ビゼー:歌劇《カルメン》

19世紀フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー(1838−75)には、劇音楽《アルルの女》や、17歳で作曲した交響曲ハ長調などの傑作もありますが、彼が生涯を捧げたのはなんと言ってもオペラで、なかでも《カルメン》はその最高傑作として世界中で上演されています。現在世界で最も人気のあるオペラと言っても過言ではないでしょう。
《カルメン》はパリのオペラ・コミーク劇場の依頼により、1874年に書き上げられました。台本を書いたのはアレヴィとメイヤック、原作はフランスの文豪プロスペル・メリメ(1803−70)の短編小説『カルメン』です。しかし原作の辛辣な内容に劇場側が難色を示したため、オペラ化にあたってビゼーは原作の筋や登場人物を少なからず変更しました。たとえばホセの許婚である純情な娘ミカエラは原作には登場しません。興味のある方は、岩波文庫などで原作が手軽に入手できますので、ぜひお読みください。 1875年の3月3日、《カルメン》はパリのオペラ・コミーク劇場で初演されましたが、舞台上で殺人が行われるという結末などが不評を買い、失敗に終わりました。この失敗が心労となり、病気がちだったビゼーの寿命を縮めたのか、初演3ヵ月後の6月3日、ビゼーは37歳の若さで急逝してしまいます。ただ初演の失敗にもかかわらず、ビゼーが死ぬまでの3ヶ月の間に、《カルメン》は33回も上演されました。
《カルメン》は前述のようにパリのオペラ・コミーク劇場(オペレッタなどのセリフ入りの軽い作品を上演する庶民的な劇場)のために作曲されたので、本来は曲と曲との間にセリフが入る「オペラ・コミーク形式」で書かれました。ところが当時は、曲と曲とをつなぐセリフの部分にも音楽を付け(「レチタティーヴォ」といいます)、バレエなどを挿入して豪華絢爛に仕立てられた「グランド・オペラ形式」がもてはやされていたので、ビゼーの死後、1875年10月にウィーンのオペラ座で上演する際には、友人のエルネスト・ギロー(《アルルの女》第2組曲の編曲でも有名)が、「グランド・オペラ形式」に書き換えました。そしてこれが当たって大喝采を浴び、これをきっかけに《カルメン》は世界中で人気を博すようになるのです。それ以来この「ギロー版」が《カルメン》の一般的な楽譜として使われ、このオペラの普及に一役買うことになります。
一方、本家のオペラ・コミーク劇場などでは、初演以来のシューダン版(ビゼーが契約した出版社の名前)による「オペラ・コミーク形式」で上演されていましたが、こちらの方も上演時の都合で細部が書き換えられることが多く、ビゼーのオリジナルとは異なったものになってしまっていました。ところが、《カルメン》をビゼーのオリジナルに戻そうという動きが現れます。1964年にドイツの音楽学者フリッツ・エーザーが、ビゼーの自筆譜等にあたって校訂したオペラ・コミーク形式による楽譜が、ドイツのアルコア社から出版されたのです。この楽譜は「アルコア版」と呼ばれ、ビゼーのオリジナルに一番近い版として、現在では多くの舞台やCDの演奏で使われています。 しかしオペラの上演は、その時々の舞台演出や演奏者の都合で、細部が変更されるのが常識となっています。本日お聴きいただく演奏では「ギロー版」の楽譜を用いますが、ギローが作曲したレチタティーヴォの部分はカットして、再びセリフに置き換えているほか、細部に独自の変更を加えています。いわば、「荒川区民オペラ版」といってもいいでしょう。


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