ボランティアあれこれ結論編

なぜボランティアなのか

 ボランティアの記事を書くに当たっての議論で私がボランティアにこだわる理由を聞かれた。一言でいえば、私はボランティアは何か自分を満足させてくれる特別なものだと考えていたが、いくつかのボランティア活動をしても一向に満たされない訳を知りたかったからである。ボランティアが特別なものと思うようになったのは阪神大震災の学生ボランティアをテレビで見たのがきっかけのひとつだったと思う。その当時、私は高校2年で、テレビに映る学生ボランティアが輝いて見えた。

 大学生になり自由な時間が増えて、私はボランティアに参加するようになった。充実感はあったが、これでなければ駄目だというほどの満足感を感じることはできないまま毎日が忙しくなり、余裕がまったくなくなってしまった。そのころから徐々に、ボランティアというものに夢を持ちすぎていたのではないか、と思うようになってきた。かつて輝いて見えたボランティアの問題点や疑問点が沸き上がるようになったのだ。そしてそれらを解決したい、という思いが前回の「ボランティアあれこれ」を書く原動力になった。前回の記事を振り返ると現実の問題に気づきながらも、自分が持つボランティアへの幻想を失いたくないという思いで悩んでいたように感じる。一緒に記事を書いた栗田としばらくはボランティアのことは考えたくないと言うまで疲れ切っていた。しかしその後の議論で、ボランティアに対する自分にとって納得のいく答えがようやく見つかった。そして同時に答えを見えにくくしていたものが判ってきた。


ボランティアとは何か

 ボランティアはきれいな箱のようなものだ。「素人でもできる、自分探しができる、金と時間のある人の暇潰し、たくさんの人と知り合える」という箱。そして「この活動をやりたいからやる」が箱の中味。そんな箱である。今までは箱も中味もごちゃ混ぜにして同列に扱っていた。ボランティアにまとわりつくイメージが多すぎて整理しきれないために私は混乱していたのだ。しかし整理してみると、本質は人がそれぞれのやりたいことをやっているということだった。善意と混同する部分が多いが、ボランティアはサービス業である。金持ちの慈善事業でも学生の暇潰しでもない。様々なニーズに合わせて必要なサービスを供給する組織(事業体)である。そして、組織にはその仕事がしたい人、その仕事で自己実現を望む人、生計を立てる人が集まってきている。組織化するのも活動を継続的、効果的、効率的に行なうためである。普通の会社と大差はない。


何かとは何か

 私が今まで感じていたボランティアへの違和感や疑問で最も大きいものはその動機だった。何か人や社会の役に立つことをしたいという動機からボランティアをする学生は多い。大学に入り時間が空き、ボランティア団体に所属している人も身近になる。そうした状況も手伝って何でもいいからボランティアというものをしてみようと思う。私もそうだった。だが、実はこの「何でもいいから」というのがくせものなのだ。その活動のボランティアをやりたいのではなく、何の活動でもボランティアというものがやりたいという意味なのだから。ボランティアという漠然としたもので満足感を得られるほど人間は器用にできていない。少なくとも私はそうだ。自分がやりたいことを、何でもいいと言うのはとても投げやりな態度だ。


 この何でもいいから人や社会の役に立ちたいという感覚は学歴エリート意識の裏返しなのかもしれない。自分が学歴エリートだと思う人はエリートとしての自分像を支えるために立派なことをしている自分を求める。そのために苦しいことに耐えたり、人がやりたがらない事をしようとするところがある。または、さらにエリート路線を進んでステータス職業を求める。どちらにしろ学歴エリートという外側からのレッテルを意識しての選択にかわりはない。結局は自分が本当にやりたいことをして自己満足を味わい続けることを望まなければ自分を偽ることになる。
 ボランティアで得られる何かとは、色々な人と知り合うことや経験になることもあるが、やはり一番大切なのは自己満足だと思う。自己満足とは良い、悪い、過程、結果など自分のやったことを全部肯定することだと解釈してもらえば分かりやすい。自己満足ができるのは、苦しくてもやってよかった、楽しいから続けたいと思える活動(仕事)をするからだと考えている。だから、この活動をやりたいという思いを特に感じないならば、どんなボランティアもやめておいたほうがいい。きっと肝心な何かは得られない。


