五十嵐 一 1947年新潟市に生まれる。70年東京大学理学部数学科卒業。76年同大学院美学芸術学博士課程修了。同年秋よりイラン王立哲学アカデミー研究員として渡イ。現在、イラン哲学アカデミー客員、筑波大学助教授(比較文化学類)。専攻、イスラーム学、比較文化。 著書に『知の連鎖』『イスラーム・ルネサンス』(共に勁草書房)『音楽の風土』『摩擦に立つ文明』(共に中公新書)など、訳書に『医学典範』(イブン・スィーナー、朝日出版社)がある。 (『神秘主義のエクリチュール』(法蔵館1989)巻末より原文のまま)
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師常に手まりをもて遊び給ふるとききて奉るとてこれぞこのほとけのみちにあそびつつつくやつきせぬみのりなるらむ(貞心尼)
御かえし つきてみよひふみよいむなやここのとをとをとおさめてまたはじまるを(良寛)
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目の前に一人の人間が出現すれば、それだけでも世界は変化する。その変わりようを全人格的に受け止めて、自分も変化の渦の中に巻き込まれることを厭わない。
「ここに、今」 hic et nunc こそすべてという態度こそ、そして良寛と貞心尼の相聞に溢れ出る明るさと暖かさこそ、われわれが考える神秘主義の presence 感覚であるが、その姿勢がそのまま歌となって発露したところにひとつの神秘主義のエクリチュールが完成する。
presence感覚が「ここに、今」を大切にして、現在の充実にかけるものとはいえ、しかしそれは何かしら物を身につけて、もしくは特殊能力や技能を身につけて(両者とも身につけてと表現できるところが示唆的である!)豊かになるのとは訳が違う。すでに見てきたように、神秘道とは「なりふり構わず」が本命であり、個性とか特徴とかにこだわって執着する感覚とは無縁だからである。
およそ神秘主義に限らず宗教の基本は、個々の人間が与えられた生命を全うすべく、そのかけがえのない自己の生命を自覚し、これを磨き上げること、言うなれば個性尊重にあり、真の個性発現に他ならなかった。しかしながら、神秘主義の修行道に入れば、そこでは個性が抹殺されるに似て、名前を尋ねもせず名乗る暇さえ与えられずに、問答が始まり真剣勝負が始まる。むろんそこでは全幅の信頼と愛情が支えとなるが、かといって愛情は決して対象の特徴や個性差に向けられていたわけではない。
言い換えるならば、知識を身に着ければ着けるだけ、そのように身に着けられるものの限界を了解し、いつでも脱ぎ捨てられるような状況へと心境の変化が認められる。否、さもなければそれは単なる慢心に他ならない。そのような真理が心に染みて分かることこそ、ほんとうの知識ではなかったか。身につけられるものは捨て去られるもの、否、捨て去るべきものであると放下する変心の軌跡こそ知識の本来であり、absence感覚のふるさとなのである。
悟りの裡に舞いがあり、舞いの裡には悟りなし。(スフラワルディー)
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