国家的な開発の流れの中で、その渦に巻き込まれる者がいれば、自分達の足元にある生活の見直しから社会を変えようとする者もいる。そういうタイの状況と、市場経済至上主義の中、葛藤しつつ有機農業を目指す者もいる日本とは、どこか似ていないか。海外を通して日本が見える。

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海外農業事情  タイ編
環境科学研究科2年  井関 徹

タイでの一年間を振り返って



旅行者の目と長期滞在者の目

 私が今同の一年に及ぷタイ滞在で感じたのは、旅行者として観たタイ社会と長期に滞在して見えてくるタイ社会とはかなり違うという事である。初めてタイに行ったのは95年の夏休みで、あるNGOのスタディツアーでタイ東北部、チャイヤプーム県の農村に2遇間にわたってホームステイした。その時はタイについては殆ど知識がなく、更にタイ語を全く話すことが出来なかったため、もっぱら身振り手振りの会話だった。そのためか、自然とタイ人達の動きや顔の表情に注意するようになったのだが、そこのほぼ自給自足的な生活や、村落内の緩やかな相互扶助関係、人々の(特に子供たちの)笑顔など、今の日本の社会には無い何かがそこにあるように感じた。
 しかし、今回の滞在中に2回ほどその村に遊びに行って、日常会話程度のつたない会話ではあったが彼らと話してみると、今まではわからなかった事実が浮き彫りにされてきた。一見、我々には豊かそうに見える彼らの生活も、実は政府による抑圧や市場経済化の波といったもろい社会的基盤の上に成り立っていたのだった。我々先進国の人間が発展途上国を旅行しクとき、様々な感想を得て帰ってくる。それは、「経済的視点から見て貧しい」であったり、「日本のように整備されていなくて汚い」「治安が悪い」、なかには、私のように「日本と比べて人間的に豊かだ」というように感じる人もいる。しかしながら、それは日本という経済的には比較的裕福な国に生まれ育ったという立場から発せられたものであって、余りにもうわべだけしか見ていない無責任な感想ではないだろうか。


農村の暮らし

 タイは大きく分けて4つの地域から成り立っている。その中で最も貧しい地域とされているのが東北部(イサーンと呼ばれる)である。降水量が少なく、土壌条件も悪いため農産物の収穫量が少なくたびたび貧困を引き起こしてきた。塩害を引き起こして土壌表面が塩で白っぽくなっている土地も少なくない。私が何度か訪れた村もそのイサーンにある。チャイヤプーム県の都市部からソンテウという乗り合いバス(荷台付きトラックに屋根を付けたもの)に乗って舗装されていない道を1時間ほどゆられた所にある、かなりこじんまりした村である。
thaim.gif  村の生活は、日本と比べるとはるかに貧しかったが、私にとってはそれほど苦にならずむしろ過ごしやすかった。タイの農村部にある家は基本的に木造の高床式である。屋根はトタンで何枚かの板を床と周りに張り合わせたような簡単な造りになっている。窓はない。タイには雨期と乾期があるのだが、雨期にはこのトタン屋根を伝った雨が桶に溜まるような仕組みになっていて、これが飲み水となる。電気はあって、テレピや冷蔵庫といった電化製品はだいたい何処の村に行ろても一家に一台はあり、交通手段としてはバイクが使われる。食料は、自分で作った米や庭で飼っている鶏や川で釣った魚を食べ、畑や森からは野菜や呆物を採ってきていた。ほぽ、自給自足で見事に自然と共生し溶け込んでいる椎に見えた。
 その村は、大量の木材伐採により少なくなった森を元に戻そうと、国家主導による植林政策の一つである「イサーン緑化政策」によって造られたユーカリの植林村であった。そのため、村の男達は植林事業のための働き手で、植林面積はかなり広範囲に及んでいた。ユーカリは少々土質が悪くても育ち、しかも生艮が早いので重宝がられている。が一方で、水分や着分を土から大量に摂取するので下草が全く生えなくなり、また葉には毒性要素を含んでいるために動物が寄ってこない。実際に足を運んでみたが、本当に他の森と比べると全く下草が生えていなくて、しかも虫の鳴き声すらせず静まり返っていた。確かにユーカリの植林は環境に対して良いとは言い難い。何故このようなユーカリが植林樹種として選ばれたかというと、紙を作るための原料となるパルプを加工できるからで、このパルプの大部分は紙を大量消費している日本へと輪出される。植林という名目で輸出産業を増やしていると言っても過言ではない。タイでは土地の権利という法的な整備がまだまだ不十分で、農民が生活しているにもかかわらず国が勝手に緑化のための土地として囲い込み、農民を追い出して栢林をするというケースもあり、事態は深刻である。
 しかし、実際に村に入ってわかったことなのだが、この植林のおかげでこの村の人々は都市部に出稼ぎに行かなくても生活が出来るのである。現に、この隣りにある普通の村では全く若者の姿を見かけることはなかった。私が見て回ったタイ東北部の大部分の農民は小農民で(タイにはこのほか中部、南部、東部・西部と地理的、気侯的に区分されて、地域によって少し様相が異なる)、自給自足用に米を作っている。しかし、収穫は気侯によって左右され、雨があまり降らない年は自給用の米さえ満足に得られないことさえある。また、テレピやオートバイといった商品を買うためのお金が必要になる。だが、大部分の鹿村には近くに金を稼ぐ機会(工場など)がないため、多くの農民がバンコクといった大都市へと米の収穫が柊わると日雇い労働へと出かけていき、ピルの建設現場などの悪条件の労働を強いられ、かなり低い賃金しかもらえないというのが実状である。このような状況を考えると、本当に森を復元するためには土着の木を植えた方がいいに違いないのだが、農村にすみながらにして現金収入を得ることが出来るユーカリのほうが歓迎されるのであろう。タイではほとんどの農村に電気が通じ、またテレピも普及し、毎日のように流れるコマーシャルによって消費欲は高められ、人々は更によい生活を求めている。経済的豊かさを求めて環境や生態系がないがしろにされるのは当然のことになりつつある。ここに環境と開発(市場経済化)を考えるうえでの難しさがある。


