1999年、俺出発!
                       
泉川 功一郎

『ああ、楽しかった』と思える今を生きる
 私は前回の記事で自分の大学4年間は解毒期間だったと書いた。実際、私は最近これまで自分を縛っていたあらゆる我慢から解放され、授業の受け方から、仕事の選び方と取組み方、本の読み方まで全てが変わっていった。自分にどんどんエネルギーが湧いてくるような生き方ができるようになってきた。それができるようになったのは、私自身が今の学問そのものの行き詰まりを認め、新しい学問を造っていこういう姿勢がはっきりしてきたからだと思う。大学のつまらない講義や机上の理屈だけが横行する煮えたぎらない議論の場でも、今まではほかの学生と同様、我慢して眠っていたような時間を過ごしていたのに、自分をむきだしにさらけだして言いたい事をだしきると、まるで何かが噴き出すように、まわりの人達の目も覚め、機関銃のように私への猛烈な反撃が始まり、そこから命のある本当の議論が始まった。つまらない授業も自分で楽しくしていける事に気がついた。
 全てについて言える事は何かをやり終えた時、心から『ああ、楽しかった』と思えたら、人は本当に自分の中に何かを創造し学べたといえるのではないか。そういう時間を絶え間なく過ごしていくことで、本当に自分がやりたい仕事や自分だけの一生のテーマが少しずつ見えてくる。そして、仕事でも勉強でもこの気持ちを伴わない時間の過ごし方は全く無意味だと悟った。どれだけ創造的な時間を過ごせたかが、その人の生き方に深く影響を与え、彼の放つ言葉に限りない力(言魂)を与えていく。


『わくわく楽しくなる掃除の仕方』の発見ーあおぞら保育園にてー
 いったい世の中にどれだけ、わくわく楽しく掃除をやれる人がいるだろうか。もちろん私も母親や彼女にしかられて、月に何度かしかたなく掃除をやっていたし、今も日常生活ではそう変わったとも言えず、他人にどうこう言うことは全くできない。しかし、あおぞら保育園で掃除のアルバイトをしていた私は、ある日突然子供達と一緒に、『わくわく楽しくなる掃除の仕方』を発見してしまった。
 その日、私は有機農業新聞ゼミ(1/19から開始)で仲間達と教育の問題について本質的な議論をしていた。大人がこれは常識だからとか、正しいからと言って、一方的に子供に強制したり、またそれに従わないことを理由に叱りつけることで、生き生きとしている子供達を萎縮させ、大人に都合の良い『いい子』をたくさん産みだす一方、のびのびしている子供が『悪い子』にされていった。勉強も掃除もあいさつの仕方までも、ただやらなきゃいけないものとしてたたき込まれてきた。今の大人達も同様にそういう教育を社会からうけてきて、深いトラウマ(心の傷)となり、子供達にも同じように繰り返してしまう。やはり何をやるにせよ、『楽しいから』とか『やりたいから』という子供達のやる気が重要ではないか。子供達の好奇心の方向は無限大に広がっている。彼等の新しい好奇心の芽は常にどこかで芽生えようとしている。それをいつも、摘んでしまわないように大事に大事に見守ってあげるのが教育だと思う。
 そんな事を頭に廻らしながら、私は掃除のアルバイトをしに保育園についた。女の子達がいつものように待っていたと言わんばかりの勢いで、ポケモンおにをしようとせがんできた。そこで、『僕もみんなと遊びたいんだけど、じゃあ急いで掃除を終わらせるよ。』と言うと、『私も掃除を手伝いたい。』という笑顔と言葉がみんなから気持ち良く返ってきた。頭に光が走った。子供達の好奇心の芽を私は発見したのだ。そこから、わくわく楽しい掃除の創造が始まった。
 子供達はそれぞれの思いでホウキやモップを手にして、ひっちゃかめっちゃか掃除?を始めた。そこで私はどうにかして、楽しくて、しかもきちんとモップ掃除ができないかと思った。その時すぐに私の頭にひらめいたのが、掃除ソングだった。『掃除はパズル、掃除はオセロ、黒を白にかえていく』これが子供達にうけてしまった。木の床の上をモップで拭くとぬれた跡がついていく。ここにヒントを得たのだ。みんなで歌にのりながら拭いていると、たまに誰かが『ああ、あそこぬれてない!』というと『ああ本当だ、黒を白にかえなきゃ!』と誰かがふきにいき、本当に巨大な塗りつぶしゲームをみんなでやっている気分になってしまう。
 その日以来、私のアルバイトの仕事は、子供達が掃除するのを盛り上げたり、雑なところだけを補う役目にかわってしまった。そして、一つ学んだ重要な事はたとえ子供達が関わる事で仕事が不効率になっても、楽しいという時間を一緒に共有できていれば、どんどんパワーがみなぎってきて、『時給いくら』というお金のものさしにはとらわれなくなる事か。私達はお金では買えない創造的な時間を生きている。子供達はただ遊ぶだけではなく、日に日に掃除の仕方もていねいにうまくなっていくのがうれしかった。私はこの子供達を通して、仕事というものの本質的な意味をとらえる事ができた。子供から学ぶとはこういう事だ。やっぱり、子供は何よりも私の宝ものである。


