『有機』なるものの正体とは?

(記事;資源4年次 斎藤 英輔)

「有機」なるものの実在

 『有機農業新聞』では僕は今までインターネットでの情報発信のお手伝いだけをして来たに過ぎず、ライターの役を務めたことはこれが初めてである。今まで書き手にならず、一番読者に近い目線で傍観し続けて来たのには色々な理由があるが、その中でも最大のものは『有機』なるものの正体がつかみづらい、つかめていないという事だった。

 周知のとおり、この新聞は単なる「有機農業技術誌」のみの体裁を取ってはいない。内容が実にバラエティに富んでおり、農業高校訪問記や各国農業事情、はては教職やボランティアや「神域」についての、もはや宗教の領域にまで達した強烈なメッセージが飛び交っている。大学生が普通作りがちな、突き詰めればメインカルチャー=自分の所属するアカデミー価値体系の『劣化』コピーに過ぎない、毒にも薬にもならない自己満足系ミニコミ紙とは明らかに異なる特有の熱波を持っているのがこの小冊子なんだという事は、今更僕が紹介するまでもないだろう。

 この小冊子のネットへの移植を始めた25号より後でずっと不思議だった事は、これだけ発散した内容を扱っていながらも、どこかこれらをまとめ得るシンボルが存在している=『有機』なる何ものかが確実に存在する事だ。第28号で行なわれた有機農業新聞の方向性を決める会議で「全体としての主張」を統一せず個人の裁量に任せると決まったにもかかわらず、『有機』なる言葉を使ったときに各ライター達が意図する何ものかが、あまりにも酷似しているのだ。最初はそれが橘先生の懐の広い人格か、それとも実践指向か「宮沢賢治」か、若しくは良い意味での保守思想とも思っていたのだが、事はそんなに簡単ではないようだ。勿論これは単なる有機/無機の肥料を使うといった農業技術の違いなどには収まり切らないし、ベルタランフィやラマルクやカントやキュヴィエ等が様々な形で異口同音に唱えた「全体は部分の集合以上である」という有名な有機体論の論理にも括り切れない。別の言葉にすると逃げてしまうような特異性が『有機』にはあるのだ。

 そんな訳で僕は一種の読者代表となり、この新聞が発信し続けて来た『有機』なるものの正体に僕なりに迫ってみたい。そういう経緯で有機農業新聞を一旦相対化するが、この作業が同様に、未だ新聞の前で足踏みしている読者の足元をもそっと崩し、どういう方向にであれ一歩進ませるだろう事を大胆にも保証するとしよう。


"alternative's torrent"

 有機農業新聞は『エコロジー・フェミニズム・エシックス』を3題目に掲げている。この内のフェミニズムは「エコフェミニズム」といわれる、「環境」と「女性」を同一視することでエコロジーとフェミニズムの要請を一気に解決しようとする一連の流れを念頭に置いてのものだが、いかんせん僕に大した知識がないのでここでは検証しない(どうにも実感が湧かないのが知識のない主な理由なんだけど、これは僕自身の態度の問題だろう。ご免なさい)。しかしそれでも『エコロジー・エシックス』、広い意味での環境倫理が『有機』の正体だとおおよその見当をつける事は出来る。

 しかし頭でっかちにこう規定してみたところで、これでは実は何も判ったことにならない。当然だが、この新聞は環境倫理学の学術紙を素人向けにした程度のものなんかじゃなく、もっと生々しい言葉で出来ている。このことを説明するには環境倫理学の見解と違う『新しい』環境に対する倫理を提案しているとすればいいのだが、ではどんな環境倫理を持っているのかと問われたら黙ってしまうしかなくなるからだ。

 だが『新しい』ものの描写は誰にも出来ない。それを語る時は『新しい』ものを既にあるものと比較してどこが違うのかを分析する方法と、実践で『新しい』ものの存在を示す方法とがある。『実践しないと何も判らない』というメッセージをこの新聞が持つのは背景にこういうカラクリがある為で、「実践」で語られた方がしっくりくるタイプの人ならこのやり取りだけで分かり合えてしまうだろう。ただ僕をはじめ「実践」というものを信じられず、この方法論では満足できないタイプの読者(特に、あまり事情を知らないうちはこの小冊子を単なる「宗教」と見限ってしまう、惜しい人々を主に構成している層)も出てくる。実践主体の人は先人の失敗点と同じ轍をどこかで踏んでしまう恐れがあるし、分析派な人は最終的に何に対しても絶対に満足できなくなる冷えた人間になりがちなので、この2つの態度のどちらが良いのかは僕は問わないし、両方の奴が居てこそ人間らしいとさえ思う。

