ボランティアあれこれ



〜はじめに〜

 少し前になるが9月8日の毎日新聞に「ピースボート活動15年」という記事が載っていた。8月に開かれたピースボート参加者による海外ボランティア経験の報告会で20代の3人の女性が報告をした、という内容である。その中に次のような報告者の話があった。カンボジアの地雷撤去のため100円募金運動のボランティアをしている25歳、女性の話である。「人のためというより、まず自分のため。今も『頑張ってますね』と言われると抵抗感がある。やりたいことが見つかり、それがたまたまボランティアといわれる活動だっただけ。」
 ここで疑問に思ったのはボランティア活動は自分のためにするものだろうか、ということである。このことを有機農業新聞のミーティングで話したところ、ボランティアとはどういうものか考えようということになった。そこで有機新聞のスタッフの飯泉と栗田、生物資源学類3年で牛久自然観察の森で子供と遊ぶボランティアをしている塩沢さんの3人で話し合いを持つことにした。
 
 3人の話し合いの内容は次のとおりである。ボランティアには精神的な報酬があり、それを目的にするのはいい。「人のためにボランティアをする」ことは報酬が第一目標でなければ理解できる。それを踏まえて、私達のボランティアの定義は「自分や困っている人を対象に彼等の求める行動を、直接自身が行う行動」となった。また、富山県沖のロシアタンカー原油流出事故の際の学生ボランティアの現地での生活態度(ごみの出し方や地元民への接し方)の問題。そうした態度の背景にはボランティアをしていれば何でも許されるといった免罪符的な感覚があるのではないかといった話、ボランティアをする人はしない人よりも社会的に偉いと感じやすい背景があるのではという話、その他にボランティア活動を中学、高校の授業に取り入れることなどが話題になった。また今回答えの出なかった問題や、新たに生じた疑問もあり、この話し合いをベースにさらに話し合いを持つことになっている。


1・ボランティアの根っこ

飯泉 仁之直
 ボランティアとはどのようなものなのだろうか。先の話し合いを整理するとボランティアとは、「自分のため困っている人のために要求されることを自分の意思で応じ行動する人。その際、報酬は求めない。」ということになる。この考えは3人が自分の体験から導き出したもので、本や人の言葉を引用したものではない。
 話し合いの後、ボランティアの定義について何冊かの本を調べてみた。本により細かい差はあるが、大筋でボランティアの4原則といわれるものがある。@自主性、A連帯性、B無償性、C創造性(向上性)の4つである。これらは東京ボランティアセンターが定めたものである。私達は体験的にだが、この4原則を踏まえている。しかし、この原則だけでは「ボランティアとはどのようなものか」という問いの答えには不十分である。そこで、話を深めていくために「自分のため」というキーワードを挙げてみた。「自分のため」にボランティアをするといっても様々な捉え方がある。内申点のため、自分の評価を上げるため、困っている人を助け感謝されることで自身の満足を得るため、経験することで自身が成長するため。先の話し合いのきっかけとなったのは私が新聞の記事を読んだ際に悪い意味で「自分のため」にボランティアをしているのではないかと勘繰ったからである。また、私達の定義でボランティアの対象に「自分」も含めた理由は、阪神大震災以来、ボランティア活動を通して相手と自分の喜びを得ようとする人が顕在化し、ひとつの流れになったと3人の意見が一致したためである。
 自分の評価のためにボランティアをすることに違和感を感じる理由は単純に、ボランティア活動という行為を外部からプラスに評価してもらうことを期待している印象を受けるからである。しかし、自分のやりたいこと、生きがいとしてのボランティアにも違和感を感じるのはなぜだろうか。それはものの見方が一面的だというところに理由があると思う。体験的な例を挙げると、子供と遊ぶボランティア活動がある。子供と竹細工をしている。私は竹で太鼓やはしの作り方を教える。始め、子供は作ることに熱中しているがそのうちに作った太鼓や笛を鳴らし合ったり、はしだけでなくスプーンやお椀まで作り出す。私は作って楽しむことだけを考えていたのだが、それを実際に使ったり、みんなで使うことを子供に教えられた。活動のテーマを意識して、我々は子供が楽しめるように誘導する、しかし一方で我々は子供に遊ばれている。私達が「遊び」を子供に与えているとも、子供が「遊び」を与えられているとも言えないのである。だから、私は自分のしている子供と遊ぶ活動は、自分のためとも子供のためとも言えない。
 つまりボランティアは相手があって始めて成立するもので、「誰かのため」という欲求だけでは不十分なのである。ボランティアには一方的に与える側、受ける側は存在しない。橘先生の言葉を借りるなら双方向だということであるが、このことを注意しないと一方的な善意の押し売りやボランティアをしている自分に酔い、自分だけが正義だということになりかねない。
 阪神大震災が起きた1995年にはボランティアが話題になり、ボランティア元年とまで呼ばれるまでになった。特に学生には「誰か人のためになりたい、自分は無価値でないことを認めてもらいたい」そうした欲求を満たす手段がボランティアであり、ボランティアとはテレビで流れたように被災地にリュックを背負っていくものだというイメージが焼き付けられた。そしてイメージを植え付けられた人には、日常的な生活を送っている街の人や、寂しい一人暮しのお年寄り、といった対象では物足りないものだったと思う。そこで次々と自分らの欲求を十分に満たす対象だった被災地、被災者のところに向かった。これは富山県沖のロシアタンカー原油流出事故も同じだろう。
 つまり、主に学生ボランティアの多くは地域のなかに多くある共同作業や手伝いを放棄し、被災地や海外といった人助けをするのに華々しさのある場を求めたのである。しかし、自分を満たしたい、認めてもらいたいという動機のボランティア活動は欲しい服を買いたい、食べたいものを食べたい、という欲求とどの程度違うものなのだろうか。
 人が交流する場ならば、相手に喜んでもらう活動の要素は多くある。仕事やアルバイト、学校生活といった日常生活を通してもボランティア的活動は十分可能ではないだろうか。だが、ボランティアのみが好まれる理由は金銭的見返りがなくても人を助けているイメージがステイタスになるからである。金儲けをすることが社会一般の常識だからこそ、それを追わないボランティアは偉い、という評価も生じる。しかし、欲求第一で対象第二の、活動の場を選ぶボランティアがどの程度のものなのか。相手が本当は何を必要としているのかを直視せずに、「ボランティアをやっている私ってかっこいいでしょう、偉いでしょう」では受ける側はありがた迷惑だろう。ボランティアをする人が自分を振り返り、問題を捉え、一人の人間として自立して生きることがまず最優先である。
 ステータスを得るためのボランティアや華々しい場所しか活動の場に選べないボランティアが生じる原因となった日本人の個と公の意識、価値観といった背景には何があるのだろうか。今後、この点を深めてみたい。 