風とゆききし、雲からエネルギーをとれ
 大学5年目の私にとって1999年のスタートは、親から経済的に自立するための仕事探しだった。仕事探しの基準に、時給が安いとか仕事がきついとかはどうでもよかった。でもやれ常識がどうとか言って、一方的に命令する奴がしきっている職場は絶対に嫌だった。自分がエネルギーを得て成長できる場所、それを探し求めて直感的にたどりつけたのが新聞配達屋さんだった。この仕事を始めて一日目で、早くも私は一年間、この仕事で自分の生活費を稼ぎながら、本物の教師を目指して勉強していく事に確信を得た。
 『風とゆききし、雲からエネルギーをとれ』私が新聞配達を始めてから大好きになった宮沢賢治の言葉だ。朝3時半ごろ、まだ真っ暗な中を『よおーし』という言葉を口にしてでかけてゆく。お店についたら、『おはようございます。』と元気に挨拶をする。みんなからも元気な声が返ってくる。温かい気持ちになる。店長はみんな前を向いて生きている人達だからだよと私に言った。自分の新聞に折り込みをはさみ、自転車の荷台とかごに積んでいく。4時ごろ、さあ、出発だ。再び『よおーし』という大きなかけ声と共に体いっぱいの風をうけながら、お店を飛び出していく。
 『ああ、俺は生きてるなあ』空がしだいに黒から紫、そして赤へと明るくなっていく中、懸命に自転車のペダルをふみながら、冷たくて透きとおったおいしい空気を大きく吸ったとき、そんな言葉が心の底からジワジワと湧いてきた。ペダルをふみながら、風をきっていると、自分の夢は必ずかなうと思えるような勇気のパワーや、そこへ進むためのいいアイデアがどんどん浮かんでくる。そして、今日を大切に生きていこう、あまり先の事を考えずに、今を真剣に(充実感を伴うように)生きていけば、おのずと未来は開けると思えてくる。これが不思議なんだ。そうだ、私は巨大な何かに導かれている。よし、誠実にまっすぐに生きていこう。そうすれば、風も雲も鳥達も私の味方をしてくれる気がする。


新聞屋の店長は最高の教育者
 新聞配達の仕事は、各家のポストの形によって相手が新聞を受け取りやすいように、新聞の折り方と入れ方を工夫していく。雨の日には、屋根の形や風の具合も考慮して工夫していく。だから、一軒一軒、心をこめてが大切になる。でも、一度手を抜いたらとことん手を抜く事も可能かもしれない。『おや、新聞配達は教育と似ているなあ!』と私は思った。
 仕事初日、私は店長にこのような新聞配達の極意をしっかりと聞かされながら、一緒に廻った。店長は一軒一軒、『ここの何さんはこういう人なんだ』とまるでその人の姿が彷彿するように話す。そして、ある家でポストのすぐ下に全く読みもしない状態でだらしなく積まれているのを見て、店長は『うちらが一所懸命やってるのに、読まないでこんな事をするんなら、とってもらわないで結構だ。あとで電話してみよう。』と怒って話した。体がビリビリ震えてきた。この時私は決めた、この店長のところで学んでいこうと。私の中で新聞配達を極める事は教育を極める事につながった。そうか、こういうところにこそ、私が求める教育者がいたんだ。店長のことは、また折々じっくり話したいと思う。自分にはとにかく厳しく、そして他人にはとにかく元気づけること、この生きる姿勢を店長からいつも学んでいる。そして、前へ進んでいくエネルギーをもらっている。


