izumi.GIF
島に暮らす人間達〜最終回〜
私の教育実習体験記
泉川功一郎

*子供達から教わった!『教育とは何だ』、『人間とは何だ』*

 中学の教育実習生だったはずの私は、学校で行き詰まりを感じる中、小学生達と歌を歌ったりして響き合えた事で大分救われたんだと話して前回の記事を終えました。子供達はギターを弾く私の前に集まり、教えずともそれぞれ太鼓やタンバリンを持って自分なりに楽しい気持ちを表現して舞ってました。
 私はこの子供達に人間が持っている可能性という光のような現象を感じてただただ感動してました。学校で行き詰まっていた私の魂が浄化されていくような、私と子供達の魂と魂は確かに今瞬間瞬間を高めあっているような気がして、昼休みがもっと長ければと切に感じたのです。そして、私は教育はこれなんだと再び自信を得たのです。
 小学生達を目の前にして、それぞれの光と可能性を感じて、人間は光も色も違うけど、それぞれが本来は世界で一番美しい宝石なのだと思いました。だけど皆、始めはごつごつの原石みたいで、そこでどれだけ自分という原石を磨いていけるものに出会い、磨いていく時間を生きられるか、それが大切なのかと思いました。


*なぜ学校で人は行き詰まるのか*

 私がなぜ実習中、学校で行き詰まりを感じたのか、教育実習が終わって半年近く経った今やっと整理がついてきたので話したいと思う。それは一言で言えば楽しくないという事に尽きるのだが、なぜ楽しくないのだろうか。音楽にしろ社会科にしろ、それに関わる先生の中で、その学問や表現活動がどれだけ自分の人生を支えているのかが重要ではないか。
 音楽の授業に関して、私は今でも忘れられない小4の先生との出会いを思い出す。その先生は私に授業と合唱団を通じてうれしい時はうれしいと、悲しい時は悲しいと体全体で自分を表現する喜びを伝えてくれた。今でも悲しい時は部屋で一人になってギターを弾いてその思いを歌っていると自分の世界に入り込み、涙が流れることもある。乱れた心が歌によって落ち着きを取り戻す。まさしく歌とは私の人生の支えであり最大の友である。だから私にとって、音楽の授業とは難しい金管楽器を使いこなし楽譜どうりうまく演奏する事ではなく、うまくなくていいから自分の心を詩にして歌ったり、楽器を奏でる喜びを知り、少しでも多くの子供達にとって音楽が自分の支えになればと願うことだけである。決して合唱で歌わない子をしかって、皆と協力する必要性を説く事はやってはならない。教師と生徒が歌や合奏を通して、喜びや悲しみ、自然の美しさなど感情を伝えあい、互いの魂を高めあうのが音楽の授業だと思う。
 私が実習で担当した社会の授業では教師はいかなる知識を語るべきなのかを考えさせられた。いかに授業で環境問題や南北問題、食糧問題を指導案どうりに論じてそれらと私達の暮らしとの結びつきを子供達に伝えても、教師自身が自分はこうした生き方をしたいという、社会を知りそこから自分の生き方を模索している事を示さないなら、子供達は何に頭を働かせ自らを問うのだろうか。教師が率先して現代社会に問いかけ自らを悩まずして、子供に何が産まれるのか。しかし、大抵の場合、自分が学んだ知識や思想は普段の生活意識とは全く切り離されている。(『人間は日常の食事の取り方や暮らし方にふさわしい人間になる』というガンジーの言葉を想う。)そして、そうした自分の行動が伴わない頭だけの知識や思想を語る言葉にはその人の魂が宿らないから、そこには魂と魂がふれあい、お互いを磨きあうような本当の教育の形は創造されえない。


