市民運動に『参加』しよう!

泉川 功一郎

<はじめに>

 私は昨年2月に大学内で、有志数人ながら遺伝子組み換え食品の自主ゼミを始めました。東京のシンポジウムで始めて、組み換え食品の実態や世界の市民運動の高まりを知った私達は、つくばでも何かやりたい、何か始めようと思い立ちました。東京では消費者連盟が中心に『遺伝子組み換え食品いらないキャンペーン』を展開しています。私達はこの会合に月1回、唯一の学生として参加しながら、様々な方々に励ましを受けました。


『若者がいない市民運動』

 それにしてもどこの市民運動でも常に痛感させられるのは、若者が全くいないという現実です。私は常々年配の方々から『若い世代、次の世代の子達のためにきれいな地球を残したい』という言葉をいただきます。毎週、週末になると、団地のゴミ置場で一人で何百という空缶を潰しているおじいさんに出会いました。彼は私に、『環境の破壊は私達の責任。ささいな事しか出来ないが、自分の姿勢だけでも貫きたい。孫達が何かを感じてくれる。これが私の生き方なんです。』とおっしゃった。まさに今の市民運動は年配の方々の日本の気高い義理、人情、倫理感に支えられているといっていい。しかしながら、遺伝子組み換え食品にしろ、ゴミや温暖化にしろ、ゆくゆくは私達若者自身の問題である。運動に若者がいないのは全くの矛盾ではないか。
 私達は4月のアースデイに東京とつくばで参加することにきめましたが、もともとこの運動は、1970年にアメリカの一学生、デニスヘイズが全米に呼びかけスタートしました。今では世界的な環境イベントとなったアースデイは、アメリカの学生達のバイタリテイによって生まれたのです。


『参加する=創造する』

 4月20日、アースデイ東京の千人自転車大パレードに参加してきました。私はここで、いかに日本人が『参加の意味』を『参加の醍醐味』を理解していないかに嘆きました。東京の中心を走り抜ける中、全ての歩行者の視線を集めているのに、ほとんどの人間はなにも自己主張しようとはせず、ただ漫然と黙って走っている。あれでは歩行者に私達の意志は伝わらないし、果たしてパレードの場にいた私達は本当に『参加』することを楽しんでいたのだろうか。参加とはもっと自己主張することです。個々が独創的な行動を通して、自己表現を楽しむことです。

 私達はいつのまにか、『参加』を、ただその場にいるだけの『出席』と取り違えていないか。私達は自ら生み出す(創造する)事の楽しみを放棄して、与えられた物だけに安住しきっていないか。確かに社会は限りなくマニュアル化し、私達は創造する機会を奪われ、その楽しみをどこかに置き忘れてしまっています。学校は『学ぶ』場ではなく、板書されたマニュアルを暗記するだけの場と化し、職場では人間はマニュアル通り命令されるだけの会社や工場の歯車と化しています。

 しかし、本来の人間の生きる歓びは『創造する=参加する』という姿勢にこそあるのではないか。芸術家などという職業の区分けは大嫌いです。人間は皆が芸術家でなくてはならない。そして、創造的な(『参加』を心得ている)人間のみにバイタリテイは宿るのだと信じます。

 『参加』するとは自分が何かを能動的に創造する事です。今、社会のあらゆる所で、『参加』の機会は奪われている中、数少ないチャンスのひとつに市民運動は位置づけられるのではないでしょうか。市民運動は文字通り、一人一人の市民が能動的に『参加』する事が前提条件にあります。私達は市民運動から、『参加』の悦びを見い出せるかもしれません。


『参加と出会い』

 市民運動に参加する楽しみのもう一つに、人との『出会い』があります。参加する度に私達は新しい、しかも普段の生活では得難い出会いに遭遇します。私達は普段、つくばという超モノカルチャー社会に暮らしています。社会の構造の中で、学生は学生の中から、研究者が研究者の中から、なかなか抜け出せないので、なんとなく活力がありません。私は市民活動はあらゆる人がモノカルチャー社会から抜けて、多様な人間関係を回複できる一つの場だと思っています。私は運動への参加を通じて、あらゆる立場の人から様々な事を教えていただきました。時には日本語を大切に使う事を教わり、また80を越えたおばあちゃんに『少年老いやすく、学成り難し』と暖かい戒めをうけます。様々な人生を歩まれた方々の何気ない行動や言動から、やはり人間にとって一番大切なのは自分に対する謙虚さと他人に対する優しさかとしみじみと感じました。

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