資源植物栄養学・事始め

---新しい授業スタイルの創造---

報告・橘 泰憲


若者たちのトラウマ

 いま日本の若者たちの悩み(トラウマ)は深い。この1年間ともに学んできて、このトラウマは容易には乗り越えられないものであることを強く感じた。しかしそれと真正面からぶつかり、乗り越えたとき若者たちのエネルギーは爆発的に解放され、見違えるように生き生きしたものになる。若者たちを抑圧しているもの、スポイルしているもの、それは、奪自己決定権症候群ともいうべき病理現象である。これは若者に限らない、いまの日本社会のあらゆる場面で直面している行きづまり(閉塞)状況の根源であり、若者もまた自己決定権(自分の生き方は自分で決める)を奪われて苦しんでいるのだ。しかし一度若者が「自分の生き方は自分で決めればいいのだ」と気づけば、その袋小路から脱却できるわけで、問題はどうしたらそれに気づくことができるか、その方法を見極めることである。それがいまの教育の最大のテーマであるように思う。


自己決定権という思想

 ソ連邦が崩壊する直前にソ連政府は、日本に大調査団を送り「日本が経済国家としてなぜ成功したか」詳細に調べた結果、「日本は理想的な社会主義システムである」と結論づけたという報告書が一時期話題になった。山奥の橋や道路にいたるまで霞が関(中央官庁)で決まるシステムのことである。学校の教室で問題が起きたとき、校長にお伺いをたて、市の教育委員会、県の教育委員会、文部省とあがっていって、そのルートを逆にたどって指示がおりてきたときは、問題は手が付けられないほど深刻化していたというのが、この官僚システムの現実で、その構造転換が、いま求められている。
 いまの日本のシステムには自己決定権という思想がない。したがって誰も責任をとらないという驚くべき無責任社会になってしまっている。いまの日本社会の行きづまりの根幹はそこにある。われわれが自己決定権を取り戻すとき、日本社会は復活することができる。同様に若者たちが「自分の生き方は自分で決める」という自己決定権の思想を確立したとき、ほんとうに自分の人生を生きることができるようになれるのだ。


1年目の資源植物栄養学

 3学期の授業を始めるにあたって、まず心掛けたことは「有機農業論」とは違ったパターンの「新しい授業スタイル」にしようということであった。有機農業論では私がはじめに基本的なプレゼンテーション(講義)をして、それをもとにディスカッション(質疑応答)するという形式であった。3学期はさらに双方向性を高めるために少人数(20名)でセミナー形式で行なうこと。教室の机はロの字型に並べ変え、お互いに向き合って議論するというスタイルにした。授業内容は第1週目に各自の問題意識(モチベーション)を鮮明にしてもらうために自己紹介をしてもらい、資源植物栄養学の授業はスタートしたのである。
 授業内容を見てもらえばわかるように、はじめはスタンダードな植物栄養学の話から入っていったのだが、学生の発言を聞いていると「決まり切ったこと」(教科書のオーム返し)しか言わず、それについて私が根掘り葉掘りつきつめていくと、どうしても学生が受け身になってしまうので、5週、6週はセミナー形式で学生にプレゼンテーションしてもらい、7週以降は完全なフリートークとした。しかも学生がコーディネーターをやり、私はチューター(助言者)という立場で議論を展開した。これが思わぬ結末を引き起こしたのである。

資源植物栄養学の授業内容

第1週 資源植物栄養学でなにを学ぶか
     自己紹介・なにを学んできたか・なにを学びたいか
第2週 植物の栄養とはなにか
     必須元素・施肥量の根拠・土耕と水耕・植物と土
第3週 施肥設計の原理
     リービッヒの学説・最少養分律・三要素試験・試験場
第4週 宮沢賢治の肥料設計
     宮沢賢治の農の世界・羅須地人協会・肥料相談所
第5週 植物の神秘と永久機関
     有機農業とニューサイエンス・波動性・現象と潜象
第6週 森−川−海の生命循環
     有機農業と循環・東洋的自然観・水循環・海水の謎
第7週 フリートーク 「農業・農法・農業研究」
     内発的モチベーション・スタンダード・マニュアル化
第8週 フリートーク 「健康観・健康法・健康生活」
     健康の基準・ライフスタイル・食べものと食べ方
第9週 フリートーク 「教育観・教育法・ライフスタイル」
     これまでの教育・これからの教育・教育の原理
第10週 フリートーク 「一問一答・自分を語る」
第11週 フリートーク 「無題」
第12週 フリートーク 「いまを生きる」

双方向性・創造性・向上性という循環

 この授業の最大の成果は、新しい授業スタイルを創造することにより、双方向性が創造性を引き出し、創造性が向上性を引き出すこと、そのような循環が次の段階ではさらに高いレベルの双方向性を引き出すということが実証されたことである。今回も毎週 REACTION PAPER を書いてもらったが、第4週目あたりから毎回今回が一番面白かったという感想が多くなってきた。回を重ねるごとに面白くなるという現象が起きたということである。そこで私もすっかり気をよくして「フリ−ト−クの授業で、もし私が発言しなかったらどうなるだろう」というアイデアがうかび、第9週の授業では私は一切発言しないという実験授業をおこなうことにした。これがとんでもない結果を引き起こすことになる。