*愛汗の授業*〜どんな事でもいい、何かが返ってくればまたやれる〜

 渡嘉敷小中学校には、2週間に一回、全校生徒が集まって、どの学年もごちゃ混ぜになって班分けをし、畑仕事をする愛汗の授業というのがあります。実習中に私は授業計画をまかしていただけ、少しでも農業の奥深さが伝わるような楽しい授業にしようと農業経験の未熟な私なりに思いついたのが、雑草をたくさん取ってきて砂糖につけて発酵させる土着菌ボカシ造りだった。土や草や空気に数え切れない程の微生物が暮らしていて、その働きが野菜を育てている事を伝えたかったのですがどうだったのでしょう。ともあれ、バケツに集めた雑草が発酵した酸っぱい匂いを発すると、興味津々に子供達は匂いを嗅いだり、なめたりして臭い臭いと私にいろいろ声をかけてくれました。勉強するよりこうして体を動かす方が好きだとか、畑は好きだけど僕にはゲームソフトを作る夢があるというたくさんの言葉が返ってきた授業で本当に楽しかったなあと思います。
 授業後皆が帰っても、いつまでも一人で地面に落ちた草を一本づつ拾い続ける中3の少年がいました。その姿に心ひかれ声をかけても、内気な子でなかなか口を開いてくれませんでしたが、農業高校をめざしてる事を聞いて、心が動いた私は『わら一本の革命』という本を『面白いよ』と手渡しました。結局返してもらいそびれ、あの本は今も彼の手元にありますが、それも何かの縁かなと時々彼を思い出したりします。


*島に暮らす人間達*
当山さん一家に支えられて

 島での二週間、私の生活一切をお世話くださったのが当山さん家族でした。私は当山さんが住まいと別に借りているアパートに住まわせてもらい、そこから毎朝学校へ通い、当山さんの経営する民宿で食事をいただいてました。学校であった事や悩みを話せまた聞いてくれた家族のような存在でもありました。
 御主人の当山政仁さんは現在村の農業委員長を務められていて、さらに青年の家の仕事を兼ねながら農業に励んでおられます。当山さんはもともと二十数年程体育教師をされていたのですが、離島の自然環境に人間が生活する原点を見い出し、ここに本当の教育がある事を思って、島に移り住み農業を始められたそうです。渡嘉敷島の過疎化という問題を真剣にとらえ、島の教育と農業の再生にむけて、若い百姓をこれから育てていこうと意気込んでました。それから島に移住して以来、沖縄本島の都会で非行や登校拒否になった何人かの子供達を引き取って、面倒をみられているようです。私が島を訪ねた一か月位前に本島から康弘という中二の子がきてました。、一人暮しの寂しい生活を予感していた私は運良く二週間、彼と生活を共にする事ができました。
 当山さんは小三、四栗野学級の子供達のひよこ飼育に一緒に関わりながら、私に『こういう体験が子供達の記憶のなかにいつまでも残るんだ』と熱く教育について語ってくれた事を思いだします。子供達は休み時間になると、どっとひよこの部屋へ押し寄せ、一人四羽にそれぞれ名前をつけ、自分のものとしてかわいがってました。私達は学校時代の中で様々な事を教えられ、また学んだつもりでいるが、どれだけの事が本当に記憶の中に残っているのか。教育現場をみて、学ぶとはもっともっと楽しくなければと感じました。ひよこという生命と子供の魂がふれあい、また教師や子供同士が楽しいという感動の中で魂同士がふれあうことが子供の人生に影響を与え、いつまでも記憶に残っていくのではないか。当山さんは実習中私が感じた事を聞いてうんうんとうなずいてくれました。私は当山さんと話すことでゆらいでいた自分を取り戻せ、最後まで自分を信じ切る事ができたようにおもいます。まさしく私にとって先を生きる人で、先生と呼ぶにふさわしい大きな人でした。