2・私のなかのボランティア

栗田 暁子
 何気なく耳に、口にする、ボランティアと言う言葉だが、その定義や真の意味は今実に不明瞭なものになってきている気がする。
 ボランティアとは何だ、という疑問から始まった座談会だったが、それに対する考えは、その人それぞれの体験や育ってきた環境によってまちまちである、という印象が強かった。 
 私は環境系サークルの説明会で牛久での自然なんでも探検隊というボランティア活動について知った。そのときはボランティアという概念には別に気をとめてはいなかったのだが、実際に行ってみた感じ、何だかボランティアという言葉があまりふさわしくないような気がした。その言葉に違和感を感じたのだ。 そこにはレンジャーという自然の森を管理している職員さんがいて、私達はその方の仕事の一部を手伝ったり、定期的に地域の子供を集めて森の中で自然とふれあいつつ遊ばせる為の計画を立てたりする。その活動に集まっている学生は皆、子供が好きで、自然の好きな人ばかりであり、その人達の様子を見ていたら、それは一種のサークル活動であって、ボランティア(=奉仕)という言葉は、本当にふさわしいのだろうか、という気になった。でもやはりボランティア活動になるらしい。この活動がある組織の一環であり、奉仕する対象(子供やレンジャーさん)がいて私達は無償でそれを行っているから、そういう枠にはいるのらしい。
 ここで感じたことが、私の中でのボランティアに対する意識がどうなっているのかを考えて見るきっかけとなった。私の考えるボランティアとは、以下のような要素の含まれる活動だ。
 1: 無償であること
 2: 自分を必要としている相手がいること
 3: 自発的であること
 4: 相手のために努力すること

 私の中でなぜかボランティアとは、自己犠牲のイメージが強い。自己を犠牲にしても相手のために尽くし、その相手が幸せになる。それこそが喜びだ。としている人をそう呼ぶような気がしていた。だからその牛久の活動がボランティアと呼ばれることに違和感を感じたのだ。
 この間、青年海外協力隊の説明会に行った。以前ここにもかいたが、協力隊員になることは、小さい頃からの私の夢である。自分の持っている知識や技能を資本にして発展途上国に行き、自分を必要としてくれる人の為に奉仕する。それこそボランティア活動だろうと思っていた。しかし今回実際に体験者に話を聞いたところ、案外そういった、その国の発展に貢献する活動が出来た、というケースは少ないようなのだ。彼らは行ってきての一番の収穫は、自分自身が成長出来たことだ、と話していた。
 自分の為にボランティアをする人が増えている。神戸の震災や、原油の流出事故の時もそういったケースが多かった。
 その行為はボランティアと呼べるのだろうか、という疑問が生じる。私は呼べると思った。援助を求めている人がいて、それに応えようとする人がいる。援助する側が必ずしも相手のことだけを念頭においていなくても、たとえそれが自分のためであったとしても、努力しているという事実にかわりはない。自己実現努力の過程がボランティア活動であり、結果として相手の役にたっているのなら、それはそれで良いと考える。
 今回の話し合いで新たに自分の中で判らなくなったことがある。ボランティアという言葉が、社会の中で一種のステイタスになっているという印象についてだ。ある行動を起こすときに、行為は同じであったとしてもその名が付くだけで、何だか一段高い行いをしたかのような雰囲気を、今の社会は作り出しているのではないだろうか。そういうところから、例えば神戸のボランティアに行った人の行動が横柄になるといった意識が出てくる気がした。
 そのような点も含めて次回、もう一度考える機会を持ってみたいと思っている。今回は他の人が考えている事を聞くことによって、自分の意識を高められ、有意義だったと思う。
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