ニワトリがさきかタマゴがさきか
「腐っている学生・腐っている教授」が今年度の名古屋大学学園祭のメインテーマだという。これだけ社会状況が混迷しているというのに大学がなんらかのインパクトを与えるような思想を呈示しえない状態は、情けないとしかいいようがないが、大学は腐っていると言われても反論の余地はない。
大学の授業がつまらないとか、教室のムードが沈滞しているということはしばしば指摘されている。私の知り合いの大学生(A君)の話によるとたしかに大学の授業には面白いのもつまらないのもあるが、つまらない授業も結構面白いというのである。この教授は馬鹿だなとか、何十年も勉強してこの程度のことしか話せないのかとか、内容はないけれどテーマは面白いとか、自分だったらこのテーマはこういうふうに展開するとか、次々とアイデアがうかんできて興味はつきないという。なるほどこのような授業の聴き方をしている学生もいるのかと感心したのであるが、A君の話によると問題は学生の反応だという。面白い授業もつまらない授業も内容に関わりなく、おしゃべりしている人はおしゃべりし、居眠りしている人は居眠りし、さぼる人はさぼっていて、いったい彼らはなんのために大学に来ているのだろうかというのである。
学生にとって大学とは何なのか
いまはどこの大学でもシラバス(授業科目の概要)というものが学生に配布され、それを十分に検討したうえで授業科目の登録をすることになっている。外部の人にシラバスを見せると今の大学はこんなにまでいたれりつくせりでやっているのかと驚かれるが、驚くのはまだ早い、学生の多くはシラバスをほとんど読まずに授業をとっているのである。何を根拠にそのようなことが言えるかというと、リアクションペーパーにシラバスを読んでいたら書けるはずのないことが堂々と書いてあるからである。2単位の授業科目の場合(2時間半の講義10回分)A4版で2ページであるからシラバスの情報量は相当なものである。ちゃんと読めばかなり有効なものだと思うが、読まれなければ紙クズ同然である。いったい学生にとって大学とは何なのであろうか。小椋佳は、はやばやと今をときめく第一勧銀をやめ(脱サラ)いま学生(文学部)をやっているが、一年間に79単位取ったという。79単位といえば約20科目である。朝から晩まで授業を受けている勘定になる。もしつまらなかったらそういうことをやるだろうか。面白いのである。大学の教員も馬鹿ばかりではない。探せば必ず面白い授業があるはずだし、それよりもまず聴く耳を持つことである。
生きにくいということ
リアクションペーパーの中で少なからず目についた意見は、「有機農業はいい子ぶりっこではないか」というものであった。私が有機農業論という授業を行ない、その結果として膨大な量(500枚以上)のリアクションペーパーと授業中の反応や意見などが残されたわけであるが、そこから今の学生の実像をつかむのはむずかしいとしても、彼らはある特定のスタンスを持つ(立場に立つ)ことを躊躇しているように私には見える。これは二重の意味でひとを生きにくくしているように思う。まずそのような学生自身が自分のスタンスを持ちえずにフラフラして他人の言に惑わされ、生きるための方向軸をもたずに流されていく「見えない生きにくさ」にはまって漠然とした不安やイライラに苦しむことになる。一方自分のスタンスを持ち、方向軸を持って歩きはじめた人間はまわりの人間と異質である(変わり者)ということで生きにくくなる。
エコロジーの終焉
世の中というものはだんだんよくなるものだという幻想がある。自然はまさにそうである。農業は人為的なものだが、有機農業を実践することによりかなり自然そのものを観察することができる。自然をじっと見ているとたしかによくなっていくということが実感できる。エコロジーの思想の本質はそこにあるのだと思う。世の中の方はどうだろうか。だんだんよくなっていくという実感が持てない。むしろだんだん悪くなっていくように見える。強いていえばだんだん悪くなって最後にどんでん返しでよくなると思いたいがそれは甘いということだろう。
「地球は一個の生命体である」というのはエコロジー思想の中核をなすものであるが、自然や生命系の法則の根幹はホメオスシタス(恒常性)にあり、私が常々「よくなるために悪くなる」というのもエントロピー増大を解消するメカニズムを生命系(自然)が持っている(エントロピー減少の法則)ということを意味している。
「風の谷のナウシカ」が完結し(1995年コミック版)その結末の難解さが その後繰り返し論じられている。アニメ版では「火の7日間戦争」で汚染された大地の毒を腐海の植物が取り入れ、大気中に瘴気(毒ガス)という形で放出している。しかしこれは解毒作用であり腐海の地下では空気は浄化され、いずれ「青き清浄の地」がよみがえるというエコロジーの聖典ともいうべき物語であった。ところがコミック版の最終巻では人間の体が瘴気に適応して変わってしまっていて、大気が最終的に浄化されれば、人間は生存できなくなるというのである。エコロジーの終焉である。人類に未来はないのか。
有機農業というパラダイム
私が「有機農業論」という授業の中で一番いいたかったことは思考の枠組みの転換(パラダイムシフト)ということであった。
今の世の中で何が問題であるかといえば第一勧銀事件がはっきりと示しているように、これまでの思考の枠組みの延長線上では問題が解決しないということである。旧来の経済至上主義という枠組みの中では有機農業もお金もうけになってしまうということである。そこで新しい思考の枠組みが求められているのだが前回指摘したように有機農業というコンセプトの中に新しい思考の枠組みに関するほとんどの要素が組み込まれているといっても過言ではない。
有機農業をつきつめていくと結局自分自身のライフスタイルという問題につきあたる。テレビのグルメ番組ではないが、ぜいたくのために有機農産物を食べるわけではないのである。日本は経済的には成熟社会になった。だからこそライフスタイルを選べるのだともいえる。
ところがリアクションペーパーの中に「正しい有機農業、客観的有機農業、科学的有機農業を教えて欲しい」というのが多くあった。がっくりきたが、そんなものはないのである。100人の有機農業家がいれば100通りの有機農業技術がある。それぞれの有機農業のやり方があるのだ。正しい生き方などない。それぞれの生き方があるだけなのだ。学生の受講態度は一貫して「正しさ」というマニュアルを与えてもらうのを待つだけの受け身のものであった。
最後に希望だけが残った
いろいろやってみた。すべてだめだった。しかし最後に希望だけが残ったと思いたい。そこから新しい何かがはじまる。
つくば有機セミナーに女子高生(Bさん)が参加したことがあった。これまでも親と一緒にとか、親の紹介で参加した高校生や中学生は何人かいたが、Bさんの場合は、たまたま有機農業新聞を手にいれる機会があり、それを読んでいるうちにどうしてもセミナーに参加したくなり、水戸から電車とバスを乗り継いできたというわけである。筑波大学の構内の右も左もわからない。筑波大学へ行ってもセミナー会場へたどりつけるかどうか。来る途中胸がドキドキして手からは汗が吹き出してきましたとBさんは後で述懐していたが、ほんとにそうだったと思う。私が高校生だったとき、それだけの前向きな姿勢があっただろうかと思うと、今の若者は捨てたものではないどころか、そこに希望というものが見えてくる。学ぶということはそういうことではないだろうか。私の「有機農業論」も前向きに学ぼうという姿勢をもった人たちと一緒にこれからつくっていきたいと思う。
(橘 泰憲)