第68回つくば有機セミナー報告
「農業の希望、教育の未来」



◆壊れていく子供達◆
松田 智  文教大学研究生・臨床心理学

 神戸での「小学生連続殺傷事件」、頻発する「ナイフ事件」。これらは子供達を取り巻く環境が変わってしまったことに対して彼等が発する緊急の信号のように思える。神戸での事件はその猟奇的な犯行は許されるものではないが犯人が中学3年生だと分かったときの悲しさ、やり場のない怒りは忘れられない。しかし、犯行声明文の「透明な存在」という言葉に共感を示す人は多く、「義務教育を生み出した社会への復讐」という言葉も社会に波紋を投げかけている。私は塾講師として小学4年生から中学3年の子供達と日々接しているが彼等には時間的余裕が無い。朝と放課後の部活の練習、授業、塾とまさに時間に追われている。塾講師という職業柄、進路相談で親を交えて話す機会も多いが高校を選択する重要な判断材料はやはり大学進学実績のようだ。

 現代社会では「金」が最も重要だと思われている。そのため企業の大卒者の新規採用は相変わらずランク分けされた大学ブランドによって行われている。つまり経済市場主義の弊害が学歴偏重となって現れているわけだが、これに対応していく(させられていく)子供達は高速道路をみんな同じ方向に走っているという雰囲気だ。よそ見をしてはいけない、叱咤激励されて速く走ることを要求される。どれだけスピードを上げられるか、どれだけ速く目的地につけるかが重要だからだ。

学校における教師も多忙である。様々な学校行事、雑多な用事で忙殺されてしまい教師は子供達の純粋な「どうして?」に付き合う時間はない。こうして自己主張、自分の考えをまとめることを教わることなく点数至上主義、の中で子供達は閉じていく。勉強の出来る子やスポーツの得意な子、人を笑わせられる子は学校に居場所がある。しかし、特に目立たない子は学校の中で自分の存在意義さえ確かでない。



◆農業高校の今◆
駒木根 進  水戸農業高校・食品化学科・教諭

 農業高校でも「進学」ということが言われ始め保護者も高学歴指向になった。かつては農業高校は農業の後継者養成の場と言われたが現在、家が農家なのは全生徒のうち十数%、就農者は1学年約300人のうち4人程度である。生徒は入学して全員が満足するわけではなく、当然向き不向きもある。しかし、最もやる気を見せるのが課題研究の時間である。これは大学の卒業研究に似たものだがこの時間は生徒が教室で待っていて教師を質問攻めにする。よく「日本人は問題を解くのは得意だが、問題を見つけるのは苦手」と言われるがこのときは当てはまらない。また、テストのときも100点満点中30点分は自由な発想をさせる問題にする。この辺は農業高校らしいと言えると思う。

 私は生徒に水農(水戸農業高校)で3年間の思い出を作り、「これをやった」という誇りを持てることをやってもらいたい。そのために基本的な勉強をしてもらいたいと思うこともある。というのは水農の生徒は発想はよいが継続が苦手だからである。だから「夏休みの1ヵ月間毎日記録、観察をする持続力と最後の1日で仕上げるパワーを持て」という笑い話もある。

 私が考える農業高校での教育は職業としての農業を教えることと人間のこれからの生き方を教えることだと思う。農業(畜産)は生命を扱うために教師も生徒も手を抜くことができない。真剣になれる点でよい教材だろう。だから農業高校で学んだことを、何でも活かして今頑張っていれば、農業関連の仕事に就けということはない。



◆Free From Money◆
橘 泰憲  筑波大学応用生物化学系・講師

 学問や大学、教育は根本的に人を励ますものだ。教育は教師が生徒に一方的に押し付けるものではなく、むしろ互いに響き合い、励まし合うものである。人間電池論という考え方がある。人間はバッテリーであり自分の持つ電気を放出してしまうと電圧が低下してしまい、再度充電をしなくてはならないというものである。たまにエネルギーに満ち満ちた高電圧の人もいるが学生の中で高電圧なのは珍しい。高電圧になるには自己の中で「何か」を創造する必要がある。そこで創造的な教育をやりたいと思い、誰でもできる、つまり自分の考えを創造する必要のあるテストを作ったが…これがうけなかった。学生にテストの固定観念があり、受け付けられなかった。面白い教育をやってみようという人は増えてきたがまだまだ教える側にも学ぶ側にも問題はあるようだ。

 私は大学の農場の1区画で有機農業を行っている。大学の農場は農薬と化学肥料で管理されており、有機農業は迷惑に思われているのだが、最近、農場を管理している一人の技官の方が「いや、実は私も市民農園で有機農業をやっているのだが…」と興味を示してくれた。圃場を使い始めてから実に8年目の奇蹟である。技官こそが最も現場をよくみている人間である。彼等がよいと思う方向が農業の未来を指しているとも言える。技官の方が有機農業に興味をもったことは我々にとっても大進歩と言えよう。

 私の研究室にグレゴリーという研究生がいる。彼は宮沢賢治の研究のため日本に来たのだが、その生活が非常に面白い。彼は日本政府から約20万円の奨学金をもらっているが、家賃7千円のアパートに電話なしで住み車の変わりに自転車でどこへでも出かけて行く。この前も福島まで自転車で、四国までヒッチハイクで出かけて行った。彼の食事は賢治をなぞらえて玄米と野菜、味噌である。本人は別に我慢してやっているわけではない、むしろ好んでこの生活を選んでいる。彼を見ていると新しい価値観、金に束縛されない生活とはこういうものなのだと感じる。


以上3人のコメンテイターの話を踏まえてディスカッションへと移った。


○子供は学校に友達に会いに行き、親は学校を託児所だと考えているのではないか。
●農業を通して学ぶことは非常に多い。普通高校でも農業を科目の中に入れたらどうか。
○普通高校出身者の人は農業高校を過大評価し過ぎている。農業への向き不向きもあるし、私も農業を通して結局は先生に「命について考えること」を教わった。そうして今の自分の考えがある。1番考えることができたのが私にとっては農業高校だったのである。
●農業高校では「命は大切」ということを教わったという実感があるようだが、自信や生き方、「本当に何が大切か」ということを学校で教えているのだろうか。
○学校では「自信」ということを教えない。大学でも教授達は知識はあるが自信をもって生きているのだろうか。学生と話し合えるという自分に対する信頼感に欠けているように思うのだが。
●大切なのは人が「何人か」で「何か」を作ること。けっして1人で何か(生き方や大切なこと)を示すことではないし、またそれは出来ない。
○教育はエネルギーのやり取り、言い換えれば命のやり取りである。



 今回のセミナーは完全申し込み制とし、一回り小さい部屋で行った。そのため密な議論が出来たと思う。「農業」と「教育」は現在共に大きな問題にぶつかりパラダイムの転換が真っ先に求められている分野である。両方とも経済至上主義の弊害に悩まされつつも「Free From Money」をキーワードに模索は始まっている。具体的に農業がどう展開するのか、誰が何を教えるのかは多くの人が探し、試みている。今回水戸農業高校から駒木根先生をお招きしたが、先生の話を目当てに水農の卒業生が数人集まった。彼女らの意見を聞くと教育は何年もしないと効果は分からないこと、様々な問題が山積みだが、1人の人間に教育がプラスの効果をもたらしたときの素晴しさを感じずにはいられなかった。
報告者:飯泉仁之直

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