有機農業論の構造 第1回


有機農業論の波紋

 昨年度(12月〜2月)はじめて開講された「有機農業論」は毎回(私の担当は2時間半の講義8回分)とても熱気に満ちたものであり、授業の最後に書いてもらったリアクションペーパーもみな熱心に感想や意見を書いてくれて、全体として成功であったといいたいところだが、受講者である学生と私の間で十分に議論をかみあわせることができなかったという意味では失敗であったと言わざるをえない面もあった。なぜ議論がかみあわなかったのか、そこには有機農業をめぐるかなり重要な問題があるように思えるので、今回は「有機農業を読む」を休載し、この問題について考えてみたい。

 まず受講生の反応といっても70人の学生がいるのだから、その意見分布は多様である。それをごく大雑把にパターン化して分類すると、有機農業シンパ派(約20名・3割)とアンチ有機農業派(約50名・7割)に分けられる。有機農業シンパ派といっても積極的に有機農業を支持するものから興味があるというものまで多様であるが、基本的には有機農業にシンパシー(共感)を感じているといってよい。一方のアンチ有機農業派もたんに興味がないというものから有機農業に反対もしくは反感をもつものまで多様である。私の誤算はそのような学生(後者)が受講生の過半数を占めるということを予期していなかったことである。結論からいえば農学系の学生は基本的に近代農学(化学肥料や農薬を多用し、機械や施設、資材など石油に依存して多収穫と収益性をねらう農業技術)を学習しているのだからそのような学生が大多数であることは当然のことであり、有機農業を志向する学生が3割もいることの方がむしろ意外なことなのかもしれない。


近代農業と有機農業

 一番議論がかみあわなかったのは近代農法のいいところと有機農法のいいところをうまく組み合わせて安全で環境にもやさしく、かつ生産性が高く経済性もよい、そういう農法ができないだろうかという意見が非常に多く、有機農業シンパ派の学生もついそちらになびいてしまうほど一見もっともらしい意見にたいして、私の方は近代農業のカウンターカルチャーとして有機農業を考えていて、「近代農業の枠組みを根底から変えなければならないこと」「そのためにはたんなる技術の問題にとどまらずに思想の転換が必要なこと」を主張したために最後まで議論が平行線をたどってしまったことである。

 農水省のいう環境保全型農業とは近代農業の枠組みの中に有機農業を取り込むということで、私のように500年に1回という文明の大転換の問題として有機農業を考えるというパラダイムシフト派は少数派で、かくして「有機農業論」という授業の悪戦苦闘が始まったのである。


有機農業論の構造

 下のキーワイドを見ていただきたい。近代農業のキーワードは近代社会そのもののキーワードとオーバーラップしているし、有機農業のキーワードはたんに農業の枠にとどまらずに、行きづまってしまった近代社会(現在の社会のこと)を超えるポストモダンの新しい社会の構想を含む内容となっている。

 現在の歴史的大転換の中から生まれてくる社会とは実は有機農業のキーワードがひとつひとつ具現化された社会なのである



近代農業のキーワード
有機農業のキーワード
経済性・生産性・効率性・国際性

西洋科学・無機栄養説・化学肥料

競争・成長・分業・大量廃棄物

殺菌・殺虫・殺草・生態系破壊

環境汚染・エントロピー増大・開発

富栄養化・酸化的・分解・単純化

緑の革命・多収穫・専業化・産業化

巨大市場・大量輸送・貿易自由化

品種改良・遺伝子組み換え品種

対症療法・カロリー栄養学・弱体化

加工食品・アトピー・アレルギー

水耕栽培・植物工場・ビニール

石油エネルギー依存・規模拡大

反自然・男性原理・現実重視型

健康・循環性・環境保全・地域性

東洋思想・腐植説・堆肥・生土

協同・安定・生活者・リサイクル

共存・共生・アレロパシー・天敵

環境浄化・エントロピー減少・景観

生物濃縮・還元的・縮合・複雑化

わら一本の革命・自給的くらし

地場産直・国内自給・身土不二

在来種・風土・多種目生産・高品質

自然治癒力・食養・医食同源

自然食・一物全体食・旬・医農学

露地栽培・輪作・混作・間作・永続性

自然エネルギー依存・有畜循環農業

自然回帰・女性原理・未来志向型



 上のキーワードについてさらに注目してもらいたいのは、近代農業と有機農業のキーワードはそれぞれ陰と陽のように対をなしていて、カウンターキーワードといった関係になっていることである。近代農業の枠組みの中に有機農業を取り込むという発想はそれを延命させようということであるが、それはできないことである。近代農業の構造すなわち近代社会の構造を根本的に変えないかぎり有機農業を実現することはできないし、有機農業を実現するということは有機農業的な社会(世界)が実現するということであり、そのときパラダイムシフトが現実のものとなる。これが私の有機農業論の構造である。



有機農業の普及

 リアクションペーパーの中で非常に多かった意見は、有機農業はいいものとして、どうしたらそれを普及できるのであろうかというものであった。シンパ派はいいものだからぜひ広めたいけど現実はむずかしいというものだし、アンチ派は理想論であり現実性がないと言っていて、これも裏と表といった感じで奇妙なことに同じような意見になってしまっている。これに対して私が十分に説得力のある答えを用意できなかったために議論がかみあわなくなってしまったのかもしれない。

 有機農業の普及という点で現実に世の中の動きはどうなっているのだろうか。昨年春に狂牛病事件がおき、夏にO-157事件がおきたとき、これが有機農業の普及の起爆剤になるであろうというのが私の予想であった。これはある面ではあたっているといえるし別の面では外れたともいえる。まず大手流通や外食産業が昨年来、急速に有機農産物の取り組みを強めているという事実がある。これは消費者のニーズの高まりということもさることながら、むしろPL法の施行が大きいのではないかと私は見ている。PL法(製造物責任法)とは売り手の責任がきびしく問われるということであり、食中毒が発生した場合、売り手に賠償責任が生じるということである。そのような中でO-157事件が発生した。大手流通や外食産業の有機農業への取り組みが加速されたことは間違いない。

 おかしいのは行政の対応である。O-157問題の本質は薬づけの近代的畜産や農業のしくみ、大量に加工された食材に依存する近代的食生活のあり方にあり、それを見直すことにより問題の解決が図られなければならないのに、逆に対症療法的に殺菌をさらに強めるという方向になってしまっている。これは火に油を注ぐことになる。昨年のO-157騒ぎでは「かいわれ大根」が犯人にさせられてしまった。今年もすでに200人以上の患者がでているが、それもまた「かいわれ大根」によるものだと発表されている。ところが不思議なことに「かいわれ大根」ほど衛生的な食品はないのである。「かいわれ大根」が無菌的だからO-157に汚染されてしまったのである。「かいわれ大根」はシロなのだがシロすぎたということか。いずれにしても現代社会の「無菌的状況」が強烈な逆襲(しっぺ返し)を引き起こすことになる。昨年のO-157騒動は16000人の患者と16人の死者という一大食中毒事件であった。これだけ大きな犠牲をはらっても有機農業に転換できないとすると、さらに大きな犠牲を払わなければならないことになる。水俣病にしてもエイズ薬害問題にしてもあまりにも大きすぎる犠牲が払われた。有機農業への転換もそのような犠牲のうえでなされるのだろうか。以下次号。

(橘 泰憲)


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