一緒に暮らした康弘とみんなの人気者ベンチ先生

 私は二週間、当山さんが里親として預かっていた中二の康弘と同じ部屋で生活を共にしました。私もある意味で悩み多き中学、高校時代を過ごしたから、彼に興味があっていろいろ語りかけてみました。すると、始めはあまり口を開かなかったが、みるみる内に打ち解けてくれました。私はいつも、夜になると指導案を書きながら、遅くまで楽しく彼といろんな話しをしました。朝になると康を起こして、しかりつけながら急がせて、当山さんの民宿で朝食をとり、ぎりぎりで学校に到着する毎日でした。
 学校の康は誰とも話そうともせず、先生に対してもムスッとした表情をしていました。当山さんはそんな康を決してしかりつける事なく、いつもニコニコ笑いながら、『早くこの島に慣れなさい』という言葉だけをかけてました。そこが康が心を開こうとしない先生達と違うというか、さすが当山さんだなあと思わせるところでした。そして、いろいろな人と接する康の表情を見ていて、康にはどの人が自分を理解しようとしている人なのか、自分と仲間になりたいと思っている人なのか、ちゃんとわかるんだと実感しました。
 やがて康は、学校でベンチ先生と皆から呼ばれる先生に急に心を開くようになりました。先生に会うために学校へ行き、学校でもだんだんいい顔をするようになりました。この先生は子供達からからかわれ、また自分からチョッカイをだしてふざけあう事の好きな先生でした。康が心を開いたのがよくわかりました。私も自分の授業に失敗して落ち込んだとき、それを先生に話すと、『自分も実習の時は自信がなくなるとすぐ、窓と向かい合って話してた』など自分の失敗談を面白おかしく語ってくれ、随分元気づけられました。
 今でも康や他の子供達とサッカーをした事や、外で歌ってたら二階から私のつむじを目がけてつばを垂らされたことなどいろいろな楽しい事を思いだします。そして、私の通信『響きあい』を読み強く励ましてくれた事務の池村先生やいろいろと気をかけて島中を案内してくださった釣好きの田場先生など御世話になったたくさんの方には本当に感謝してます。私自身いろいろな壁にぶつかる中で、今漸く成長できた気がします。そして、『お前はここで五年教師をやった後、ここで百姓をやれ』と最後にいってくれた当山さんに、これから手紙を書こうと思います。


*教育実習から半年* 
『苦悩の末に私がたどりつけたもの』

 教育実習後半年が経とうとしている今、なぜまだ私はこの記事を書いているのか。それは、教育実習で悩んだ様々な事が私の中でなかなか整理がつかなかったからに他ならない。期が熟すとは、こういう事だろう。半年前の私はとてもそれを一度の記事にする気力も自信もなかった。だから自分の心の葛藤と成長の過程にしたがって、かみしめるように書き進めたがための三回に渡る記事だったと思っている。
 この半年の中で再び自信を取り戻させてくれた最大のものは、青空保育園(つくば市内)の子達との出会いでした。夏休みには、保育園を卒業した小学生達が毎日二十人位集まってきて、彼等と二週間、サッカーしたり楽器を作ったり好きなように過ごせました。その中で私が確信したことは、本当に彼等と一緒に何かをして高めあいたいという気持ちで子供達に働きかければ、必ずキラキラした何かが返って来るんだという事でした。やりたい人だけこういう楽器を作ろうといって始めると、その日は全く見向きもしなかった子が次の日やっぱりやりたいと言ってきます。その楽器をつくり音を奏でる喜びを私が知っていたからこそ、不思議にそれが子供達に伝わるんだと思います。
 そして子供達のきれいな目の光に励まされ、何も言葉を交さずとも伝わってくるこの目の光だけは、どんなに年をとっても失ってはいけないなあと思いました。いつまでもその光を失わない人はきっと、自分という宝石の存在に気がついて一所懸命磨いてきた人なのだと思います。楽しい事を素直にやる子供達は自分という宝石に気付いているのに、どうして大人になると多くの人はその道をはずしてしまうのか。自らがその道をしっかり進みながら、子供達がその道をはずしてないか見極め、しっかりと見守ってあげるのが教師の仕事だろうと私は感じました。
 さて、大学四年間がそろそろ終わろうとしてますが、私にとってこの四年間は一体何だったのだろうか。私は最近やっとこの自分という宝石の存在に気付けたんじゃないかと思ってます。いわば私にとってこの四年間は中学、高校と受験戦争を走り抜け、すっかり道をはずし病んでしまった心と体の解毒期間でした。そして解毒期間を終えた今、やっとありのままの私の姿に再会できた気持ちです。これからが私の新たなはじまりなのです。
 今の私は、それまでの私にとって負の体験だった苦しい中高の思い出を正のエネルギーに転換できるような気がするのです。この社会の中で道をはずして、本当に苦しんで苦しんで今、自分という宝石の存在にやっと気付けたからこそ、それだけ私には子供達に関わって伝えていきたいと思う熱いエネルギーがふつふつと産まれてくるのだと思えます。そして、私にとってこの二十二年間の全ては無駄ではなかったと今はっきりと宣言できること、これが私にとって大学四年間の財産の全てだと思えます。(終)

back to TOP
Back