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 いろいろな思いの詰まった卒業式から、早くも1ヶ月が経ってしまいました。今は 就農に向けての準備期間として、実家で充電期間を過ごしています・・・と申し上げたいところなのですが、延々と続く「日常」が危機感を薄れさせ、何より農に対する想いが摩滅することを恐れています。学生時代は「家事とは非常に創造的な仕事である」と唱えていましたが、実際に日々接するとそうは思えない自分。家族関係、ご近所の人間関係に右往左往して、無職を気に病む自分。理想と、現実の自己の姿とのギャップを、このひと月で再認識させられました。一方、無職者になって初めて、私の生きている社会の実像が見えて来た部分もあります。

「先進国」の恩恵から脱することは可能か
 今の自分の姿に悩んでしまうのは何故か。考えてみれば、消費一辺倒の生活をしているのだから当然のこと。そういう消費生活が当たり前の社会の中で、財を生み出さない非生産者はとんでもなく生きにくいのです。保険は入れない、年金も危なっかしい、ローンは組めない・・・お金が無いと「先進国ニッポン」の恩恵にはあずかれないのだ、と実感させられました。
 それは国民年金の免除申請をする中で、「先進国」を考えるうちに感じました。科学の発展がもたらした先進的文明を享受することで、私達は明日生きることを心配しなくてもよい生活を手に入れました。生きることのほかに遊ぶ時間、考える時間などをもて余すほどです。その代わり、労働や居住などの不自由を受け入れなくてはならず、そこから来る多大なストレスとも共に暮らさなければなりません。
 4月28日の日本有機農業研究会のシンポジウムで、中島正さんは「自然の浄化能力を超えないばかりか、蓄積した毒物を帳消しにするくらいまで生活のレベルを戻さなければ、人類は安楽死する」という内容のことをおっしゃいました。そのような生活を成し遂げるなら、中島さんも触れ、また 筧次郎さんも書かれたように、近代文明的娯楽・消費生活はもちろん、教育・医療の分野においても高度なものは受けられなくなるでしょう。極端に言えば、20年先の安定はもちろん、明日の生命の保障すら得られなくなります。そのような世界では、現在とは全く生死観が異なってくるものと思われます。杉浦日向子さんは言います。「江戸は生老病死を春夏秋冬のように受け止めて、享受して、老いは老い、病は病、死は死として迎え入れていた。」果たしてそんな生死観の変化は起こりうるのでしょうか。なによりまず私の観念を変えることができるのかを、今自分の課題として考えます。

「緩慢な死」の中でも生きる
  しかし実態を知れば知るほど私達を絶望的にさせる、とてつもない問題が未来を遮っていて、選択の余地はないところまで来ているというのが実際のところだ、とも思っています。その「問題」の最たるものが、原子力発電と環境ホルモンから生ずる問題でしょう。先進的文明のもたらす超自然的な力は、明日起こるかもしれない悲劇に対する、危機を感じる感性を、徐々に鈍らせていきます。根拠も無しに私達は、今日大丈夫だったから明日も平気だと自分の感性に嘘をついていますが、突然その幻想的日常が破られ、ガイガーカウンターのけたたましい叫びを聞かせられながら強制退去を求められたり、日本近海の巻き貝が絶滅しかかっていることに気付かされたりするのは、紛れもない現実の出来事なのです。いったん問題に破局が訪れると、もはや頼れる解決法は自然の回復力と時の流れしかなく、ヒトの無力さに茫然とするしかありません。恐ろしいのは、子々孫々にわたってあがないようのない悲劇が続いてゆくこと。そしてその悲劇の規模を拡大させ続けている自分の罪深さにおののきます。
 辺見庸さんは著書『もの食う人々』で、チェルノブイリの近くで放射能に汚染されたものを食べる生活を続ける人に「明日生きるために緩慢な死を選ぶ」生き様を感じたと書いていました。そうせざるをえない彼らの状況と、選んでこうしている私達とでは、もちろん立場が全く異なりますが、明日の生活の安心を得る代償に、皮肉にも未来の可能性を自ら切り崩している点では、日本の私達も同じだと思います。
 日本の状況はあまりにも悲惨ですが、しかし現在の地球で、完全に安全な場所などどこにもありません。やぼ耕作団の人達が、水が汚れているとわかっていても、自らの住む都会の中で田をつくり、その米を食すことに価値を見出したように、土からのものを食べ、土に帰ってゆく私達は、どこまでも土にへばりつきながら生きるしかないのだと思います。およそこの百年ほど、私達が唯一生きられる地球に、負の遺産ばかりを残し続けた時代はなかったでしょう。そして『もののけ姫』のメッセージを思い出します。この一寸先の闇を生んだのが私達ならば、それを取り除くのも私達の手で行いたいし、また私達にしかできない義務なのだと思うのです。

そして私は・・・
 いろいろとお伝えしたいことを書き連ねてきましたが、さて、ではいかにすればよいのか、ということはまだ何も書けないでいるのです。自分からまず行動を起こさなければ、有機農業の取り組みについて「理想論だ」と批判する人に、自信をもって反論できないと思ったからです。私は、皆が自分にほんとうに誇りを持てるように生きれば、世の中は良くなると思っていて、自分は消費社会を進めることに誇りを持てないと思ったので、就職をしませんでした。もちろんそうしたからといって、矛盾に悩まないまま生きられるとは思っていません。ただ、農は人間関係に支えられ、ヒトは人間関係に生きる、ということがわかった(ような気がする)今は、「生活者という人間関係をアグリエイターの立場から創っていこう」と思っています。そうして、誰にも搾取されない、またほかの何者も、未来も搾取しない暮らしを、農という生き方を通して探っていきたいと思っています。
 この悩み多き大脳は、まさにThink Globalなことを考えていますが、私がまずアグリエイターの第一歩としてやったのは、母にあんこの作り方を教わること。Act Localすぎるかも?でもこれで自家製あんこの夢が広がりました。さて、第二歩目は・・・・・。


中島正 :岐阜県在住、自然卵養鶏家 やぼ耕作団 :東京都日野市を中心に活動した市民農作業グループ
筧 次郎 :茨城県八郷町在住、鹿苑農場主 もののけ姫 :宮崎駿監督'97年アニメ映画
杉浦 日向子:元漫画家、江戸文化評論家 Think Global Act Local:市民運動などで広く使われている言葉
辺見 庸:作家 アグリエイター :私の造語 Agriculture+Creater


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