遠い未来に来たるべき「アナーキー的共産主義」(※)時代の為のバイブル。
でもそんな歴史は、多分……少なくとも近未来には、来ない。
(※(c)David Pepper 少なくとも一般的な意味の「共産主義」なんかじゃない。)
口コミで密やかに拡がっている漫画の一つに『ヨコハマ買い出し紀行』というのがある。僕はコイツと、村上龍好みの世界観を扱ったゲームの終りで「こんなのばっか」という台詞(溜息付属)を吐いた直後、友人に『珍しい終末論』として紹介されたというヘンな出会い方をした。宣伝などほぼ皆無なのにウェブページ上では既にここまでのファン層を獲得していること、連載が月刊『アフタヌーン』である事、かなり哲学的な内容である事など、岩本均の『寄生獣』の時と状況がそっくりだと思う。
内容紹介はリンクに任せるが、この漫画は『読むと非常に和む』点がウリとされている。『魅力的なキャラクター』を推すむきもあり(僕には何か媚びモードに見えるけど)、その手のページの方が正直言って多い。だが僕に言わせれば、それは別の漫画にもあったテーマであり、設定に独自性(主人公がロボット)はあるものの、主人公が体現する主題『母性』をウリにした漫画作品ならもっと良質なものがあるのだ。そしてそういうのには僕は臭さを感じる。女性達は母性を『体現する』のではなく、社会的要請に応える形で『演技する』のが実際の在り方のようだし、男が描く女が(又は、女が描く男が)異常に都合のいい存在にしかなれないのを散々見せられて来たから。そして、都合良い奴が描かれていると最初から判っている場合、少なくとも僕はがっかりするだけだ――だって、そんな現実にいそうにない奴に感情移入しただけ、損だ(自分が何を望んでいるのか/異性の望みが何なのか、は判るけれど)。
正解は『ノスタルジー』、自分たちから失われていったものを見よう、自分の周囲から今失われようとするものをよく見よう、そういう漫画だと何処かでのページで見た。僕もこれで正解だとは思う。
でも僕がコレに異常に入れこんだのはこんな理由じゃない。『文明の終着』をこれまでのどの物語よりも優しく描いている、という点が主題だと早まって考えたくなる。他の、例えば『AKIRA』とか『攻殻機動隊』とか『ブレードランナー』とかの終末資本主義っぽい方向には捩れて行かず、といって『ナウシカ』とか『ウォーターワールド』とかの部族戦争状態まで退行した状況とも違っている。資本にも管理にも部族にも食糧にも宗教にも環境にも捕まらず、ゆえに戦争から遠ざけられ、殆んど『軟着陸』といっても差支えないほどの上手な終着方法を見せている。恐らく世界でも初めての提示ではないか。文明=『可能性』の放棄と自然への邂逅も『母性』を中心軸とした物語にはよくあることだが、この物語はたぶん桁違いにその辺のことが考えられている。
2度と着陸できない人工衛星、欠けた富士山、そして常に続いている海面上昇。法制度はたぶん壊滅していて、ナンバープレートが無い車に腐りかけたガソリンを入れ、護身用に短銃を装備して、補修ができなくて割れたアスファルトを移動する人々。たかだか黒崎か朝比奈(神奈川県)から武蔵野(東京都)に行くだけで『別の国』として把握するほど移動が大変に感じられてしまうような、貧弱な交通手段しか既に残されていない状況なのに人々は結構明るい。当面の食糧には困っていないようだし、戦争も失われたのかロケット弾も花火として使えるようだ。椎名誠の小説とは違い人々は失われた文明を実は相当好きらしく、何かと物事に感じ入るようになっていて、自然環境との邂逅も進んだ、本当に詩的な時間がゆったり流れているのが判る。誰も死なないし、殺されない。自律心を人間と変わらないレヴェルで表現するロボット=主人公の存在は、現代科学の粋を以てしても出来ていない『自我発現』が完成し且つそれが人間を脅かさないような社会体制が出来ていたことを示唆する。彼女が文明や可能性の残り香を感じ取って泣くくだりは、百戦錬磨のすれっからしの読み手の涙腺をも確実に破壊する――何てゆうスバラシイ文明の記念碑を、人は造ったんだろう、と!
