//代理戦争//

a proxy eden

「代理」じゃない戦争なら、思う存分暴れれば良い。滅多にないけどね。
 そろそろ、このネタで文章を書いても良いかという気になった。僕にとって恐ろしくキツい仕事だが、同時にひどく書くことに飢えてきた文章、自分自身を悩ませ続けた1−2年間の軌跡の昇華物。


 何らかの、自分とは関係が薄いものの社会的に有用とされるモノに没頭する事に対し、僕は個人的に「代理戦争」と呼ぶことにしている。『義憤』とか『社会正義』とか『イデオロギー』とか言われるそうした活動は、100%例外なく「自分の存在に客観的有用度を付加する試み」という位置付けを背後に抱え持つ割に、本人達には至ってその自覚がないことが多過ぎるからだ。世に溢れる偽善行為は様々な形があり、偽悪と紙一重だったり最後っ屁的な糞意地だったりする現実も多いので一概に有害かどうか測れないが、この「代理戦争」によるものは確実に醜い

 そしてこの「代理戦争」の存在は、世界を呪うものにとって非常に利用しやすいリソースであるが故に危険である。「社会」正義ゆえに規模が大きくなるのは必然で、また「イデオロギー」ゆえに「正当性」を論証することが一部のその分野の専門家に手渡されるので難解になるので、大衆心理学的な知見が生かせそうなまでに得てして無反省(何となく正しい気がする→ゼッタイに正しい行為で敵が間違っている、という認識のジャンプが極めて簡単になってしまう。

 そんなに危ない存在の癖に、所謂「インテリ層」になればなる程この「代理戦争」に巻き込まれる事が多くなるようだ。筑波の仲間たちが良い例で、我々が外部の大学生から『プチインテリ』と言われる理由の一つなんだろうが……何故だ? 別に目の前の生活に困窮していないが故に暇だからとか(反例;日々の睡眠時間が借金対策で2時間という超絶スケジュールを組んでいた人が、熱に浮かされたように「代理」の夢を仮託して僕に語った)自意識過剰で「わたし」を表明したくて溜まらない層だからとか(反例;過激で華やかな人々は別の芸術的な方法で「わたし」を表明していて、もっと無難な人々「代理」に拘っていた)、周囲に自分達以上の「知的リーダー」がいないからとか(反例;外部からパネリストを招いてまで彼らは「代理」を遂行しようとした)、そんなのは理由にならない。

 妥当そうな理由を挙げれば、外部で既に厳密に構成され設えられた闘争の条件に、全てカンタンにフリーライドすることが出来るので、自分が束の間の「時代の先導者」になった気分に浸れることだろうか? 或いは、普通なら諦める筈の『クソ下らない現実』を「改善」出来なくとも、最悪でも「変化」させられるという思い込みと、そのままの世界なら要らないという世界への残酷で危険な諦念が働いているのか? それとも……既にそれだけが自分の居場所だと思い詰めるからか?

 僕が、それまで音楽頁しかなかったこのサイトを本格的に広げ始め、やや痛い文書日記をネットに公開し始めたきっかけ=僕自身の「自殺未遂・未遂」記念日を呼び込んだ理由=睡眠相が滅茶苦茶に混沌とした様相を呈してしまうまでに落ち込んだ理由、は全て、この「代理戦争」の敗北にこそあったことに後ほど気がついた。具体的な理由の経緯については本文と関係ないのでココを見て貰うとして、本質的に自分とは直ちに関係ないことでの挫折に拘る最大の理由は、居場所を削られたような思い/居場所を自分で拒否したような思いに囚われて仕舞うほどに、その対象に心から拘泥し依存しているためだ。そこにしか居場所がないという程までに、日常生活での潤いが存在せず、乾き切って追い詰められていた為だ。

 何故、そこまで煮詰まり日常を圧縮し得るか? それは、我々がどんなに危ない外道味な台詞を吐いたとしても、本質的には「いい子」の「秀才」集団だからだ。価値の他者による定義に親しみ易く、他者の定規の中で勝利することで自分の居場所を築き上げてきた集団だから、その定規が自分達を本格的に囲って押し潰してきた際の対処能力に欠けるからだ。自分が認める権威ある集団に言われた事であれば、その結論が「我々は死ね」であっても通してしまうような所が我々に共通の特性なのだ、と今では睨むことが出来る。そして自分達が知らない間に根底から損なわれ続けた「自分自身である価値」の復権が、忌まわしい「代理戦争」から抜ける方策だということもだ。……これらの概念は自分で割り出したものだが、後で触れることになったアダルトチルドレン関連の分析の方法論とよく似る。「代理戦争」に好んで(あくまで本人の意識としては「巻き込まれて」の筈だが)行く層が所謂「インテリ層」であるという観察とも矛盾しない。……僕も人格の「障害」者の一人なのかも知れないと、今更ながら覚悟している。


 まぁ、そうやって僕にとっての「今」そのものを分析して反省しても、色々判断し切れていない部分は大きい。例えば抽象的な例でいえば、何かの課題が人々に変革を迫る場合、我々は例外なく「自分の経済基盤」に則って動かざるを得ないのか? 革命権のような概念はウソだと言うのか? という疑念が残ってる。生活実感の無理が来る以前の「ラク」な変化だけで全てが解決できるとも思えず、何らかの激しさ濃さを伴った変革だって不可欠では? という気分だって依然残り続けている。こういう気分が単なる「現実」なのか、それとも秀才クンが持ちやすい「素直じゃない攻撃性」なのかは、もはや僕自身じゃ判りようもない。

 また、現実的な資金源(=就職先/就職戦線)の愕然たる激減・でも笑い事じゃないのね……)を見て、やっぱり僕は居場所を自分で蹴りだしたんじゃないかという疑念が再燃する時すらある。あんな苦痛と諦念と救われなさの色濃く残る空間しか生きてゆく場所がないのか、という暗澹たる恨みと共になので、何れにせよあの空間に還る事は、恐らく先に死ぬ狂うかする為に在り得ないだろうとは思うものの。

 でも確実にいえることは、それでも僕は「代理戦争」を完全に停止させた今の自我ほど、安定した気分を続けられている時代はなかったという事実だろう。生活的に面倒が多かろうが何だろうが、ギアをひとつ落とした上での高回転という印象=ラクだ、としか思えないのだ。日々の欲望の範囲内で動けるという幸せ! その幸福感を続ける為にも、少なくとも僕は全ての人へ「「代理戦争」は止めた方が身のためになるかもね」とだけは言い続け、自分自身は自信を持ってこの戦争を停止させる気でいる。かなり強い意志で。


 秀才クンに告ぐ。もっと「動物」で、「今・ここ」に生きている、「着飾らない」己と再会すれば、我々は多分ラクになれる。
 願わくば、そんな君をそのまま認めてくれる他者に出会えればいい。



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