そう!特別なことじゃない

 「これがやりたい」と思うことが見つかったらプロになろう。プロは専門家、一流、第一人者と言い替えられる。専門的な技術、知識、経験といった実力と自分の哲学や理念をもった、学歴エリートとは一線を画する存在だ。専門的な知識や技術があれば、素人のときよりも色々なことができる。ボランティアをやりたいと思えばその分野でプロに、他の分野がよければそちらでプロになればいい。ボランティアだから特別ということはない。
 今回の話し合いでボランティアを運営する側の人と話す機会があった。「どんなボランティアにも何かやりたくて参加したという人は多くいます。そういう人はあまり続きません。でも、そういう人がいるのはあたりまえで、いかにその人達をうまく使って組織の目標を達成するかが運営側の能力ですから。」という言葉をその折に頂いた。なるほど厚みのある現場の言葉だと思う。振り返ると私はボランティアには特別な何かがあるという幻を見ていたようだ。ただ、幻が覚めたからといって現実に失望することはない。むしろ、とてもすっきりした気持ちだ。これから自分の中にあるやりたいことを気がねせずにやればいいのだから。


楽しさを求めて

 有機農業新聞スタッフの議論ではよく「楽しいかどうか」が問題になる。本当に自分のやりたいことをしていれば楽しいと感じる、と考えているスタッフが多いからだ(もちろん事務的なことやスケジュールのために多少つらいことがあることは認めている)。自分のやりたいことがはっきりして満足を感じる一方でこの「楽しさ」が私の中で暗い影を落としている。私は現実の社会を楽しいことだけで生きていけると言われても、とても信じられない。生きているからには楽しいこと、嫌なこと、つらいこともあり、うまくバランスをとっていくものだと思っている。そう思うようになったのは私の生きてきた過程と関係がある。


 私は楽しいだけの思い出はあまりない。小学生のころは剣道を辞めるなら水泳をやるというような交換条件が母親から多く出されたことが印象にある。中学は自分に自信がもてずそんな自分が好きではなかった。中学までの自分を変えようと思い親戚の家に下宿し、誰も私を知らない高校に進学した。一人暮しのおかげで自分に自信がつき自己肯定もできるようになったが、一方で人間関係のしがらみや好奇の眼で見られる田舎の生活を抱え込むことになった。そこから学んだことはすべてが満足のいくように解決することはない、つらさも生活の一部。それに、物事は準備し色々な状況に備える必要がある、そのために楽しくなくてもやらなければならないことがある、ということだった。
 大学生になり完全な一人暮しになって高校までの状況からは解放された。しかし、遊びに出かけたり、日がな一日ぼんやりしていたりするとどうしようもなく罪悪感が込み上げてくる。時間に余裕がなくなっても、面白くないことでも忙しいと安心できる。案外ワーカホリック(仕事中毒)なのかもしれない。


 そんな大学生活の中で、「楽しいことだけをすればいいんだ」という橘先生の言葉を聞いた(この言葉は、あまりに現代人がつらいことばかりを抱え込んでいるためにその反動を促そうと強い言葉を使っている)。そして実際に私よりもはるかに自由に生活している人達をセミナーなどで目のあたりにし、そうした生き方があることも知った。
 しかし、知っていることと自分がそう生きることは大違いである。実際はどうあれ私が子供のころ、親は怒るか、しかめっ面をしているか、こわいという印象しかない。親の顔にも楽しさが現われることには最近まで気がつかなかった。だから楽しく生きるといわれてもイメージが湧かない。イメージの湧かない生き方を選択することはできない。さらにかつて高校性になるときに味わった生き方を変える苦労を再びすることに対する不安がある。高校に進学するときには自分に強い決心があり、環境の変化も助けてくれた。何より、失うものが少なかった。しかし、今回は自分の変化で何か失ってしまうのではないか。そう不安に思う一方で、その生き方に憧れ、そう生きたいと直感は望んでいる。


 ボランティアにこだわった理由は楽しく生きるという新しい生き方をボランティアに特に感じたからかもしれない。結果としては自分のやりたいことをそこには見い出せなかったが、今ある自分のやりたいことをやればいいということに気付くことができた。これは問題の核心まで来たのだと思う。1回目の「ボランティアあれこれ」では悩み、答えを求めている過程を伝えた。2回目の今回は、同じ悩みをもつ人全員への答えにはならないかもしれないが、私の中で得られた答えを伝えられたのではないだろうかと思っている。

飯泉仁之直
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