 となると、現在判っている環境倫理の枠組みを最初に引いてしまい、その後で完全な『有機』の理解にはなり得ないと諦めながらも『有機』の正体に出来るだけ接近するというのが、彼らの為に用意すべき方法になる筈だ。


「環境倫理」の現実

 現在の『環境倫理』、これがまとまった単体のものだと考えるのは早計だ。「環境の保護」が差し迫った課題だという点それ自体のコンセンサスは取れている、とみるのが妥当だと考えるのだが、

 「環境」なるものの把握から未だ統一された見解がない
ゆえにその保護の為の文脈が全然まとまらない技術的解法、自然回帰的解法、生産力重視な解法、生活環境主義的解法、などなど)
その文脈で保護される層が、各社会集団の利害を反映する(企業なら技術を、百姓なら『農』を、指導者なら生産力を、市民なら自己決定権を重視するといった具合)
自分を保護する「環境」把握を選ぼうとする
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が環境倫理を単体にさせない原因だ(これは独断だが、あながち間違っていない筈だ)。環境倫理が学問上の概念で、現実世界の命のやりとりと無関係であるような安楽な時代は過ぎ去ったのだ。人の欲望=生きる意志を減少させる事が環境問題の直接の解決策なら、それを行うことは極論すれば「誰が食えなくなるのか」を決める残酷な会議を開く事に他ならないのだから。

 とはいえ、そんな既に流血の事態を内に秘める程こじれた対立構造を含んでいる『環境倫理』だが、これを幾つかの類型に分けて把握する程度なら出来るようだ。誰もが本当は、全ての社会層が参加する今後の行動=『環境倫理』のすり合わせが最善なんだと希求しているのだとすれば、こうした小冊子というサブカルの内側=実際の利害関係から切り離された場所で、一度だけでも自らの社会層の利害から自分自身を思い切って解放し、どれか一つの論理だけを至高善だと見なすのを止めることが、たとえ生活上の理由から相手を受け入れられなくとも少なくとも理解することが、この歪みを癒す唯一の方法になるのだと信じて止まない。この試み自体が妥協の産物か、体よく言えば甘い幻想だとしか言えない程に、まだそこまで社会は絶望すべき状態じゃないと、祈るような心で僕は信じている。

 次号からは、実際に現代社会に見られる自然観を並べる方法で、最後に『有機』なるものへと考察を深めていきたい。


 こうしたテーマで以降2回に渡って、仲間のライター達や読者の皆様と連動した『連続実験』を行ないたいと思う(実はあと2回分の原稿が既に完成しているのだが、今回は紙面の都合上で分割させて頂いた)。『有機』の正体に迫りつつも種本に沢山の自然観に関する思想本や意見を使って、世紀末に相応しい自然観とは何なのか、もう生活と生産で分裂しなくともよい自然観は何処にあるのかといった事に、皆様が思いを巡らせるきっかけとして使ってもらえるようにするのが最終目的だ。世界は、まだ思想なしで=需要とか圧力といった資本の論理だけで動いているわけではないと思う人の多数の参加を、ぜひお願いしたい。

 これは筑波の『有機』の場所が、互いの想いと想いが真っ正面にぶつかる相互交流の場として、自己満足的ではない希少なところだからこそ可能な実験なのだ。ぶつかる想いは今のところの実感としては、どちらかがどちらかを飲み込む不幸な結末には行かず互いを高めあうように働くようなので、安心してご投書頂きたいと願う。



 方法は自分自身の「『有機』なるもの」の投書です。研究室宛でお手紙頂きたいと思いますが、形式は一切問いません。またメールが使える環境であれば、
teconogy@bres.tsukuba.ac.jp
宛にメール頂いても対処いたします。
 その際、後でこのページから世界に発信させて頂いてもよいか一言お願いいたします(何も記載がなければ、発信させて頂きたいと思います)。
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