霧中の教師像



 教師という職業について考えることを今まで私は避けていた。それは自分の両親が教員で漠然と教師の仕事の苦労を見てきたためだと思う。私自身、教員になるつもりもなく、大学でも教職科目を履修することから遠ざかっていた。しかし、農業のことを学ぶうちに農業高校や農業を導入した教育方法、環境教育の方面に興味が広がり、教師という職業について知り、今までの思い込みを見直す必要が出てきた。だが、教師について知ることは、教育とは何か、という問題とも否応無しに関わってくる。このテーマはとても一度でまとまるものではないので今後、数回に渡って書いていくことにする。教師とは一体どういうものなのか。今回は「教師の卵」である、教職科目を履修している学生を考えてみたい。

〜学生はどのような教師を目指すのか〜
 今回話を聞かせてもらった学生は大学二年生から大学院生の七人である。始めに断っておくと「このような教師になりたい」という自分の教師像をもっている人は少ない。四年生、大学院生となり教育実習を受け、進路を教員に決定した学生がそのイメージをもっているに過ぎない。だが、その教師像について聞いてみると中学なり高校で自分が生徒であったときに影響を受けた教師の姿を手がかりに創り出そうとしているようだ。教員と言う職業がまだ選択肢のひとつに過ぎない二年生でも、やはり印象深かった教師が未来像となっている人は多い。そこで学生が生徒だったときに影響を受けた、あるいは印象に残っている(主に高校の)教師像の特徴的なものを学生の声で挙げてみよう。

◇大阪府出身・ 男性
 高校一年のときの担任が印象に残ってる。というのは僕の性格は周期的にすごく落ち込んでいつの間にか治るというもので二年生のときも落ち込んだ。二年の担任の女の先生が心配して一年のときの担任に相談した。その時一年のときの担任は「ああ、あいつは、ほっとけば大丈夫だよ」と女の先生にアドバイスしたんだ。このことを後から聞いて、「この先生はぼくの性格を分かってくれてるなあ」と感心したことがある。

◇千葉県出身・女性
 高校の先生で若い頃に音楽で食べていたけれどグループを解散して予備校の講師になり、それから県立高校の英語の教員になった人がいた。色々な経験をしている人だから頭が柔らかくて、私達、生徒の考えることをとてもよく分かってくれた。服装もラフで声をかけやすく、相談もしやすかった。だけど「もう高校生だから」と生徒の行動や意見も筋の通らないことは本気で怒られた。勉強の方も教えるべきことは教えているという感じで、先生の間でも一目置かれていた。人間的にもすごく魅力のある先生だったと思う。

◇神奈川県出身・男性
 高校一年のときの先生がすごく世話やきだった。三年になっても声をかけてくれたし、友達と家に呼ばれて英語を教えてもらったりした。うざいと思ったときもあったが今となってはありがたいなと思う。その先生とは別に自分では生徒に何も聞いてこない先生がいた。聞きたいことも他の先生や生徒を使って聞いていた。先生が仲間ぐるみで行動したり、つまはじきにしたり、人間関係のしがらみも当時は印象深かった。

 ここで、教職科目を履修しながらも教師にはなりたくないという学生の声を挙げておこう。

◆大阪府出身・男性
 教師は人と人とのつながりが深すぎてこわい。生徒の人生に関わるわけだし、そのときの影響もものすごく大きい。教師はある意味、生徒に生き方を教えていると思う。ぼくは自分の生き方や自分自身に自信があまりない。こんな気持ちで教師になっても生徒に申し分けないと思う。

◆神奈川県出身・男性
 教師になってしまうと自分の意志にそぐわないことを生徒に押し付けることになるかもしれない。例えば服装であったり、受験のための勉強や休み時間の過ごし方まで「学校の方針だから」と自分も納得していないのに生徒に押し付けざるを得なくなりそうだ。規則に従うことだけがいつも正しいとは限らないと思うし、矛盾することをどう教えていったらいいのか、それを考えると教師になるのは難しいなと思ってしまう。

 上の意見にある矛盾という言葉は考えさせられる。進学校であるならば受験のための点数の採り方を教えなくてはならない。だが、そんな勉強が社会に出て役に立つのかという問いには生徒と教師が納得のいく答えはない。大学に進学することを生徒の目標に挙げさせているが、大学に行くこと自体がその生徒にとってよいことなのか分からない。どこまでが学校の押し付けでどこからが生徒の希望なのか区別が付けられない。生徒のもつ悩みがかつての自分のそれと同じでありながら自分の中で解答が出せていない。多くの疑問と矛盾が「先生に聞いても分からない」という生徒の思いと共に答えられないまま残り、どんどん増えていく。実際の現場でも疑問を感じながらも日々の授業を進めざるをえない教師、答えを出せずにノイローゼになる教師、授業の一時間を何事もなく過ごすことに汲汲とする教師も大勢いる。学生がこの解答を出すことは当然、現場の教師よりもさらに難しい。だから教師になりたくないという声が出てくるのもしかたないのかもしれない。
 「教師としてこうあったらいいのではないか」という学生の教師像は一致していない。それは話や行動に筋が通っている、怒るべきことは何と言われても怒る、誤りは素直に認めて誤る、親しみを示す、やるべきことはやるというように社会人として最低限のマナーを備えているという共通点はあっても、「何を重要とするか」、「どう生きれば教師としていいのか」は各人に委ねられているからだ。つまり、どんなに強く影響を受けた教師がいても学生がその教師と全く同じ考え方、物の捉え方をしているわけではないので自分の教師像そのものにはなりえないのである。学生の教師像は実際に出会った教師の姿を追いながらも学生が自分で悩み、考えたことを伝える等身大の自分の姿ということにになりそうだ。今、我々学生の重ねている経験、交している議論が各々教師になったときの魅力になることは間違いなく、多くの人が気付いていると思う。しかし、私を含め、どれだけの学生がそのことを意識し、真剣に悩むことを大切にして日々の生活を送っているのだろうか。まずはこのことを振り返って欲しい。
飯泉 仁之直


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