島に暮らす人間達〜その1〜

沖縄県渡嘉敷島の教育実習への道

泉川功一郎

 今回は、沖縄で教育実習をやりたいと思うきっかけになった昨年の旅の中で、私を勇気づけてくれたことについて話をしたいと思う。それは全くの無宗教論者である私が宗教に深い関心を抱いてゆく物語である。



 それは昨年の夏、沖縄へ一人旅に出た話である。今思い返しても、あの旅は決して気ままな、気楽な一人旅じゃなかった。私は目的を見失った大学生活の中で苦悩し、何を頼りに生きて行けばいいのか、どこに私の幸せと呼べるものがあるのか、殺伐とした世界を漂っていた。沖縄への一人旅はやるせない、希望の見えない現実世界からの逃避であり、希望を目指して歩こうとする自分探しの旅であった。そして、なぜ沖縄だったのかと問われれば、決して他人に理解してもらえるような理屈では語れない。とにかく、私の心の針は南の方角を指していて、南の世界を想像すれば、頭の中に光が差し込み、さわやかな気分にひたる事ができた。

 そして、このことは後で、沖縄の地へ着いてからたくさんの人達から『泉川』の姓は沖縄の名前だと話され『ハッ』とするのである。私に沖縄の血が流れているのではと、瞬時に直感した。そして、苦悩の果てに漂っていた私の終着地点が沖縄だった事に何か太い運命線を感じたのである。沖縄へたどり着くまで、私は鈍行の列車に乗って鹿児島まで行き、そこからフェリーで沖縄へやってきた。沖縄へたどり着くまでの十数日程の旅路もまた貴重な体験だったのはいうまでもない。旅のゆく先々で出会う人から頂いた、様々なエピソードが、またはその人、一人一人の出会い自体が、私の次の出会いを産んでゆくようで、全ての出会いが必然で私は何ものかに導かれているかのような不思議な感覚を感じていた。そしてその時、その時の出会いがその時の自分にこそ必要だったと思え、後になって思い返すとそれは、次の出会いの準備であったようにも思われた。あるいは、列車に乗り遅れたり、ある時ふとした思いつきで理由もなく行く先を替えたりしたこともまた、必然だったように後になって私は考えた。



 そんな私の不思議な旅路、まるで何物かによって始めからレールを敷かれたようでありながら、瞬間瞬間のレールをこの私自身が確かに創造していたように思える私の旅路の末に行き着いた沖縄で、私は何に出会ったのかと語ろうとすれば、それは久高島の道端にいたオバーであり、バス停で知り合った畑を耕すクリスチャンのオバーであり、伊江島の阿波根のオジー(沖縄の反戦の父と呼ばれる)であり、それらを一まとめにすれば、『うちなーの心』というやつなのか、いやきっと『うちなーの宗教』または『精霊崇拝』(アニミズム)とも言えるだろう。

 私は沖縄で出会ったオジー、オバーの話すその物言いや穏やかな表情、彼等を取り巻くゆったりとした時間のリズムの中に私のどんよりとした心の中がスーッとゆっくりゆっくりと浄化されてゆくのを感じた。そして、彼等の後ろには鳥達や畑の作物、風や太陽に向ける濃やかな愛情がある事を、そして彼等の話しの中に、あらゆる自然の『いのち』の中から多くを学び感じとり、自らの生きる知恵としているのを思った。そして彼等は私が旅の中で感じたものでもある『大いなる力』の下で生きているのだと、『大いなる力』を後ろだてにした上の『美しい笑顔』があるのだと私は感じる。

 そして、私が行き着いた沖縄の地で最後に出会ったものが、『アルケミストー夢を追う少年ー』(パウロ・コエーリョ)という一冊の本であった。一人の少年が錬金術師を探し求めて、長い旅をしながら、様々な人や動物達との出会いがあり、その中で多くの知恵を学び取りながら、大いなる力に導かれ、最後に本当の愛を悟る物語である。旅の中で知り合った女性から、あなたにこの本を読んで欲しいと薦められ、私は旅の帰路の中でこの本を手にした。私は旅の中で感じ取っていた様々な不思議な思いを、確かに何かをつかんだ感触を手にしながらも、うまく言葉で表現する事ができなかった。しかし、そんなモヤモヤとした心の内界を見事に、私が普段、使用する言葉とは別の言葉で、この本は表現してみせたのである。その言葉こそが、私の思いもしなかった『かみ』や『運命』、『大いなる力』という言葉であり、私がここで話してきた言葉全てなのだ。



 何て不思議な事かと思う。旅にでる前まで全くの無宗教論者だった私がこんなに宗教を語るようになるとは、何物かを畏れるようになるとは。しかし私は、宗教を語るようになっても、決して既存のキリスト教や仏教のどこかの宗派に属そうとはしないでいる。傲慢な言い方かもしれないが、どこか物足りない、偏狭な感じがする。私がみたものは、畑を耕すクリスチャンのオバーの中にあった作物や土に語りかける目であり、『アルケミスト』の中で描かれていた人間が自然と対話する世界である。アルケミストの著者コエーリョもクリスチャンであるが、私が信じるのは、彼やオバーが信仰するイエス・キリストではなく、私が彼等の中にみたもの――それは彼等の精神世界の一断片に過ぎないのかもしれないが――それだけなのである。そこに私は宗教の真理を感じている。宗派も何も関係しない人間が生きるという事の原点を。



 以上が昨年、沖縄へ旅にでた時の話である。畑を耕すクリスチャンのオバーとは、今でも手紙のやり取りをしているし、教育実習で沖縄に行った時も一泊させてもらい、全て自給の野菜料理でもてなしてくれた。彼女は、自分が食べる野菜を自分で作るということがいかに大切で、そこから学ぶ事が多いということ、そして、そういう風に生かされている事を毎日感謝していると話してくれた。

 何か悩み事があって電話をかけると、『いつも畑の作物に声をかけながら、泉川さんの事を祈ってます。』という言葉からオバーの話は始まる。私は、オバーの心に自然と対等に向き合うアニミズムの世界を確かにみたと思っている。しかし、彼女と宗教の話をすれば、神はイエスだとして、アニミズムを断固と否定する。それだけは、今でも矛盾したものとして私の心に残っている。それでも、沖縄の旅で触れあった彼等の心に魅了され、もっと生活をともにする中で、いろいろな事を肌で感じたいという気持ちが沖縄の離島での実習へ奮い立たせたのだ。

 次回は、渡嘉敷島での二週間の教育実習を通して、地域や学校の人達とふれあう中で感じた事を書きたい。学校では様々な矛盾にもぶつかった。しかし恵まれた海や山の自然、独特な島の歴史、土着の宗教など、そして沖縄戦の話や昔の生活文化について詳しい方々を前にして、『島から学ぶ』以外、ここの教育はありえないと思ったし、もはや、『島から学ぶ』のは文明人全体の課題と思える程、感動があったのも事実なのだ。



back to TOP
Back