕たちは、先生のご機嫌をとっていれば1日を平和に暮らせるので、先生のご機嫌取りの癖が染み着くことになります。今でもこの時のことは心のどこかに潜んでいる気がします。自分が、これからの教員人生の中で、この先生と同じ過ちを繰り返さないように、しっかりと考えておかなければなりません。


少年時代
空前のベビーブーム時代に生まれた私は、中学、高校と受験戦争にいやがうえにも巻き込まれていきます。そんななか、僕がなんとか中学・高校と過ごせて来れたのは家庭環境と故郷にあると思います。かりに私が都市部に住んでいて、今のようになれたかどうかには疑問があります。実体験の伴わない今の学校のなかで、それを補っていたのが田舎の暮らしです。もちろん、田舎の閉鎖性やあまりにみんなが近すぎて、いつもみんなに見られているようで、プライベートがないようでいやなきがすることもありました。それで、大学もわざと岡山から遠くの大学を選びました。しかし、オオサンショウゴをみなで追いかけ、風呂の薪を集め筏を作りみんなで川を下ったり、春の新芽や、夏の入道雲や夕立、ほたる、秋の紅葉、冬の雪と鼻をを突き抜ける寒風を胸一杯に吸い込んで、そんな環境のなかで少年時代を過ごしたからこそ、そして家族のことを最も大切にする両親に見守られて大きくなったからこそ、今の自分があると思います。


大学時代
大学時代は本当にいろいろありました。環境問題と食糧問題の勉強をしようと大学に入っても、ぐっと来る大学の講義はほとんどありませんでした。大学の先生の講義に絶望し、湿っぽい学生宿舎のベットの中でもんもんとしながら、3日間3晩つづけて「東京ラブストーリー」をみたり、みんなで宿舎の中で打ち上げ花火を手にもって打ちまくったり(なんか、学級崩壊を起こしている小学生と同じような気もする)。これではダメだと思い立ち、部活に入り運動を始め、仲間ができ元気を取り戻したりと。中学・高校と上の学校に行くことだけを考えさせられてきたツケが一気に爆発した感じでした。
そんななか、大学生活を続けていったわけですが、僕が大学に来た原点である、環境問題と食糧問題については謎と悩みが深まるばかりでした。当初はなんとかして沙漠を緑化したり、作物の増産を進めなければと考え、そういった技術面からの勉強と活動をしたいと思っていました。しかしどんどん悪化していく環境の中で感じたのは、環境問題は技術の問題ではないぞ。これだけ技術はあるのに環境がどんどん悪くなるのは、こりゃ人の問題だということでした。それから教員を目指し始めるわけです。


これからがはじまり、心を浄化し純粋さを取り戻す
大学では多くのことを学びましたが、田舎をでてからもう長くなり、その間にいろいろ純粋さをなくしてきたような気がします。きれいなものや美しいものを、純粋に受け入れずいちいち理屈を付けたり。素直にみれなかったり。
教育実習でははっとさせられる場面が何度もありました。たとえば藻の観察では、原形質流動(細胞がぐるぐるまわっている)をみて心底感動している生徒や、葉が光合成をしていて酸素が出ていているのをみて、僕の腕をつかみ、「先生、先生、ほらほら泡が出とるですごいすごい。」と一生懸命見せようとする生徒(もちろんこんな生徒ばかりではありませんが。)大人になっていろんなことが惰性で流れていく中で、本当に何度も心を洗われるようでした。
教育実習で感じたことは、子供達はやっぱり生きようとしていることでした。ちまたの高校生や、マスコミの報道だけをみていると、今の高校生はいったいどうなっとるんやということになりますが、2週間実習をやってみて高校生は一生懸命頑張っているし、だらしがなかったり物事に無感動なのは大人も一緒じゃないかと思いました(自分への戒めでもある)。生徒には本当に元気づけられました。そして自分の中で無くしかけているものを思い出させてくれました。


また葬式がはじまりに
教員免許状をとることや、採用試験に合格することがゴールではありません(もちろん、合格するのも大変ですが)。これからがスタートです。
正直に言うとこの正月は、今春からの教師への不安、僕がカナダに行ってから、なかなか病状が回復しない母のこと、大学院を中退することなどいろいろ考えていたら3日間寝込んでしまいました。しかし、寝込んでいる場合ではありません。時が来たのです。この教員採用試験難のなか、合格したことの意味をしっかりとかみしめなければなりません。親父の葬式を挟んで試験があり(7月21日記述試験、夜通夜、22日葬式、23日面接試験)そこでうかったことを。そして教師という職業の困難さ、そして重要さを。安っぽい言葉で、教育への希望を今は書きたくはありません。しかし、筑波での8年間いろいろ考え、人と出会い、暮らしてきたこと、自分が送ってきた生活に自負はあります。そんな自分の経験やよさと、生徒たちの良さとを分かち合いながら、教員生活を送っていきたいと思います。
この春から新たな生活へ向け一歩を踏み出します。頑張ります。


長かったモラトリアム期間を終え、この3月で長く住み慣れた筑波を離れます。最後になりましたが、物心両面から支えていただいた皆様に心から感謝申し上げます。そしてこれからもよろしくお願いします。いつの日かまたどこかでお会いできることを楽しみにしています。それでは。
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