//環境問題//
environmental curse
「自然全体への人間の活動拡大を止めよう、その為の方法を知ろう」などという大それた目的を掲げて入学した僕だが(今となっては恥ずかし過ぎる)、人間の技術体系自体の限界が至るところで露呈しつつあること、企業でさえも生存ぎりぎりの範囲では環境に責任を持ちはじめたこと、放っておいても人類は遅かれ早かれ『持続可能的文明』に移行するしかない(軟着陸出来るかどうか、は別にしても)こと、以上の条件でも尚環境を重視する人々は、大抵はそうすることで自分がトクする立場にあることなどを考えて、これら環境保護的な動機は恥ずかしいというレベルさえも越えて僕を腐らせている。(『ヨコハマ』項にかなり色々書いた)
多分、これから先の自然保護はどれを取っても圧力競争にしかならなくなる。どれ程の食料が必要か、どれだけの生産活動を望むのか、どれだけ人口を膨らませるべきか、これらのプランが一義的に決まるはずもない(決まったら怖いし)。そうなると、先に問題が「発見(=捏造)」され、それを「民主的に(=圧力的に)」「解決(=一時的講和)」されてゆく風にしかならない筈である。現実の諸環境問題は、最早R・カーソンの時代のように発見されてはいないことを裏付けている……そんなレベルで発見されるような、単純な問題はもう掘り尽くされ、喰らい尽くされ、全て専門家が巣を張ってしまった。
環境問題は、そこまで高度化/洗練化されたのである。
ただ、本気で我慢ならないことも無い訳じゃない。
『環境問題』を『解決』するために『生産を減速させる』のが正しいと捉える方法がある。これは理論としては理解できる(多分正解だろう、とも)。しかし、そういう世界観を『本気で愛する』同世代がいるのだとすれば(先代なら、まあある程度理解出来なくない。色んなものが変わったし)、最早怒りを通り越して哀れみしか感じない。
人間は、この種は、ここまで来たのだ。ここまでの諸力を手に入れるまでに発展したのだ。人類が築きあげて来たこの文明を、生命の限界にぶち当たり死ぬ気で永遠や理想境を目指した先達の必死の思いを、こんな環境悪化程度で断ち切って全て放棄せざるを得ないという悲劇が解らない人々とは、正直言って話をしたくはない。よしんばこういうことが解っていて、それでもまだこういうのが好きな奴は、今度は破壊主義者か物凄く自分を騙すのが上手い奴かだろうし(何だか信頼置けないカンジが漂う)。
「持続可能な文明形態ではやれる事に限りがありすぎる」という世界観の中に僕が生きているのも、本当は無関係じゃないんだけど。でも妥当じゃないかね?