新しい授業スタイルの創造

 「授業内容」を見てもらえばわかるように、第8週目のテーマまでは大なり小なり「植物の栄養」に関連づけて考えることができるが、第9週ではなぜ「教育」なのか。まず私の授業スタイルは教科書的な授業はしないということを基本的スタンスとしている。教科書は読んでもらえばよいことで、読めばわかるように書かれている。参考文献も紹介されているから、興味があれば一冊の教科書を手掛かりに専門分野の知識をどんどん広げていくことが可能である。そのときガイド役の人(教師)がいたらこんな有り難いことはないが、勉強するのはあくまでも本人なのだから、何を勉強したいのか、たえず問題意識を鮮明にしながら(モチベーション)、自分で勉強していくしかない。私自身もそのようにして様々な分野の知識を広げてきた。授業では教科書に書いていないこと、この教室でしか学べないことを深く学ぶというのが、私の基本的スタンスである。
 ところがまずこのような授業スタイルの体験を学生はもっていない。そのために混乱が生じるわけだが、授業を重ねる中で議論(問答)しながら知識を深めていく面白さを学生は味わっていく。問いかけがあってはじめて人間は考えるわけで、私がモチベーション(なんのためにやるのか)を大事にする理由はそこにある。そうやって議論を重ねる中で出てきたのが「自分はなんのために勉強するのかわからない」「何をやったらいいのかわからない」という意見であった。これは現実なのであって学生だけを責めることはできない。「いい大学に入るという目的のために勉強する」というモチベーションでやってきた人は大学に入学したらモチベーションを失ってしまうのは当然である。つまり私が一番大事であると考えているモチベーションの問題でつまづいているのである。
 そこでこれは一度「教育とはなにか」という問題で議論する必要があると思った。それが第9週のテーマとして「教育」が設定されたことの次第である。


初めに言葉ありき

 その大事なテーマの授業で私自身は発言しないでやろうというのだから元々無理があった。議論が始まってすぐに、この授業スタイルの是非が論じられた。私自身が「まな板の鯉」になってしまったのである。しかも被告人である私はみずから発言を封じているのだから、苦しくってたまらない。主たる論点はこういう授業スタイルもあっていいが、教科書的授業スタイルもあっていいのではないかということであった。どこかで聞いたことがあると思ったら、これが「有機農業論の失敗の構造」と同じ(相似)なのである。いい面だけをつなぎ合わせていったら、もっといいものができるのではないかという例のアレである。
 いまの教育問題のなにが問題かといえば「旧来の枠組み」では問題を解くことができないから文部省をはじめとして「創造的教育」といっているわけで、私は教育にも「新しい思考の枠組み」が必要で、すなわち教育のパラダイムシフトを現実化すべきだと主張してきたのである。それを伝えることの難しさをまた思い知らされたわけで、歯ぎしりしながら聞くはめになってしまった。いわば拷問にかけられたようなもので、その時つくづく思ったことは、言葉の重要性ということであった。ここで発言できたら議論の流れを変えることができるのにと思うことがしばしばあった。
 この「沈黙実験授業」から私が学んだことは「教育の重要性」ということである。教育にとってもっとも大切なことは、問題(テーマ)を的確に把握しているかどうかということで、よりよい問題解決(答え)の方向へ議論が進んでいくこと(創造)ができれば達成感を味わうことができるから面白いということになる。それが今の教育に欠けているのではないだろうか。実際に第9週の授業は「つまらなかった」というものが多かった。


言論の自由と民主主義

 日本人一般に言えることだが、話し合い(議論)の仕方が下手であるという問題がある。議論をすること自体が互いに相手を言い負かすことだというつまらない誤解があるのだ。議論はよりよい結論を導きだす手段としてあるのであって、本来創造的なものであるし、議論は人間を向上させる。また議論することにより相互理解が深まるという効用がある。逆に議論しない人間は向上しにくいと言っても過言ではない。ここで大事になってくるのが自由な言論の保証ということである。教育の場でもとくにそれを大事にしていくべきで、授業の途中でも、もしわからないことがあれば自由に質問できることが保証されることが必要である。それだけでも教室の場を創造的にすることができる。
 日本の民主主義のこれからを考えるとき、日本人が議論の仕方に習熟していくことが、とても重要になってくる。「議論」というとすぐに毛嫌いする人がいるが、議論(話し合い)してはじめて相互に理解しあえるわけで、理解しあえなくても相違点をあきらかにするだけでも大きな意味がある。
 結局3学期の授業を通して学びあったことは、「学び方」「伝え方」「議論の仕方」といったことで、参加者が毎回2時間半にわたり、真剣にまじめに集中して授業に取り組めたことが最大の成果であった。とくにうれしかったことは授業の回を重ねるごとに8時40分の授業開始時間よりも早く来る人の数が多くなっていったことである。私はこの授業の中で繰り返しモチベーションの大切さを強調してきた。何をやりたいのか、自分のやりたいことを明確にすること、自分のテーマをつかむことの重要性を訴えた。受講生の何人かはあきらかに何かをつかんだように私には見えた。まだつかめていない人もそのことの重要性はわかってもらえたと思う。そこでこの授業の結末は次のようなメッセージで終えることになったのである。

いまを生きろ。
君だけの人生をつかむのだ。
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