農村開発における「抑圧」と「抵抗」

Top-Pm.jpg  現在、上記でも少し触れたように、これまでの政府主導における「上から」の農村開発による様々な弊害が生じているため、村落レベルにおける民衆の自助的な運動としての「下から」の農村開発が生起しつつある。その一つとして、請願運動的性格の強い“貧者会議”という農民組織がある。私がタイに滞在している間も、今年の1月25日からバンコクの総理府の周りを約2万人の農民が取り囲んで座り込みを行った。最初の頃、何度か顔を出したが、彼らは、まさに長期戦を見越したかのごとく生活道具を一式持ってきていた。到着と同時に簡易テントが建てられ、仮の宿となる。移動式便所や給水施設や簡易医療所が市から提供されていたし、何処からともなく物売りの屋台がやってきているから生活には困らなそうだったが、やはりこの環境の悪いバンコクの路上で、ほとんど寝るスペースぐらいしかないような寿司詰めの状態にお年寄りは耐えられるだろうかと心配になった。というのもここに来ているのは、半数以上が爺さん婆さんによって占められていたからである。
 この“貧者会議”のバンコクの座り込みは今回で2回目で、前回の座り込みで政府に解決を求めた問題か約束どおりに解決されていないため再び行われた。上述したように、“貧者会議’は農民組織と言われているが、実際は様々な課題と取り組むNGOの集まりでその対象が農民という共通点を持っている。そのため、彼らの求める要求は多肢に渡っでいる。今回の要求は前回とはそれほど変わってないが、前画は扱われた問題の件数が47件であったのに対し、今回は全体でl2l件と、およそ2倍強に増えた。内容は、ダム建設により水没した村の住民に対する補償問題や土地問題(森林保護のための政府による住民の強制立ち退き間題等々)、バンコクや都市部のスラムの強制立ち退き間題、農作物等の価格問題、工場で働く労働者の健康問題、有機農業や複合農業の政府による促進といったものだった。
 結局、彼らの座り込みは5月3日まで続けられたが、ようやく政府との折り合いがついたようだ。今回の連動に参加してみて、やはり発展のしわ寄せは確実に弱い(いろいろな意味で)農民に行っていることが実感できたということと、そんな中での発展によって一番利益を得ている都市住民、特にバンコク市民の関心の無さが印象的だった。


今、思う

 この一年を通してじつに多くの人と出会い、また多くの出来事と遭遇してきた。その中で見えたものは意外にも日本という国の姿だった。バンコクに行けば日本製の電化製品が溢れ、渋滞の道には日本車。年間に何万人という日本人旅行者がタイを訪れる。日本人にとってタイは遠い国ではなくなった。しかし、タイの農村に住む農民の実状をどれだけの人が知っているだろうか。我々が知らないうちにどれほどの人々の生活に影響を与えているのか。それは、いい影響であるかも知れないし、知らず知らずのうちに搾取しているのかもしれない。物質は国を越えて循環しているにもかかわらず、意識はそれに伴っていない。知らないということがどれほど罪なことなのかを痛感させられた。また、今まで日本の中で生活している一人の日本人として、環境問題を学び途上国について考えてきたが、それはある側面からの見方で、机上の空論に過ぎなかった。そこには環境間題という事象についての知識しかなく、それに絡む人々の状況や苦悩はそれほど触れることがなかったし、それを実感として感じることは皆無に等しかった。それが海外のこととなると尚更である。また、違う文化の中で育ち、考え方も違い、「環境」という日本ではある程度一般的に認識されるようになった意識を持たない人々と関係したことで、”環境間題を考える前、もしくは並行して解決しなければならない問題”というのが浮き彫りになった。それが、「開発」という問題である。タイのほか一般的に途上国と呼ばれる国々は「開発」という国家的な大きな流れの中にある。今私は、国が「開発」と「環境」という問題に対してどのように調和をはかり、その中にいる小農民達がいかなる発展の方向に向かうのかということに興味を持っている。上記のことは私の中で一つの教訓として刻み込まれた。物事というのはあらゆる側面から照らしてみてようやく立体的な形が見えてくるのである。ある一面からの乎面的な見方では何もわからない。そういう意味でこの一年間の経験は、これから環境問題という複雑な難題を考えていくうえでの貴重な体験だった。




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