現実の文明体系が破綻するのはそう遠い日の事ではない、というのが僕の所属する学部の合い言葉になっている。環境・資源・食糧・廃棄物問題がどちらを見ても好材料がなく、『持続可能な開発』という言葉が嘘にしかなっていない現状を毎日のように見せられるからだ……そんなものを悠長に行なっていられる程には世界経済は裕福ではない、というような情けなくも難しい事が理由らしい。
世界のまだ『(経済的)離陸』していない開発途上の国々が必死になって『滑走』を狙ってくる事を、先進国側の僕らがどうして責められよう。そして『離陸』してしまった僕らでさえ経済を安定させてはいず(寧ろそれどころか息絶える寸前と言った方が正確だろう)、長引く不景気の雰囲気がどこか第2次世界大戦直前を彷彿させるようなキナ臭い状況では、環境への配慮は商品の差別化にこそ使われるものの、開発のペースを凋落させていこうという根本的な流れを誰も言い出せない。誰も、自ら進んでは飢えたくないからだ。
持続不可能な開発を続けた場合の終末は、自然に強引に『着陸』させられるパターンだろう。この着陸は諸生命を巻き込んだ壮大な『自爆』となる、というのが識者達の趨勢である――科学技術をそれこそ死に物狂いで世界に叩き付け、利用可能な生物、鉱物、エネルギー、等を全て使い切るところまで使い尽くして、その後自然の生産物の供給が停止することで強制的に持続可能生活レベルまで引き下げさせられるパターンである。この過程で資源の強奪の為の戦争が起こるというのが割と一致した見解になりつつあるために、多少は現実路線を狙った未来物語がどれも鮮血で彩られる暗いものとなるのだ。
亜種の着陸方法は『強制着陸』で、科学と権力の結託(テクノクラート専制)で人口と資源と諸活動とを完全に管理しながら――こんなに強烈な意思統合を行うために、やっぱり血生臭い異端排除法を持ち合わせるという設定が多い――持続可能な生活レベルにまで落としてゆく方式を取るらしい。他にも『着陸』の方法はいろいろあるが、どれも『自力では生活レベルを落とさない』『人口は漸増する』『資源は有限である』という前提条件の為に、不幸そうなものばかりが目に付く。実のところ、着陸方法のバリエーションはこの定義に『科学技術はもう伸び悩んでいる』とか『種の限界が来ている(僕にはナゾだ…?)』を認めるか否かで割れているだけの気がする。
僕らの世代の言説が超カルいのは、本当のことを知りたくないからだ。知ったところで絶望するに違いないことだけを何となく知っているから。こうも絶望的なのは、こういう未来を辿る世界で生きてゆく他ない(この青地図を描く行為に加担しなければ、自分が今食って行けないから)という世界の青地図によるところが大きい筈なのだ。更に危険なのは、学者や政治家や作家の世界改造プラン=修正版の青地図がどれも空しさ一杯の世界にしかなっていないこと――環境問題が実在しないとか(嘘つけ!)、自然回帰というスバラシイ方法しかないとか(僕は自然という限界が嫌いだ)、この問題は解けないから諦めようとか(僕らは何もせず死ねと?)、計算で環境価値を定量化できるとか(非恣意的に可能ならやってみろ)、考える余裕はなく行動するしかないとか(貴方の不完全な理性に躍らされるのは御免だ)――が、僕らのやる気を殺ぐのだ。だから……。
だから、この物語の出現は大きな意義があるのだ。『着陸』が避けられない宿命である事はそのままに(そして、よくある自然回帰待望論とは異なり、それが本当は人類にとっての悲劇であることも十分に表現しつつ!)、出来る限り上手な『軟着陸』を図ろう、ふんわり優しく誰もが幸せに降りられる方法を探そう、という主題を僕らに見せるからだ。『着陸』を否定するような楽観的な物語の嘘臭さよりも、非現実的なファンタジーを求める逃避の後ろめたさよりも、確かに現実を見据えてはいるがハードに過ぎる光景の嫌悪感よりも、確かに上手な『着陸』を見せつつも何処か教条性の漂う世界観よりも、『ヨコハマ』的世界をこそ信じ実践すべきだ。少なくとも、僕は本気でこう考えている。
課題は、積極的に上手にこのような社会を造り上げる方法論を殆ど知らない事なのだが(じゃやっぱ同じじゃん)……ホントは一つだけ知ってるけど。単なるファンタジーとして切り捨てるには、あまりにも惜しい物語である。是非とも和みたい方のみならず、社会派を自認する方、環境/農学部の方、疲れ厭世的な方もご一読されたい。あったかいコンクリに座って、夕凪のとろとろした潮風を味わいつつ。