私の夢『僕は自分で新しい学校をつくりたい』
 新聞配達を始めて5日目の朝、仕事から帰ってすぐに実家へ電話した。一浪している弟の大学入試の翌日でそれが気にかかったからだ。母が電話にでて、相変わらず元気がない弟の話を聞き、『ところであんたは最近どうなの』と聞き返された。私は少し間を置いてから『お母さん、僕はやっと何かをつかめた気がする。僕は最近毎日が、、、』と話し始めたちょうどその時、目から涙がボロボロ流れてきて、言葉がでなくなった。。『お母さん、僕は今毎日がすごく充実していて、この気持ちは久しぶりなんだ。』そう言った。
 久しぶりというのは小4から中学校の始め頃以来という意味だった。小さい頃、僕はもともと内気で自信のない子供だった。そんな私に初めて自信を与えてくれたのが小4の音楽の先生だった。先生にほめられて、何度もみんなの前で一人で歌わせられた。私もやればできるという自信を得、また歌が大好きになった。この体験は大きかったと思う。私は見違える程生き生きするようになったし、今でも歌は自分を支え続けてくれているのだから。そして、その勢いで中学生になるといつしか、受験勉強にのめり込むようになった。私は母親の影響でエリートにあこがれていた。そして、人間はここまでやれるのかと思える程のモチベーションで死ぬ程勉強した。見事高校には合格した。ところが、中学の後半ごろから私は人と話ができない程人格もゆがみ、完全に行き詰まった。ここから、私の『本当にやりたいこと』を探す長い旅が始まった。そして高校3年間と大学4年間をかけて今やっと見えてきた。気持ちが今までと違ってゆらがない。何かに向かって突き進んでいこうとする、このすがすがしい気持ちは本当に久しぶりだった。
 私は百姓になりたい。そして、自給自足をしながら、新しい学校を自分でつくりたい。そのための今を生きていきたい。子供達と一緒に本気で遊んでいる時が一番幸せを感じる。そして、子供達に大きな希望を与えたい。
 母親に『やっと見つかったんだ。僕は、、やりたいことをやらせてくれ』と言った。母や父とは何度も大学を辞めたいと言い合った事があった。そして、いつも私の気持ちは伝わりきらなかった。でも今回は違った。話している自分でもわかっていた。体からものすごいエネルギーがあふれでて、体がブルブル震えていた。言葉ではなくこのエネルギーが伝わった。母も泣きながら、『私も随分毒されてたんだと思う。目覚めたよ。あんたが幸せなら、強く生きていってくれればそれでいい。』と言った。
 1999年私の中で何かが始まった。自分の幸せのつかみ方をつかんだ。毎日、力があふれてくる。そして、休学を決意した。(教職単位を全部とった僕には5%位、教職への未練がまだある)一年間100%やりたいように動いてみる。
 一つだけ私が言える事、それは誠実に生きることで、やりたいことをめいっぱい探し、やること、そして誰にも我慢しないで言いたい事を言い切ること。ほとんどの現代人はこれを捨てている。しかし、これには勇気がいる。人と対立し孤独になる事もあるかもしれない。だが一度、勇気をだしてこういう生き方を始めると、あら不思議、身の周りの全てが自分の味方をするように動きだす。そして、風も雲も、配達が終わる頃『おはよう』と挨拶してくるスズメやカラスもみんな私を祝福してくれる。力を与えてくれる。一歩一歩、夢は現実になる。
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